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40 猫の選択

 重たい場所では、時計も苦労をするらしい。

 沈黙が圧しかかる進一の部屋で、アナログ時計が日常を演出しようとして失敗を繰り返していた。秒針の足どりは鈍く、時計の活動音が聞き慣れないリズムで室内に響いている。


 ふっと、進一の脳裏に記憶がよみがえった。


 ドア越しに響く酔っぱらいの歓声。肌寒い冷房。床一面に張られた淡い緑色のタイル。狭い空間に満ちた、酸っぱい匂い。

 みるからに冷たそうな床のうえで、膝を屈している男がいる。

 立っていれば、短く無造作に刈り込まれた黒髪は180センチの高さにまでとどく。無駄のない引き締まった身体つきをしており、肌は小麦色にやけていた。「海人」と描かれた白いTシャツを着て、あちこち破れたジーンズと革のサンダルをはいている。小麦色の肌は沖縄の太陽にやかれたものだが、白い砂浜でナンパをしていたわけではない。美しき島々では、海釣りと昆虫採集に励んでいた。

 男の名は一条孝雄。

 孝雄は膝を屈して、彫が深く、多くの称賛をあつめる顔を、洋式便器にかくしている。

 進一は水の入った大ジョッキを持ちながら、友人の頼りない背中を見守っていた。孝雄がうずくまって、すでに五分はたつ。一応、孝雄の動きは落ち着きをみせていた。

「大丈夫か?」

 進一が孝雄に声をかける。すると、孝雄はゆらりと頭をもたげ、便座に手をついて立ち上がろうとする。

「すまん、わるかった。大丈夫なわけない」

 進一は孝雄の動きを制しつつ、孝雄の口もとにジョッキを近づける。ジョッキを受けとった孝雄は、水をふくんで口をすすぎ、便器の中に水を吐きだした。トイレのレバーを動かし、盛大なせせらぎのなか、今度は水を胃に流し込む。水流の音が消えるころには、大ジョッキの水を飲み干していた。

 進一がジョッキを取り上げると、孝雄は床にへたりこみ、大きく息を吐きだした。

 深呼吸のような、大きな吐息。

 酒好きでもない孝雄が、ここまで飲むことはめずらしい。

 この日は、ヤケ酒だった。

 酒やら息やら、いろいろと吐き出して、多少はスッキリしたらしい。孝雄は進一と向かい合うかたちで壁にもたれかかると、静かに目を閉じた。

 心を落ち着けたいときは目を閉じて十秒を数える。考えをまとめるとき、重大な決断をするときなど、心の穏やかさを要求するときには効果的な方法だ。と、進一は何かで読んだことがあり、孝雄に話したことがあった。

 考えたいことがあるのだろう。進一は黙って孝雄を見守る。ドア越しの歓声が一際大きくなって、孝雄はゆっくりと目を開けた。顔はゆがみ、笑っているようにも見える。

「進一さんは、知ってますか?」

 孝雄が口を開き、進一を見上げた。

 十秒間の沈黙の果てに何を悟ったのか。

 進一の視線が、孝雄の顔をとらえて動かない。

 孝雄はしっかりと顔をあげ、進一を見据えて言った。

「血で血を洗う。酒で酒を割る。女と女が睨みあう。そういう場所を、ひとは修羅場と呼ぶんですよ」

 孝雄はふたたび目を閉じる。

 進一が意味を測りかねていると、孝雄はのそりと動き出し、またしても便器に顔をかくした。

 進一は、とりあえず背中をさすってやった。小刻みに震える孝雄の背中をさすっていると、笑いがこみあげてくる。最初は口角を上げるだけだったが、そのうち声を出して笑っていた。

「怖かったんだな。女と女の闘いが怖かったんだな」

 孝雄にささやきながら、進一は楽しそうに笑う。

 どうやらショックから立ち直りつつあるらしい。精神的にはもう大丈夫だろう。

 進一は安心しつつ笑っていた。

 そして笑いながら、ジョッキに水をもらいに行った。



 脳裏によみがえった記憶。それは居酒屋のトイレを舞台にした懐かしい思い出。

 進一は、頭のなかで響いている自分の笑い声に違和感を覚えた。

 なんでいま、こんな笑い話を思い出すのだろう。

 進一は意識を外側に向ける。


 住み慣れた六畳間の一室は、とても静かで、見たことのない光景を作り出していた。


 左斜め、ベランダ側に理香が座っている。

 正面には開け放たれた窓。

 右斜めのキッチン側には文恵が正座している。


 進一、理香、文恵の三人は等距離を保って座っていた。天井から見下ろせば、正三角形が連想できる。

 ひとつの部屋に、女二人と男が一人。

 べつに女同士が睨みあっているわけではない。体の向きも相対しているわけでもなく、理香も文恵もうつむいたままだ。

 理香は目の置き所を探すように視線が定まっていない。

 文恵は畳の表面を見つめているが、どうも焦点が定まっていない。

 読み取れるのは、困惑と自失。


 修羅場ではない。生命を脅かす根源的な恐怖はないが、非常に重く、気まずい空気が圧しかかってくる。エネルギーは散らず、ひたすら重みを増している。にもかかわらず、頭のなかでは笑い声が響いている。

 進一は、ふっと思う。

 連想したのは昨年の夏。ツチノコを探して山の中、見事に遭難しかけたときには不思議と全員が笑い出していた。笑えない状況で、自分が笑っているときの記憶がよみがえるのも、なにかの末期ではないだろうか。


 なんにせよ、終わらせないといけないよな。


 静まりかえった室内で、アナログ時計が重たい空気を振動させている。進一は乾いた音を耳に流して、ひどくゆったりとしたリズムを感じながら、自身の情けなさに嫌気がさした。

 いまの状況を作り出したのは、恋人への未練。疑いようもなく自己の責任。

 進一は口もとを歪める。

 理香のことは、きっと受け入れてしまうだろう。理香の夢を犠牲にしたとしても、舞台で輝く姿を失うのだとしても、いずれは受け入れてしまう。だから、もう少し時間が欲しい。目の前にある幸せを受け入れて、喜びを伝えられるようになるまで。


 だから、いま解決すべきなのは、理香のことじゃない。


 進一は文恵の様子をうかがった。一見して、落ち込んでいることはわかる。

 そんなに帰りたかったのか? いやたしかに浮気相手と疑われたら居心地は最悪だろうな。あいつと戯れるのは次回にしてもらって、今日のところは帰ってもらったほうが……。


 などと考えてはみたものの、どうにも声がかけづらい。哀しい雰囲気に気圧されて、帰ってくれとは言えそうもない。不用意な発言で空気を重くした自覚もあり、現状打開における自己の無力さをしみじみと感じてしまう。


 ……先に来たのは彼女なわけで、あとから来た理香に帰ってもらうのが筋だろうか? 戯れる機会がいつになるのかも気がかりではあるわけで……。


 重い。


 重さを増した気まずい空気が、ずっしりと圧しかかってくる。悩みごとを解決する場合、時間は味方となってくれるはずだが、この空気を背負って耐えるしか術はないのだろうか。

 秒針の足どりは重いが、たしかに足音は聞こえてくる。間違いなく時間は流れている。だが、耐えてどうなるのか。このまま耐えていれば、事態は改善されるのだろうか。現状、時間は味方なのだろうか。


 沈黙に埋もれて、秒針の足音が遠のいてゆく。


 キャラメル色の猫の姿が脳裏に浮かび、進一は、開け放たれた窓から外の世界をながめた。

 活路が見えた気がした。祈るような心境であったことに気づいて落ち込んだものの、猫が活路であることは否定できなかった。


 あいつは来るだろうか? 極上プリンを見逃すとは思えないが、猫だって空気は読むだろう。あいつなら間違いなく察するはずだ。近くまで来ても逃げるかもしれない……いや、あいつはどんな状況であってもあらわれるような……というより、こちらの窮地を察して、あえて入って来ない? まさか、すでに来て観察している? この状況をどこからか楽しんでいるのか?


 進一は疑心に陥り、常識をひっくり返されたような驚きを味わった。

 過去に繰り広げられた様々な苦悩がよみがえりもしたが、過ぎた瞬間、それはない、と思い直す。



 彼女の窮地ならば、あいつは助けに来る。



 犬小屋を踏み台にして、あの猫はあらわれる。こちらの都合など無視をして食事を要求するはずだ。そして当然のごとく、理香がもってきてくれた極上プリンを狙うに違いない。


 心に希望の光が差し込んでくる。


 猫が動けば人間も動く。

 この気まずい状況も変わる。きっとよくなる。これ以上、悪くなりようがないのだから。


 理香が猫好きでよかったと、進一はよろこびを胸に秘めた。

 

 猫頼みも悪くはない。あいつなら彼女の力になれる。それに機会をつかめれば、猫好き同士で会話が成立するかもしれない。彼女のことだ。きっと理香にも猫話を語り尽くすだろう。なんとなく、理香も負けずに語りはじめるような気がする。

 もっとも、あの図々しい猫を、理香が気に入ればの話だ。あいつが理香にどう対応するかも気になる。柴田は問題なかったから大丈夫だとは思うけれど……あのときのような猫の奪い合いがはじまったらどうなるんだ? ちゃんと仲睦まじくなるのか? 


 若干の不安要素はあるにせよ、プータローの来訪は活路に違いない。

 時計の足音が、鈍いながらも力強さを増している。


 進一は大人しい理香の向こう側に目をやった。テレビの上においたアナログ時計で時刻を確認する。

 三時九分?

 時間の遅れを感じる。しかし、それは一瞬でしかなかった。時計の存在に進一の胸はざわつく。文恵の存在を押し流すほどに理香への想いが溢れてくる。時計は目の前にいる理香以上に、理香と過ごしてきた時間の価値を進一に訴えかけてくる。

 理香から贈られた思い出の時計は、時の流れに磨かれて輝く、ふたりの想いの結晶。

 進一に、理香との絆を感じさせる。



 理香はまだ、あの時計をもっているだろうか?



 あの安っぽい時計を贈ったのは、サプライズを考えたわけじゃない。これからは同じ時間を刻もうだとか、一秒ごとに君を想うだとか、そんなことを言いたかったわけでもない。ただ、失敗をしただけだ。黒や灰色なんて理香の好みじゃない。激安商品に胸を躍らせるとも思えない。そこまでわかっていたのに、見事に失敗した。迷いはしたけれど、もしも理香が気に入らなければ、時計は自分でつかって、あらためてプレゼントを贈ればいいと考えて決めた。


 名誉挽回のつもりだったのに、あらためて贈ったプレゼントも失敗だった。記念日には二人でスイーツを食べることになり、形に残るプレゼントはお互い同じで、安っぽい時計がひとつだけ……でも、時計は気に入っている。理香の選択は間違っていない。こっちが勝手に勘違えて、相談する相手も間違えて、その結果が基礎化粧品セット……でもまあ、樹理さんのおかげで、いまでは理香との絆に思えるほど、この時計が大切な存在になっているのかもしれない。


 理香はまだ持っているだろうか。業者にまぎれて引越しを手伝ったときにはまだあった。悩むことなく置き場所を決めていたけれど、あの寝室に似つかわしいとは思えない。インテリアとしては失敗だろう。それでも以前と同じように、いまでも出窓に置いてあるのだろうか。



 失いたくは、ないよな。



 そんな答えを選べるわけがない。進一は苦笑した。理香に注意を払われていることに気づき、さらには文恵の存在をまたしても失念していたことに気づいて、終わらせようと小さく笑った。

 理香が求めてくれるなら、受け入れてしまえばそれでいい。

 もう二度と手放すことができなくなっても、なにを失うのだとしても、理香を失いたくない。


 覚悟を決めて、進一は顔をあげる。

 理香が進一をみる。文恵に反応はみられない。けれど進一に、もう猫を待つつもりはない。




 という心境にいたって、ゴトン、という音が聞こえた。




 いきなり決意を邪魔された進一は、頭をかきながら開け放たれた窓へと視線を移した。


 犬小屋から跳び上がり姿をみせた野良猫が一匹。

 プータローが、うっすらと縞模様のあるキャラメル色の猫が、ふくよかな身体を窓枠にのせている。

 やたらと長い尻尾を揺らして、こちらを見据える蜂蜜色の瞳は、じつに気だるく眠たげな半眼。

 警戒もなければ敬意もない。愛想などは欠片もなく、ふてぶてしさには揺るぎがない。


 脱力する進一につづき、理香が窓方向へと注意を払った。

 プータローの存在に気がついて、がっつり意識をもっていかれたのだろう。理香は一心にプータローを凝視していた。声すら出せずに、口を半開きにしていた。


 プータローはあくびをすると、窓枠から畳へ、そのふくよかな身体を落とした。前脚についで後脚と見事な着地ではあったが、無音というわけにはいかない。ドスッ、という重量感のある音が、振動とともに伝わってくる。


 そして、文恵が気づいた。

 伸びをするプータローを、潤んだ瞳で文恵は見ていた。かすかに微笑んでもいたのだろうか。


「プーちゃん……」


 かすれた声で文恵はつぶやく。その響きには嬉しさを感じる。


 沈黙が破れられた次の瞬間、理香は素早く振り向いて文恵を凝視していた。目を見開き、口は半開きのままで進一を見て、何か聞きたそうではあったが、結局はプータローに意識を戻した。


 進一と理香と文恵は、畳で爪を研ぐプータローを黙って眺めている。


 相変わらず静かな部屋で、畳のささくれだっていく音が、時計の活動音を打ち消している。

 まぁ、これはこれでいいんだろうか?

 進一が事態の急変を受け入れたところで、音が消えた。


 蜂蜜色の瞳が光る。


 秒針の力強い足音が聞こえて、プータローが動きをみせる。


 いまだ世界は重く、人間が誰も動けないなかで、猫だけが束縛もなく自由だった。

 三人の視線を受けながら、プータローはゆったりと歩み寄る。



 まっすぐに、理香のもとへ。



 一切の迷いをみせることなく、理香の膝の上に。



 プータローは当然のごとく理香の膝にのっかり、身体を丸めようと体勢を整えた。

 戸惑う理香など意にも介さず、じつにすんなりとプータローは落ち着く。



 進一の部屋で、理香の膝の上に、文恵がいるその前で。



 プータローが落ち着き、なにも聞こえない静かな部屋で、進一は軽く首をひねった。

 

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