3 進一と理不尽な猫
見知らぬ猫の、突然の訪問。
驚きはしたが、犬派動物好きの人間にとって、うろたえる事態ではない。
「大人しくしていれば、残り物ぐらいやるさ」
進一はそう言って、キャラメル色の猫を歓迎した。
猫は桃色の鼻をヒクヒクさせながら、部屋のなかを見回している。
進一は猫を見守りながら、部屋にある残り物を考えてみた。ご飯はまだ残っているが、冷蔵庫はさっぱりとしている。食材はすべて胃袋か、ゴミ袋のなかだ。塩と砂糖と醤油と油、あとはインスタントコーヒーぐらいだろう。
「さて、どうしたものか……」
進一が悩んでいると、猫は部屋の真ん中でごろんと落ち着いた。
決断は早かった。
進一は部屋で毛づくろいをする猫を残して、自転車で駅前のスーパーに向かった。下り坂をゆくスピードがいつもより速いのは、雲行きが怪しいからではないだろう。
キャットフードを見てまわったが、猫がいなくなっていれば無駄になる。ツナ混ぜご飯でもやろうとツナ缶を選んだ。夕食のために唐揚げ弁当、特売の大型プリンも三個買った。
猫はちゃんといるだろうか。
進一は力強くペダルを踏みこみ、上り坂を急いだ。
そして呼吸を整えながら部屋に戻ったとき、ズタズタに破られたゴミ袋を見ることになった。
期限を過ぎた福神漬けの臭いに呼吸を乱しながら、床に散らばった生ゴミを見わたす。食い荒らされたようには見えないが、あの猫がやったのは間違いないだろう。
進一は頭をふって考えるのをやめた。床ばかり見ていても仕方がない。
頭を切り替えて顔をあげると、視界にキャラメル色の猫が入った。六畳部屋の真ん中で身体を横にしながら、気だるそうにこちらを見ていた。
大人しくしていれば残り物ぐらいはやる。
猫はそれを中途半端に理解したのか。それとも理解したうえで無視したのか。
進一は頭を振って、唐揚げ弁当とプリンを冷蔵庫に入れた。
散らばった生ゴミを片付けて、ツナ混ぜご飯をつくり、猫にやる。
茶碗はすこし離れたところに置いた。キャラメル色の猫は文句を言うこともなく動き出し、茶碗に顔をつっこんで食べはじめる。
猫もなかなかいいものだ。
食事風景を見ていると、複雑だった心境も和らいでくる。
雲行きが怪しいことを思い出して布団を取り込むことにした。多少はふっくらとした布団を部屋の中央でたたむ。猫が見ていることに気づいて、食べ終えたのだろうと近づいた。猫は見事に完食しており、進一は茶碗を回収してキッチンで洗う。
片付けて六畳間に戻ると、猫は布団のうえで落ち着いていた。猫は一番いい場所を選ぶと聞いたことがある。これが猫なのだろうと、そう思うことにした。
そっと、猫に近づく。
やわらかそうな身体にふれてみたくて、静かに手をのばした。猫は蜂蜜色の瞳をこちらに向けて、前脚を片方だけ上げる。なんとなく、瞳の輝きが危うさを帯びていた。進一がゆっくり手をひくと、猫もまた前脚を下ろし、気だるそうに瞳を閉じた。
これが、猫なのか?
進一は悩んだが、いままで猫と生活をしたことはない。答えの出しようがなかった。
布団のうえで丸くなった猫をときどき見ながら、家具につもったホコリを拭き取ってゆく。広い部屋ではなく、家具も少ない。外がまだ明るいうちに、窓をきっちり磨き上げて、部屋はそれなりの美しさを取り戻していた。
すべてを終えた進一は、あらためて猫に目をやる。
達成感は自信となるもので、進一の眼差しにはそれなりの力があったのだろう。賞賛を求める視線を受けて、猫は蜂蜜色の瞳をのぞかせた。猫は大きなあくびをして、身体を横にたおし、全身で大きく伸びをする。そして、あきらかに進一の顔を確認したうえで寝返りをうち、背を向けた。
静かだった。
アナログ時計が、淡々としたリズムで乾いた音を響かせている。
耳をすませば、かすかに猫のいびきも聞こえる。
進一は布団を引きずって移動させ、折りたたみ式のテーブルを出していた。砂糖たっぷりのコーヒーを飲みながら、ていねいに時計を磨きあげる。
丸い形をしたアナログ時計。淵はグレー、なかは黒く、銀色の針と数字がならんでいる。大きさは十五センチほどで、幅は三センチもない。動力部分は裏側についており、単三電池一個で動いてくれる。不安定な形をしたプラスチック製の軽い時計は、裏側にはめ込まれた小さい板によって支えられ、すこし傾いて立つことになる。
値段どおりの、安っぽい時計。
進一は磨きあげた時計をテレビのうえに置いた。
理香から贈られたはじめてのプレゼントは、いつもの場所に落ち着いた。
形に残る理香のプレゼントは、この時計しかなかった。
お互いのプレゼントは共通の楽しみであるスイーツに限定されている。そうしようと、理香が提案した。失敗を取り戻そうと樹里に相談し、あらためて基礎化粧品セットを贈ったのが致命的だったと、進一は後悔している。どこかの演出家が語った「写真に頼るな。心に刻み込め」という言葉に感動してしまった理香は、進一に写真もとらせてはくれない。すぐに見ることができる理香の残像は、いつも目にする時計だけだ。黒いブラウン管テレビのうえで、すこし斜めに立っている時計だけが、いつも理香を思い出させる。
きれいになった時計をながめて、進一は苦笑する。
自信に満ちた丸い瞳。はっきりした顔立ちに浮かぶ勝気な笑み。
明るく染めた茶色い髪は、いまも毛先を遊ばせたショートヘアーに違いない。
アクションもできると豪語するだけあって、スリムな肢体に、健康的なツヤのある肌。
カラフルなファッションに負けることなく、その姿、その横顔は、かっこいい女性だ。それでいて、まっすぐに見せる笑顔は、なんとなく幼さを感じさせる。
いまでも忘れない。理香と二度目に会ったときは、よくもまあ、こんな可愛い子を誘うことができたなと自分にあきれた。はじめて会ったときは、美咲さんという美女の存在が脳を麻痺させていたのかもしれない。それとも分相応というものを忘れるほどに、惚けていただけか。
進一はため息をもらし、かるく頭をふった。
理香は順調に自分の道を歩んでいる。もちろん、それは嬉しい。舞台で魅せる姿は、誰よりも輝いている。理香がもっとも綺麗になるのは、舞台の上でスポットライトを浴びるときだ。そばにいることはできないけれど、いまでも応援する気持ちに変わりはない。
邪魔だけは、したくない。
壁に背中をあずけて、小さく笑う。
大切な人を支えたいのに、なんの力にもなれないのは、気分が滅入る。それはわかっていた。そのことは、わかっていたつもりだった。でも、本当に気分が滅入るのは、そうじゃない。
いまになって、ようやくわかったような気がする。
いままでずっと、支えていたわけじゃなかった……。
進一が感傷にひたっていると、ボスッ、ボスッ、と音が続いた。
間違いなく猫だ。
今度は何だと、進一は猫を見る。すると、やたらと長い尻尾が布団を叩いていた。どうやら脚先もビクビク動いている。
夢でも見ているのかと、そっと猫に近づく。
進一が見守るなか、猫は瞳を閉じたまま身体をもぞもぞと動かし、横にひねり、仰向けの状態で動きをとめた。人間を前にして、じつに無防備な姿。人間まで力が抜ける。
進一は、猫のだらしない姿をじっとながめた。
「お腹のほうは、背中よりも白っぽいんだな」
と、どうでもいいことをつぶやいて、頭をかきながら少しだけ笑った。
ゆるみきった猫の寝姿を見ていると、はた迷惑な行為も、ふてぶてしい態度も、まあいいかと思えてくる。
どうにもならない自分の弱さも、なにもかも、笑って許せるような気がした。
スーパーで買ってきた唐揚げ弁当を冷蔵庫から取り出して、電子レンジであたためる。猫がどう反応するか気になったが、予想に反して大人しく眠っていた。テレビをつけてチャンネルをまわすと、インドらしき映像が流れていたので、その番組を見ながら食べることにした。唐揚げをつまみながら、芸人の仕事は大変だと感心もする。孝雄が映りこむという奇跡はなかったが、番組を楽しみつつ食事を終えた。
猫は最後まで大人しかった。
ずっと布団のうえで眠り込んでおり、寝ているだけなら無害な存在だ。無愛想な態度もなく、その姿は可愛らしくもある。
進一は猫をながめて、頭をかきながら頬をゆるませる。
とてもいい感じで、食後のスイーツを食べられる気がした。
進一はキッチンに移動して、弁当の容器をゴミ袋に片付けた。
スプーンを片手に冷蔵庫からプリンを取り出して、部屋にもどる。
と、テーブルのうえに猫がいた。
進一は声こそ出さなかったが、身体はビクッと震えて止まった。
ついさっき感じたはずの愛らしさは微塵もない。いるはずのないものが、いつのまにかそこにいる。ホラー映画によくあるパターンだと思いいたり、同時に嫌な予感がした。ささやかな幸せであるスイーツタイムが、危険な状況にあるような気がした。
キャラメル色の猫が、じっと見ている。
進一は、ひとまずプリンを戻そうと考えた。インスタントのコーヒーでもつくり、平穏を取り戻してからプリンを食べようと、一歩うしろに下がった。
しかし、猫はすっとテーブルから下りる。
考えすぎだと、進一は頭をふった。テーブルのうえにプリンを置いて、畳に腰を下ろす。
猫もまた、進一に注意を向けつつ身体を伏せた。
猫って、プリンなんか食べるのか?
進一は畳に伏せるキャラメル色の猫を横目でながめた。
蜂蜜色の瞳が妖しい光を放っている。
長い尻尾がしなやかに地を払い、爪を研ぎながら伏せる身体は、なぜか引き締まって見えた。
進一は、キャラメル色の獣にプリンの半分を捧げることで、ささやかな幸せをかろうじて確保した。
猫はプリンを食べ終えると、小さな窓の下に移動して、進一をじっと見る。進一が窓を開けると窓枠に跳びのり、犬小屋のうえに下りた。
ゴトンという音の鳴らして、猫は暗くなった世界へ消えていった。