41 進一の選択
進一が思い浮かべたのは、見慣れてしまった、文恵とプータローの情景。
膝の上でくつろぐキャラメル色の猫が、やさしく撫でられてグルグルと鳴いている。慈愛に満ちた眼差しと微笑みが、まったりとした猫に向けられている。
心に刻まれた一枚の絵は、忘れようもなく、疑うようなものでもない。
だからこそ。
なんでそっち?
進一はプータローに目で訴える。なぜ理香の膝なのか。いつもと状況は違うにせよ、そこは彼女の膝じゃないとおかしくはないのか。なぜ初対面である理香の膝で落ち着いているのか。もしかして幻なのか。目の前にある光景は現実ではないのか。
プータローは気だるそうに睨み返してきたが、動く気配はまったくない。
進一はとりあえず考えてみた。もとより常識が通じる相手ではないが、もしかしたら間違っているのは自分の常識かもしれない。たしかに猫の生態についてくわしく知っているわけではない。こういう状況下において、一般的な猫はどのような選択をするのだろうか。これまで投げかけられてきた愛情など一切関係なく、その場で適当に良さそうな膝を判断するのだろうか。
進一にはわからない。
なにがどうなっているのか、なにひとつわかってはいない。
わずかに悩んであきらめて、今度は、泣いている文恵をみつけた。
潤んだ瞳から涙をこぼして。
唇を噛みながら、声を閉じこめて。
シャツの裾を握り締めながら、少し震えて。
喜びもなく、幸せもなく、怖くて哀しくて、ひとりぼっちで泣いていた。
頬を濡らした文恵が、その涙目で進一の視線をとらえる。すぐに泣き顔を隠すと、背をむけて立ち上がり、文恵は逃げ出した。携帯電話やバイクの鍵も、なにもかも置き去りにしてドアへと向かい、そのまま部屋を飛び出していった。
進一は、予測も、対処も、なにひとつとしてできはしなかった。
なにが起こっているのか、現状をなにひとつとして理解はしていない。声ひとつ出せないでいる。
プータローのことも。文恵のことも。理香のことも。自分自身のことも。
わからなくなっている。
気がつけば、進一は立ち上がっていた。
彼女を、追いかけないといけない。
進一はふらふらと六畳間から足を踏み出した。背後で動く気配がした。振り返ると、理香が見ていた。動いてはいない。プータローを膝にのせたまま、座ったままの状態で進一を見上げていた。
彼女を追いかけないといけない。
けれど、理香がいつもより幼くみえて、進一はその場から動くことができなかった。
わずかに潤んでいた理香の瞳は、戸惑いを含んで繊細に輝き、とてもきれいだった。
儚く崩れそうでありながら、それでも理香は美しくあった。
震えるほどに美しかった舞台上の理香は、もう二度と見ることができないのだろうか。
進一は忘れない。もっとも大切な人は、誰よりも美しく輝いてみせる。舞台の華に心を奪われたとき、導き出した答えは「終わり」だった。理香と出会うために生れてきたと信じることはできたのに、ふたりで生きるために出会ったと信じることができなかった。自分の役割は終わったのかもしれない。生きる意味を奪うほどに、華は美しく咲いていた。
プータローのふくよかな身体を、理香の両腕がやさしく包み込む。眠たげに細くなっていた蜂蜜色の瞳が、ゆっくりと開かれていった。気だるそうな半眼で、プータローは進一を見上げる。
猫に、選択を迫られているような気がした。
お前は理香を捨てろというのか? こんな理香を置いていけというのか?
進一は心でプータローに問うた。
また少し、蜂蜜色の瞳が開かれる。
進一をみる蜂蜜色の瞳は、やわらかな光を放っていた。
はじめてみせた大きな瞳は、優しい光を帯びて、透き通るような美しさで輝いていた。




