37 居場所
進一と会えば気分はいい。舞台に向けるべきエネルギーが妄想の世界へと分散される。腑抜けているといわれても弁解のしようがなく、プロとしては失格ともいえる、そんな上機嫌が、今回はずいぶんと長引いていた。
演技に集中する必要がないから、と劇団員たちは判断した。
ちょうどいい、とも考えるようになった。
理香は頼まれるままに機嫌よく裏方業務に励んだ。新人でもやらないような雑務もこなした。その間、監督アドバイザーは大人しい。舞台練習は円滑に進行する。
「次はいつ会うのかな?」
それが団長の口ぐせになった。
理香に考える隙を与えないよう、劇団員たちは協力して雑務を頼んだ。
三日に一度という頻度で、理香は進一と半日デートを楽しんでいる。
理香がひとつだけ気になるのは、会うたびに、進一の疲労が増していること。
「あんまり忙しいようなら、無理して会わないほうがいいよ」
そんな理香の心配りを、進一は受けとらない。
「……会えるうちに、会っておきたいから。今回の舞台が終わったら、また、理香の出番なんだろ?」
そういって、進一は理香を黙らせる。
理香は曖昧な返事をしたあとで、くるみの熱心さ、表現力の甘さを進一に語った。
劇団員たちは、理香に対する気苦労の日々にも負けなかった。なかでも舞台に立つ役者の面々は、存在感だけで勝負するような、くるみにも負けなかった。優たちの演技に、くるみのプライドが刺激を受ける。
くるみが、理香に指導を請うた。
「毒をもって毒を……蛇の道はヘビ、なのかしら?」
優が首をかしげるほどに、くるみは理香に従った。毒を吐くこともなく素直に意見を受け入れ、理香の演技指導にも熱が入ってゆく。
理香は、くるみ専属のアドバイザーとなった。
すべての歯車が噛みあうような、若手劇団員に「奇跡」と言わしめた理想的な形を得て、すべてが変わる。くるみだけではなく、気苦労から解放された劇団員たちも、芝居も変わる。あらゆるものが改善されて、くるみの主演舞台は完成をみる。
大きな混乱もなく、くるみの初主演舞台が公開初日を迎える。
客足は上々。理香は出演しないのか受付で問われることもあったが、チケット代の返還を要求されたりはしなかった。評判を上げてきた劇団の舞台なら、それなりの芝居はみせるだろう。そして、劇団の中心ともいえる月島リカを差し置いて主演の座を射止めた、木下クルミはどんな演技をみせるのか。
観客の多くは、期待半分の様子見気分。
真剣味を欠いて油断しており、観客席はいつもより騒がしかった。
理香が初主演をつとめたとき、初回公演の観客数は少なかった。それでも舞台袖に立つ理香の緊張は相当なもので、進一のメールに勇気をもらっている。そのため、理香や劇団員たちには一抹の不安があった。
くるみは大丈夫だろうか。
観客の数に圧倒され、土壇場になって緊張するのではないか。
一番心配していた団長が、客席をのぞくよう理香に伝えさせる。
「うじゃうじゃと、いっぱいいますねぇ」
くるみは言い放ち、ニタァと凄惨な笑みをうかべた。
そのあと優におもいっきり張り倒されたが、そんなことで心が折れるわけもない。
開幕に遅れぬように、くるみは舞台の中央まで這っていった。
開幕時間となっても、少々騒がしい観客席。
幕が上がり、まわりはじめる物語。
御披露目となった主演女優。
初見。
劇場内から声が消えた。
劇中において、くるみは口を開かない。
声を失った令嬢、という設定ではなく、無声での演技。
他の演者はセリフを発声するが、くるみ一人は無声で通すという演出。
令嬢と他の登場人物たちの間では会話が成りたっていることに気づき、観客は知る。自分たちには令嬢の声が聞こえないと知り、他の登場人物が語るセリフによって令嬢のセリフを想像する。そこで描かれるのは日常の世界。くるみの表情、動作、存在感を加味して、異様のなかにある、ありえない日常を知る。
観客だけが知らされて、観客だけが落ち着かない。
彼らはなにをしているのか。なぜ彼らは気づかないのか。殺害計画を練り上げる男たちに憐れみすら覚える。根本的に歪んだ世界において、地下室に閉じ込めても、崖から突き落とそうとも、翌朝には変わらぬ日常を繰り返す、理不尽な令嬢こそが正常。悪霊にしか見えない令嬢を脆弱な小娘と蔑み、命を奪えると哄笑し、不可解な事態だと狂い出す、彼らこそが異常。
根本的な狂いを理解することもないまま、彼らの精神は崩壊し、彼らはすべてを忘れ去る。
世界の真相を知らずして、救われることなどありえない。
すべてが元に戻り、繰り返される異様なる日常。
ラストシーンは幕開けの場面と酷似する。平凡な殺害計画を胸に秘めた男が、令嬢を相手に純愛を語る。令嬢の声は聞こえない。一人芝居であるかのように、男の言葉だけが空しく響く。
ステージに硬いものを投げ込まれることもなく、初回公演は無事に終了した。
観劇者の反応を調べたところ、「ねぇ、なにあれ? あの子なんなの?」といった感想しか伝わってはこない。どんな評価が下されるのか、判断は難しいものの、とにかく話題性は十分。怖いもの見たさという心理が働くだろう。拍手がなかったわけでもない。リピーターを期待してもいいだろう。
興行的にいけると団長が判断を下し、くるみの主演続行が決まった。
結局、進一と一緒に観劇することは叶わなかった。
初回公演では、団長が許可を出さなかった。神経質になり、「不測の事態の象徴的存在じゃないか」と、進一を必要以上に恐れていたことが原因といえる。二回目三回目の公演も客足は順調とわかり、ようやく団長は「特例として」許可を出したが、そのときすでに、理香には招待することができなくなっていた。
会うことを控えて、電話で声を聞くだけにしている。
進一の邪魔にならないように、短い時間だけ、ふたりで会話を楽しんでいる。
「話題沸騰かぁ。さすが、理香が徹底指導をしただけのことはある」
「んー、どうかな。無声演技のアイデアと指導は私だけど、やっぱり、くるみちゃんの異様さを際立たせたのは、みんなの力だと思う。くるみちゃんもすっごく頑張ったしね。とにかくこれで、追加公演は決定かな。長期公演の可能性もあるって、みんな手応えをつかんでる」
「……そこまで言われると、やっぱり気になるなぁ。理香が出演しないとはいえ、せっかく団長が出入禁止を解いてくれたのに……まぁ、理香が出てないなら諦めてもいいんだけど」
「院生試験が間近に迫ってなかったら、私も止めないんだけどね。来てほしいし。一緒に観たいし……長期公演が実現すれば、まだまだ招待するチャンスはあるんだろうけど」
「それなら、ここはひとつ、長期公演を目指して頑張ってもらおうか。理香の出番が遠のくわけだけど、演技指導っていうのは、きっと、いい経験になるだろうから」
「……だよね。うん、そうするとしましょう。進一も、試験に落っこちないように……次に会うときは、試験の感想を聞かせてもらおうかな。厳しそうだったら、ちゃんと慰めてあげるから」
「ずいぶんと、すごい励まし方をしてくれるもんだな」
「最近、樹理さんに鍛えられたからね」
後輩の活躍に嫉妬や不安を抱くこともなく、理香はくるみのサポートに全力を尽くした。
劇団のためにできることは、これが最後になるかもしれない。最後になってもかまわないと考えはじめている。舞台への情熱が、驚くほど穏やかさを保っている。もうひとつの夢が、情熱から力を奪い、育まれているのがわかる。
役者を辞めるという選択は、劇団に対する、進一に対する、裏切り行為にならないだろうか。
樹理に斬って捨てられた問いではあるが、それでも考えずにはいられない。
プータローと大学イモを分け合いながら、理香は考える。私がいなくても劇団は大丈夫な気がする。このまま舞台が成功を続けて、劇団の評価が高まれば、辞めやすい感じにもなりそう。だから、問題なのは、進一のほう。
「嫌になって辞めるのなら、進一も悩みはしないだろうけど」
そう考えること自体、甘いのかもしれない。
プータローが理香の大学イモを見つめていたが、理香は気づくことなく、相談相手を求めて心当たりを探した。すぐに樹理を除外して美咲の存在を思い出したが、欲求を犠牲にするなど、美咲にとっては愚の骨頂。「同棲、しながら、役者、やれば?」そういうに違いない。参考にはならないと振り払った。
「進一と同居しながら役者を続けるなんて、夢のまた夢だよね。いつかはそうなりたいって願っていたけど……まともな演技ができなくなるのに、そんなの…………できない?」
もしかして、いま、チャンスじゃない? 辞めるのではなくて、長期休養の形なら問題なくない? 進一も納得してくれない? くるみちゃんが頑張ってくれたら、私の出番がなくても劇団は大丈夫なわけで、進一と同居をしていても問題ないはず。ずっと一緒にいれば慣れるだろうから、まともな演技もできるようになる、はず。もしも子どもができたりしても、それはそれでいいわけで、引退の覚悟さえあれば……。
「なんだか、考え方が樹理さんに似てきたかも」
ふと気がつけば、蜂蜜色の瞳を輝かせたキャラメル色の猫が、いまにも大学イモを盗み取らんとそわそわしている。
理香はくすりと笑って、残っていた最後の一口分を分け合って食べた。
公演前から兆候はあったが、くるみは一気にスリムになった。ヤケ食いが減り、演技指導の鬼と化した理香と一緒に走りこみまでやりだしたなら、当然ともいえる結果だった。くるみは疲れていたのか、憑かれていたのか、それとも役になりきっていたのか。はっきりとした原因は不明だが、健康的にはならなかった。むしろ姿形が整ったことで、悪霊的雰囲気が進化を遂げた。
元の体型に戻るにつれてシナリオや演出に変化を加える。
「ちゃんと見れば呪われた人形」「死神アイドル」と話題は更新されていった。
追加公演では、立ち見客もでるほどの成功をおさめた。
この時点で、くるみが理香を越えたと思うものはいない。インパクトだけは越えていたかもしれないが、理香の代わりとなり、劇団を支えられるとは考えられていない。
同じでは駄目だろう、くるみはニタリと不敵に笑う。
理香さんを越えない以上、劇団の評価は必ず低下する。下手すりゃ一気に落ちぶれる。世間の評価なんてそんなものだ。だからチャンスは今しかないし、そこに異存がわるわけでもない。
みとけよコンチクショウ、くるみはニタリと不敵に笑う。
木下くるみは、舞台の上で輝きを放つ、理香に憧れた。同じ劇団に入り、思い描いていたイメージは早々に打ち壊されたが、想像以上の情熱に惨めさも感じた。演劇部でもないのに主演を任され、賞賛と羨望を一身に集めてきた、その自負が、ゴミのように思えた。
劇団内で粗末に扱われたとは思わない。役がもらえないことなど、当たり前だとわかってはいる。憧れの存在は無我夢中で、自分の存在など眼中にすら入っていないことも、理香さんならば当然だと、くるみは考えていた。理香さんはそれでいい。認めてもらえなくてもかまわない。「美しさと才能に恵まれた」などという自負は、とっくに捨て去ってしまったのだから。
と、くるみ自身は思っていたが、自負心はまったく捨てられずに残っていた。
理香の代役に抜擢され、抑圧されてきたプライドが執念をともない、一気にくるみを支配した。もっとも美しく才能に溢れたのは誰なのか。証明したくて堪らない。くるみは根拠のない自信に突き動かされ、すべてを投げうって練習に励んだ。
「少しは、認めてもらえたんですかね」
理香の目に留まり、認められるようになって、くるみは少しずつ変わる。
なんだかんだ言っても、私は理香さんのことが気に入っているのだろう。
上から目線で、くるみは自身を納得させていた。
「私は、くるみちゃんに責任を押し付けているだけかもしれない」
呼吸音がおかしい後輩のそばで、理香が調整ミスを反省していた。
自嘲気味につぶやいた言葉を、くるみはしっかりと聞き取っている。そして、理香がもらした言葉の意味、その背後にあるものを、くるみは察している。
「じょう、とう……っすよ」
くるみは呼吸を乱しながら、ぜんぶ受け止めてやりますよ、と言えずにニタリと笑った。
理香さんは劇団から離れるかもしれない。そんなことは優さんに言われるまでもないし、あの人たちはぜんぜんわかってない。離れるといっても一時のことだ。どれだけ分け道を突き進もうが、この人が役者を辞められるわけがないでしょうが。相手があのときの人なら、なおさらそうだ。理香さんは必ず帰ってくる……だから、まぁ理香さんの帰ってくる場所くらい、汚さずに残しといてあげますよ。
たとえ意識が途切れそうでも、くるみはニタリと不敵に笑う。
公演活動に区切りがついて、理香は長期休養の意志を団長に伝えた。
劇場の確保が難しく、公演は中断している。劇団として、休んでいいときではないが、馬力をかけるときでもない。劇団員たちも落ち着いている。一人でやりたいと、くるみも言い出している。
現状だけを見れば、理香が不在でも問題はない。どちらかといえば、いないほうが安心できる。
「まぁ、いまは大丈夫な感じだからいいんだけどね。恋人とイチャイチャ過ごしたいから休養って、それってどうなんだろうと思ったりもするわけだよ、僕は。……いやいや、そりゃわかるよ。だって、すっごくわかりやすいよ、理香くんは。それに、あれだよね? 完全に約束を破る気でいるよね? ……まぁ、恋人の存在が知られても、君たちがどういう道を選んだとしても、なんとかなるような気はするんだけどね。うちの劇団、いま、びっくりするぐらい順調だから…………治るかなぁ、恋人ボケ」
こころよく、とは言いがたいが、それでも理香の意志は通された。
次に予定されている公演では、前売りチケットが完売となっている。
そのうちの二枚は、理香が手にしている。
誰にとっても、すべてが順調におもわれた。
理香は長期休養について、進一にまったく相談をしていない。邪魔をしたくないから話せなかった、というのは言い訳になる。言えば反対されるだろうと思い、決めてしまえば受け入れてもらえると考えていた。
夜も更けて、携帯電話を片手に理香は悩む。
進一は無事に試験を終えたらしい。結果が出るまでは安心できないけれど、長期休養の話くらいはしておきたい。
「せっかくだから、進一の部屋に行っちゃおうかなぁ……いきなり同居は無理だろうけど」
理香は部屋に押しかけることを考えて、都合のいいイメージを展開していった。そのうち濃密なラブシーンが頭から離れなくなり、「樹理さんのせいだ」とプータローを振り回し、ひとりで浮かれて騒いだあげく、サプライズ訪問を決定する。
「進一の部屋に行きたいなんて、そんな恥ずかしいこといえるわけないよね……っていうか、進一が帰ってくるのは夜中で、明るいうちは文恵さんがいるんだっけ?」
どうしよう、と思わないでもなかったが、文恵に遠慮するのもおかしい気がした。
「いずれは会うことになるんだろうし、ここはひとつ、猫仲間として友好を……築ければいいんだけど」
進一がいない間に話ができる。ならそれは、文恵さんの本音が聞けるチャンスかもしれない。どんな相手なのか知って、もしも悪い女なら成敗できるもんね。そんな女の嫉妬や悪意なんて、美咲の幼なじみをやってきた私には通じない。取っ組み合いになっても負けない自信はあるし、一撃で沈める自信もある。
「そうなったらわかりやすくていいんだけど、すごく優しくて可愛い子だったらどうしよう」
進一のことが大好きで、それなのに部屋にいることを謝られたりしたら、やっぱり心苦しい気はする。ずっと進一の支援をしてくれてたわけで、恋人としては怒るべきなのか、感謝するべきなのかもわからない。心情としては後者なんだけど、嫌がらせとしても、最高なのは後者なわけで……。
「文句の言いやすさなら、嫌な女のほうがいいんだよね。たんなる猫好きで、進一のことなんかどうでもいいって人なら……それはそれで文句を言おう」
理香は文恵に対して、まったく不安を感じていなかった。文恵がどんな人物で、どんな受け答えがあったとしても、結果は変わらないと確信している。
理香は少しばかり考えたあと、文恵を思考から追い出した。じつにあっさりと文恵は消える。最近は進一との同居生活を想像することが楽しく、文恵の存在が忘れ去るほどに薄くなってる。
理香が細部にわたって作り上げた進一との同居イメージには、理香と進一とプータローしかいない。
進一の部屋バージョンであっても、べつの誰かが入り込む隙はない。
理香の心配事は、たったひとつ。
進一は長期休養を受け入れてくれるだろう。けれど、悩まないとは思えない。こころよく、すんなり受け入れてくれるとは思えない。舞台から離れることを、心配しないとは思えない。
「ねぇ、プーちゃんはどう思う? やっぱりプリンは濃厚カスタードがいいかな?」
ぐったりとしていた猫は、長い尻尾をわずかに動かして止めた。
理香はプータローといっしょにマンションを出て、プリンを買うためだけに遠出をした。サプライズ訪問のおみやげに、濃厚カスタードプリンを三個を注文している。プータローのスイーツタイム用に、あと一個は欲しいところだったが、人気のプリンには限定数というものがある。なかなか無理は通らない。
「ごめんね。プーちゃん」
埋め合わせは今度にするから、と理香は電車に揺られながら居所の知れない猫に謝った。
もしも進一の部屋に一泊すれば、プータローは一晩宿無しになるかもしれない。以前朝帰りをしたときは、ドアの前にプータローはいなかった。翌日には普通に待っていたため、まったく平気だとわかってはいるが、贅沢なスイーツを用意したい気持ちにはなる。
今夜は帰らないかもって言っておいたから、だいじょうぶだとは思うんだよね。プーちゃん賢いし……完璧に言葉が通じてる気がするなんて、私が変なのかな?
きっと、いろんなところに寝床があるんだろう。そこまで考えて、理香の意識は切り替わる。久しく降りていなかった駅に、理香の乗っている電車が到着した。
東口の改札を出て、理香は迷わず歩き出した。
児童公園の前を通れば、あとはまっすぐ進めばいい。アパートまでの道のりは鮮明に覚えていた。変わらない光景に懐かしさを感じながら、理香は坂道を上っていく。「樹理さんのせいだ」と嬉しそうに、理香は坂道を上っていく。寒風が心地よかった。
「目的はあくまでも説得なんだからね。長期休養について……あと、チケットも渡さないと」
理香は手土産の入った紙袋に言って聞かせると、気持ちを落ち着かせるために、合鍵を確認する。
出かける前には、「文恵さんが何時頃からいるのかわからないし、持っていったほうがいいよね」などと考えていたはずだが、すでに忘れている。
理香は二年以上前の、合鍵をもらった当時の日々を思い出していた。
過去の記憶と想像未来が、文恵の存在を遠い彼方へと連れ去っている。
もしも進一が部屋にいなかったら、合鍵で入って、帰ってくるまで待っていよう。
理香は現実を見失ったまま、紙袋をぐるぐる回しながら坂道を上った。
進一のアパートに着いたのは午後三時。陽は落ちておらず、まだまだ周囲は明るい。
理香はアパートの玄関口で、捨てられずに残された犬小屋を見つける。その上の、進一の部屋の窓が開いているのを見て、胸が躍った。
「うん、なんで網戸まで全開なのかわからないけど」
進一がいる。
夢の世界の住人となっていた理香は、アパートのなかへ足を踏み入れ、進一の部屋の前に立った。
はやる気持ちを抑え、極上のプリンをお届けにまいりました、と心のなかでセリフを確認する。
ドアが開くと進一が立っていて、突然の訪問に驚きながらも、笑って部屋に迎え入れてくれる。
激しく思い込んだまま、理香はベルを鳴らした。
月日が流れて、理香はこのときの自分を笑っている。
「自分でも信じられないっていうか、救いようがないっていうか……あのときは、ほんと、ドアが開く瞬間まで思い込んでたからね」
ほんとうに、わたしは自分勝手な女です。
理香はくすりと笑ってみせて、おいしい紅茶を口もとに運んでいる。