39 閉塞
ダイニングキッチンに、恋人と後輩がそろっている。
なぜ理香がいるのか。理香の目的はなんなのか。進一は考えることをやめた。なにも考えずにいられたら、たいがいのことは受け入れられる。理香であるならなおさらだ。目の前に理香がいることは、否応なく喜びをもたらしてしまう。
進一は頭をかいて、困ったように笑った。
「理香さんって、その、佐山さんの恋人さん、ですよね?」
文恵が落ち着きなく、進一と理香を交互に見ている。
進一は「まぁね」と短く答えた。理香を紹介するのは、いつまでたっても照れくさい。魅力を語りだすと長くなるが、説明をはじめる前に、文恵が理香に向きなおった。
「あの、はじめまして、わたし、西園寺文恵っていいます。佐山さんには迷惑ばかりをかけてまして、今日も、ちょっと猫と遊ばせてもらおうとおもって、お邪魔してます」
驚かせてしまって、と文恵は頭を下げる。
理香も慌てて向きなおり、なにか言おうとして、途中でやめた。
「いつも……の猫はどこかな?」
理香は話を変えつつ進一をみる。
「いまはいないよ。そのうち来るとは思うけど……」
この場合、猫がいないとまずいんだろうか。硬い笑顔をみせる恋人をまえに、現状について整理すべく進一の思考は巡りはじめる。当然、猫など問題ではない。
「いや、というかなんで理香がいるんだ? 劇団は? まだ公演は終わってないんだろ? それに部屋まで来るなんて、団長の約束はどうなったんだ?」
「……うん、そのへんはだいじょうぶ。ちゃんと許可はもらってるから」
「許可? あの人が?」
困惑は疑惑に変わってゆく。進一の不安と焦りが、場に新たな緊張を走らせる。
「あの、わたしはお邪魔ですし、そろそろ帰りますね」
文恵の声は、少し震えていた。
進一の気がそれて場が緩み、理香がこたえる。
「いえ、ぜんぜん、気にしないで。私が連絡もなしに押しかけたわけだし、進一から話は聞いてるし、さっきだって、こっちが勝手に驚いただけだから。猫仲間として、ちょっと話もしたかったわけだし」
「ん? 理香、猫好きだっけ?」
「うん、じつはそうだったりするんだよね。進一がほら、猫は苦手だって言ってたから、ぜんぜん話す機会がなかったんだけど……」
会話が続かない。
どうしても恋人同士で話がつながり、文恵の存在が気にかかる。
「まぁ、ここじゃなんだし、とりあえず中へ。西園寺さんも、気をつかわなくていいから」
理香はダイニングキッチンを抜けて六畳間へとすすむ。進一と文恵も部屋にうつり、三人は畳のうえに座った。
奥のベランダ側に理香が座り、キッチン側に文恵が正座した。
進一は部屋の南側に腰を下ろす。正面には網戸まで全開になった北側の窓。右側に文恵。左側に理香がいて、理香のうしろには黒いブラウン管テレビがみえる。理香から贈られたアナログ時計も、定位置であるテレビのうえにあった。
「空気の入れ換えをしてるんだけど、理香は、寒くない?」
「うん、ぜんぜん平気。むしろ、ちょうどいいぐらいかな。ちょっと身体が火照ってたから……」
「まぁ、それもそうか。ずっと坂道を歩いてきたなら」
「そうそう、坂道、坂道」
理香はコクコクとうなずき、開け放たれた窓をみた。
進一は苦笑する。
「いつも、あの窓からやってくるんだよ。タローの小屋を踏み台にしてね」
進一と理香の表情が緩む。
「あっ、もしかして、網戸まで全開にしてるのって、猫のため?」
「まぁね。開けたのは、西園寺さんだけど」
「そう、なんだ……」
「……うん」
進一と理香が、文恵の様子を探る。
息を殺しているらしいが、存在感は際立っている。
「コーヒーでも淹れようか? インスタントだけど、砂糖はたっぷりあるから」
「うん、そうね。どうしようかな。プリンを持ってきたから、それを食べない?」
理香は紙袋のなかを探る。
「進一好みの極上濃厚カスタード。ちゃんと三個あるし……注文したときは覚えてたんだよね……西園寺さんの分も、スプーンもあるし、えぇっと……あれ? そういえば、なんでテーブルが片付いてるの?」
「ん? ああ、さっきまで布団をひいていたから」
「へえ、そうなんだ……」
進一と理香が、互いに視線をぶつけた。
「いや、ちょっと体調を崩して」
「えっ? ……ああ、そういえば、進一、顔色悪いよね。生気が欠けているっていうか、何日も眠ってない感じがするし……そっか。だから進一が部屋にいるんだ……学校を休んで……進一は寝巻き代わりのジャージでも、西園寺さんは別段くつろぎスタイルでもなんでもないもんね。進一がひとりでゆっくり寝てただけで、それならやっぱり、ここに来るの夕方にして正解かな」
抱いた抱いてないの問答は忘れようもないが、坂道での妄想を進一は知らない。まず間違いなく、進一が察する以上に理香の動揺は激しい。
そして、もちろん文恵もあせっている。
「ほんとにすみません。お休みのところをお邪魔してしまって」
文恵は一段と小さくなり頭を下げた。
進一としては笑うしかない。彼女はなにも悪くはないのだ。謝られても困ってしまう。
「そんなの気にしなくていいよ。寝ているなんてわかるわけないし、生姜湯までつくってもらって、来てくれて助かったと……」
次の瞬間、進一は理香をみて、理香は畳をみていた。
「そうだよね。ふつう看病するよね。しんどくなって寝ているってわかったら、なにかしてあげようとか思うよね。邪魔しないように考えるなんて、私って最低だよね」
「…………知っていたら、理香は来るよ」
理香はちらりと進一を見たが、またすぐに視線を外した。
「私って、いままで進一の看病とかしたことないんだよね」
「それはまぁ、風邪や病気には縁が遠いから。最後に寝込んだのって……小学生のときか?」
「……私、十年に一度のチャンスを逃したんだ」
うなだれる理香の姿に進一の心は乱れた。チャンスとはどういう意味なのか。どうすれば励ますことができるのか。誤解が解けているのかも心配ではある。いったい何を間違えたらこうなるのだろうと、進一は状況の整理を求めた。
会話が途絶えて、静けさが部屋に訪れる。
理香が沈み、進一が悩むなかで、文恵が正座を崩すことなく二人の様子をうかがう。
「やっぱり、わたしは帰ったほうがいいですよね?」
文恵は沈黙を破った。しかし、声をかけられた進一は、文恵のことを失念していた。理香のことばかり考えて、文恵の居心地の悪さに気づくほど、頭が回ってはいなかった。
「ほんと、気にしなくていいから。ただの後輩ってことは、ちゃんと理香もわかってるよ」
返答は早く、悩みを吐きだしたものに近い。
「きっとあいつも来るだろう。極上プリンを、見逃すとは思えない」
そう、あいつが狙わないはずがない。
少し笑えて、窓から外の景色をみる。流れて理香に、視線で合意をもとめる。
「……うん。私は、それでいいけど……」
意は通じたが、どうも様子がおかしい。理香は文恵に注意を払っている。こっそりと、視覚だけではなく、全身の感覚をつかって。
帰ってもらったほうがいいのか?
進一は理香の意識につられて視界を右にずらす。と、うつむき黙り込んでいる文恵の姿があった。空気がじわりと重くなり、すぐに自分の誤りを察するも、なにを間違えたのかがわからない。
「それで、今日はいきなり、どうしたの?」
沈黙を恐れて、進一はとっさに理香へ話題をふった。
「うん……連絡しないで来ちゃって、なんかごめんね。びっくりさせちゃおうとか思ってたんだけど、こっちまでわけわかんなくて……進一に、話したいことがあるんだよね」
理香がひかえめな笑みをみせる。
それだけで空気は和らいだものの、結果として進一に、心の準備を怠らせてしまった。
「団長から、長期休養の許可をもらいました」
不意をつかれて、後悔さえも追いつけない。
突きつけられた現実をまえに、進一は願う。くるみや劇団の現状、劇団員たちの意見、許可の真偽など、理香にいくつもの質問を投げかけながら、なにも考えずにいられたらと、願わずにはいられなかった。
劇団を辞めるわけではない。もう二度と、舞台に立たないわけではない。
ほんの少しの間だけ、夢から遠ざかるというだけ。
思いついた言い訳も、口を重くするだけで終わる。
理香を突き放すことなどできるわけがなく、それなら素直に喜べばいいと、わかってはいるのに。
「……だよね」
会話が途切れて、誰もなにも話さなくなった。