36 もうひとつの夢
プータローに部屋から連れ出され、理香は大人しく稽古場に出向いた。
入ると、挨拶があった。今日もバイトを休んだらしい、主演女優のくるみがいた。「溶けろ、溶けろ」と、自らの肉体を呪うような念を込めて、柔軟体操を続けている。真剣で、熱心であるには違いない。かつての自分を見るようで、理香は共感を覚えた。うらやましいとも、情けないとも感じたが、くるみの力になりたいと、強く願った。
「股割りでもなんでもそう。少しずつ、息をゆっくり吐きながら、力を抜いていく感じで」
くるみは理香のアドバイスを素直に実行した。
いくら図に乗っているとはいえ、理香は実力を認めた憧れの存在。
くるみは知っている。理香は誰よりも練習を積み重ねてきた。金銭的に恵まれ、時間に余裕があったのは確かではあるが、そんなことでは誤魔化せない理香の情熱、舞台に対する執念を、くるみは理解していた。だからこそ、この人は尊敬に値するのだと、くるみは思う。とても真似できそうにないと、腐りたくなるほどに憧れる。
イライラさせられることは、数限りないけれど。
「少しは、認めてもらえたんですかね」
「ん?」
くるみの背中に全体重をのせて、「なんか言った?」と理香は尋ねる。
くるみは黙って、ひたすら耐えた。
早々に一同が集まり、通し稽古の準備がすすむ。
ひとり沈んでいく理香に、優が声をかけた。
「舞台が無事に完成したら、進一くんを招待してもいいんじゃない? あなた、出番ないんだから」
優としては、理香の気持ちが少しでも楽になればと考えたのだろう。
だが、その一言で理香は目覚めた。
進一といっしょに観賞する。それができたなら、どんなに素敵なことだろう。そのためには降ろされたことを進一に伝えなければならない。団長の許可も必要となってくる。実現できるかはわからない。それでも理香は、進一が横にいることを想像してみた。
進一と舞台。矛盾していた歯車が合わさり、理香の視点は流転する。
妄想力たくましい観客のものへと変わり、また監督代理の立場に戻ってくる。
進一といっしょに、素敵な舞台をつくってみよう。
結果、芝居は混沌となった。
監督代理はハッピーエンドを望み、やたらと恋愛要素をねじ込もうとした。地下室に閉じ込めた不条理な令嬢と、なぜ純愛を語らねばならないのか。主演女優の狂気に抗っていた劇団員たちは、別種の狂気にあてられて戸惑い、やがて気づいた。この狂気は知っていると。監督代理は隣にいる見えない誰かと相談している。きっと隣には、佐山進一がいるのだと。
混沌が深まってゆくなかで、監督代理と主演女優は意気投合。
これ以上ややこしいことになる前に、団長はいそいそと休憩命令を出した。
「理香くん、これホラーだからね。恋愛を入れるなとは言わないけれど、物事には限度とというものがあるから。べつにハッピーエンドが悪いわけじゃないんだけど、ハッピーでもない怖いやつだって素敵だとおもうんだよね、僕は。怖くて素敵な感じにしてもらいたいわけだよ、理香くん、どうだろう? できるかな? 返事はすっごくいいんだけど、その自信に満ちた笑顔が怖いよ、僕は」
舞台に積極的に関わることができた理香は、これで進一に会えると思えた。
降ろされたのではなく、さらなるステップアップのために監督代理をしていると言える。慰めてもらうためではなく、純粋に、会いたいから会うのだと納得できる。
混沌となりはしたが、理香が元気になることは、劇団にとって悪いことではなかった。
主演の交代は無理だろうが、元気でいてくれたらそれでいい。大きな心配事がひとつ消えて、劇団員たちも変わってくる。理香の不在で崩れてはいけない。くるみ一人に狂わされるような、そんな程度でいいわけがない。
舞台は加速度的に完成へと向かった。
監督代理の無茶な要求をやんわりとブロックする役割は、団長が担当した。
進一との半日デートの要請を、団長は「いつでもオーケーだ」と迷うことなく許可した。
夜になって、理香は進一にメールを送った。
突然の話ではあったが、翌日のデートがあっさりと決まった。
「ごめんね。いきなり前の日にメールしちゃって。ちょっとテンション上がっちゃって、進一の都合とか全然かんがえてなくて」
稽古場に近いスイーツショップで、理香は進一と向かい合って座る。幸せそうな微笑みと、やさしい眼差しを向けられて、理香はストロベリーパフェを楽しむことができる。
「試験もあるし、いろいろ忙しいんでしょ?」
「問題ないよ」
「ほんとに?」
「やらなきゃいけないことは、夜のうちに片付けておいたから」
昨夜のメールは研究室で受けとったらしい。
進一は穏やかな笑みを浮かべたままで、慌しい日常を淡々と語った。
会話の途中、ふっと、進一が疲れた顔をしていることに気づいた。
以前に会ったときよりも、疲労が溜まっているようにみえる。
「進一、あんまり寝てないんじゃない?」
忙しいのに、急に予定を変えさせてしまった。
「やっぱり、無理させちゃったよね」
返事なんて聞かなくてもわかる。どうして私は自分のことしか考えないのだろう。せっかく進一に会えたのに、どんどん自分が嫌になる。
「理香に会えるならそれでいい」
進一は細長いスプーンでクリームをすくった。
「忙しいとか、寝てないとか、そんなのはべつにたいしたことじゃない。忙しくしていると、余計なことを考えなくていい。どうしようもないことで悩むくらいなら、無茶をするのも悪くはないさ。それに、寝てない人なんて周りに結構いるから、だから、そんなことはどうだっていいんだよ。理香に会うための時間なら、いくらでもつくる」
甘いクリームを口にいれて、「元気にもなれそうだ」と進一は笑った。
「こっちとしては、メールに書いてあった監督アドバイザーってやつが気になるよ。寝ていられる時間が少ないってのに、それが気になって気になって……いったい、理香はなにをやってるんだ?」
苦笑する進一につられて、理香は劇団の話をはじめた。
嘘を交えながら、自分たちがどんな芝居をつくっているのかを進一に語る。
どれだけ充実した時間を過ごしていたのかを、偽りのない情熱を、進一に聞いてもらう。
このうえなく、理香は幸せだった。
「今度は、いつ会えるかな?」
別れの時間が近づいて、理香が尋ねた。
「……理香の方から予定を聞かれるなんて、ずいぶん久しぶりだな」
砂糖を落としたコーヒーに、進一はくるりくるりと渦をつくった。何でもないように微笑んではいても、嬉しさは隠しきれていなかった。
明日がいい。冗談交じりに進一は言った。
半分以上は本気かもしれない。応えれば、きっと会いに来てくれる。毎日でも会えるかもしれない。うれしくなって、理香は感情を抑えた表情をつくった。
そうなったらうれしい。
けれど、そういうわけにはいかない。
「進一、忙しいんでしょ? すっごく大事な時期なんだから、無理のない範囲で会おうよ」
進一は頭をかきながら、少し困ったように笑っていた。
いつもと立場が逆転して、これまでよりもずっと深く、進一への想いが心を満たしてゆく。
愛しくて、たまらなかった。
ずっと進一を見つめていて、もしかしたらと気がついて、そして、歓喜があふれくる。
こらえきれずに、理香は声をあげて笑った。
「なに? いきなりどうしたの?」
「んーん、なんでもないなんでもない。ほんと、なんでもないから」
進一はずっと、こんな気持ちでいてくれたのかもしれない。
私のために生きたいと、ずっと……。
愛しくて、愛しくて、涙があふれて止まらなかった。
理香は進一に謝りながら、何度も何度も涙をぬぐい、うれしくてずっと笑っていた。
私は役者をやめられる。
進一のためにならやめられる。
なにより大切なものを胸の内で問うたびに、理香の心は喜びであふれた。
監督アドバイザーおよび裏方雑務。理香は充実した時間を過ごしてマンションに帰った。ドアのまえにはプータローがいる。理香はいつものようにプータローを招き入れ、キャットフードも与えた。ソファーでいっしょに塩羊羹を楽しむ。進一の邪魔にならないようにメールは控えた。ぷにぷにの肉球を揉んで、眠ろうとするプータローを抱えてベッドに運んだ。
好きなときにやってきて、好きなものをたべて、好きなだけ眠って、好きなときに出ていく。
こんなに自分勝手なのに、なんでこんなに愛らしいんだろ?
理香はプータローを撫でながら、出窓に置いた安っぽいアナログ時計をながめた。
「まだあるかな」
自然と頬がゆるんで、記憶が呼び起こされる。
進一の部屋に、同じ時計はまだあるだろうか。インテリアに関心の薄い進一のことだ。きっと配置なんて変わっていない。ちゃんと動いているのなら、テレビの上に置いてあるのだろう。
進一とつくりあげてきた幾つもの思い出が、時計の居場所を確信させる。
なにもかも、すべてがうまくいっているような気がして、理香は引き込まれるように遠く、付き合いはじめた頃まで思い出をたどった。
進一と付き合いはじめてからは、なにもかもうまくいった。
横断歩道ではいつも青。電車に乗り遅れることもなければ、雨に濡れることもない。大きな虹がかかる爽やかな街のなかを、進一とふたりで歩くことができる。隠れたスイーツの名店を探しあて、気にいった服はかならず手に入った。
「どんどんきれいになっていく」
それは佐山進一という不器用な恋人の、唯一にして最高の口説き文句なのかもしれない。と、付き合いはじめた頃は冗談だと思いながらも、しっかり浮かれ舞い上がっていた。繰り返された魔法の言葉で、私はほんとうにキレイになれた。「きれいになったわね」そんなことを樹里さんやゆうちゃんにもいわれた。だからキレイになれたのは確かなことで、あとになってから進一も「やっぱり女性ホルモンかな」なんてつぶやきながら私の肌をじっと観察していた。あれは間違いなく研究者の目だった。最初から本気で言ってたんだなって、この人はお世辞なんていわないんだなって理解して、進一の言葉を浮かれるままに鵜呑みにするようになってしまって……いろいろ勘違いもしたけれど、それはそれでよかったんだと思う。
進一はずっと、私を支えてくれている。進一がいてくれたから、全力で舞台に打ち込むことができた。まともな演技ができなかったとき、一晩中電話に付き合ってくれたりもした。いつも励ましてくれて、進一がいなかったら立ち直るのにどれだけ時間がかかっただろう。ずっとずっと練習に励むことができて、演技を認められるようになって、いい役がもらえて、しっかりと舞台に立つことができるようになったのも、ぜんぶ進一のおかげだ。
この時計と同じかもしれない。時計は少し傾いて、裏側の小さな板に支えられている。丸くて不安定な時計が立っていられるのは、見えないところに支えがあるから。
プレゼント交換のときを思い出すと、いまでも笑ってしまう。
ショコラを食べて後悔したのは初めてだった。
食後のスイーツタイムを我慢したとしても、生活費やデート資金、劇団仲間のことを考えると、プレゼントに使える資金は千円もなかった。そんな低予算のなかで見つけた時計。在庫処理に違いない激安特価で、安っぽい時計だったけれど、のぞかせてもらった進一の部屋には似合うと思った。
十回目のデートで、進一を部屋に招いた。勢いで買ってはみたものの、こんなの気に入ってもらえるかなぁ、とか。自分から言っておいてこんな安い物でいいのかなぁ、とか。恋人に贈るはじめてのプレゼントがこれかぁ、とか。いろいろと悩んだあげく、時計は前振りにしておいて、「本当のプレゼントは私?」みたいなイメージトレーニングまでしたのに、まさか進一が同じプレゼントを用意するなんて、まったくの予想外で、あれは、うん、サプライズにもほどがある。
「これからは同じ時間を刻んでいこう、みたいな?」なんてことを進一が言うわけもなくて、勘違いによる偶然の結果にすぎなくて、だから、やっぱりショコラに間違いなんてないんだって……ほんとにあっさりと、運命なんてものを信じてしまった。
好きになってよかった。
夜が明けて陽の光が射しこみ、透明なグラスについた雫のひとつひとつが、ダイヤモンドのように七色の輝きを放つ。
ただそれだけの光景で、世界は美しいと知ることができた。
疑いようもなく、私は幸福だった。
だからきっと、ショコラを食べて後悔するなんて、あれが最初で最後のこと。
理香はベッドに横になり、プータローを胸元に寄せる。ぴったり密着した猫のぬくもりを感じながら、幸福のままに眠ろうと目を閉じた。
静かな夜に、アナログ時計の乾いた音が響いている。
淡々としたリズムに聴き入りながら、理香はひとつずつ過去を振り返る。
いつからだろう。
幸せのなかに、影が潜んでいる。
いつだったんだろう。はじめて進一に距離を感じたのは……舞台に端役で立っていたころは、まだ水樹さんが現役で、進一も劇場に見にきてくれて、団長の腰も絶好調で、毎日が楽しかった。なにひとつ問題はなかったような気がする。
ちょっと人気が出てきて、会える時間が減って、それでも進一は自分のことのように喜んでくれて、「舞台に立ってる理香もいい。誰よりも光ってるしね」って、明るく陽気に笑ってくれた。
三回生になった進一が雪村製薬に就職するかどうか考えていて……演技が評価されるようになって……水樹さんがトルコ人男性との婚約を決めて、水樹さんに代役を指名されて……初めての主演舞台が成功して…………そう、あのとき。
久しぶりに進一と会って、引っ越しの話をしていたとき。
少し、進一は遠くを見るような目をしていた……だから、私は言葉につまり会話が途切れた。
「いっしょに暮らそうか」
そんな言葉を進一が繋いで、びっくりして、とっさに「ダメだよ」って答えていた。「冗談だよ」って、進一は穏やかに笑っていたから、ささいな違和感なんて、すぐに忘れ去っていた。
たぶん、そうだ。
はじめて進一に距離を感じたのは、あのときに間違いない。
進一が冗談なんていわなければ、もっと印象に残っていたのだろう。進一の言葉ははっきり覚えている。忘れられない思い出ランキングならベスト3には入れたいぐらい。あとからあとからうれしくなって、もうひとつの夢が生まれたのだから。
時計の音がだんだん大きくなってゆくのを感じて、理香は目を開けた。身体が熱くて、鼓動が速い。
冗談、だよね?
プロポーズみたいに聞こえるなんて、私がおかしいだけだよね?
いくら否定を繰り返しても、胸の高鳴りは止まらない。なんとか妄想に歯止めをかけて、「樹理さんのせいだ」と諦める。警鐘を鳴らすように響いていた時計の音が、ゆっくりと静けさを取り戻していく。
そういえば、進一が大学院に進学することを決めたのは、ちょうどあの頃だった。
一条さんがインドへ旅立つとき、進一は一条さんにお金を渡していたんだっけ。大学院に進学するなら、引越しや、新生活に必要な費用を使うこともないけれど……。
結婚とか、進一は考えていたのかな。
水樹さんの騒動があったんだから、結婚を意識していてもおかしくなかったのに。私は舞台のことばっかりで、夢を追いかけることに有頂天になって、あのときは、プロポーズだなんて考えもしなかった。
いまならたぶん、「それってプロポーズ?」ぐらいは返すかもしれない。
身勝手な私も、すこしは成長したのかな。もしそうなら、いいんだけど。
結婚生活ってどんな感じなんだろう。いっしょに暮らすなら進一のほかに考えられない。ずっと進一に寄り添って、甘えていたりして。でもまあ、ずっと二人きりなんてことはないよね。新しい家族もできるでしょう。美咲に赤ちゃんができたんだから、私にできても不思議じゃない。進一と私の子どもね。うん。ぜんぜんイメージが湧かないんだけど、なんか欲しくなっちゃたかも。美咲と樹里さんに騙されて効力ゼロの避妊具をつかったときは、あとできっちり文句をいってやったのに、自分勝手かな……いまにして思えば、樹理さん、本気で狙ってたの?
……でも、まぁ、赤ちゃんができるとか母親になるなんて現実感がまったくなくて、それほど心配はしていなかったような気もする。いまもそうかな。やっぱり子どもなんて想像つかない。美咲の赤ちゃんを見てみたら少しは考えられるかもしれないけど、いまはまだ、二人だけの生活しか思い描けない。
プータローがもぞもぞと動き、体勢を整える。
理香がやさしく頭をかくと、目を閉じたままグルグルと鳴いた。
「かわいい」
理香はそっとささやいて、プータローの眠りを邪魔しながらイメージを広げる。
「プーちゃんなら、進一も大丈夫だよね」
理香はひとり納得して、ふたたび目を閉じた。
理香のなかで、二人と一匹の生活に何ひとつ問題はなかった。やっぱり猫はダメで、情けない進一を想像をしてみたが、柴犬のタローがいた頃と、立場が逆転するだけ。それはそれで捨てがたいと、理香のイメージは深まっていった。
薄っすらと蜂蜜色の瞳がのぞき、安堵と喜びで満たされた理香の顔をチラリとみる。
瞳はすぐに閉じられて、ひとつ大きく息をついた。
アナログ時計の淡々とした音が響く静かな夜には、猫の寝息も混じってきこえる。
眠りに落ちて、夢にあらわれた夢の舞台。
幕開けの場面はスイーツタイム。
時計が置かれた見慣れた部屋で、猫が恋人のプリンを狙っている。