35 夢のない一日
理香はふくよかな猫を抱いてベッドに沈んだ。
進一に連絡はとっていない。会いたくて会いたくてたまらないのに、メールさえ送れない。
舞台を降ろされたなんて、進一にはいえない。
きっと心配して慰めてくれる。これまでずっとそうだったように。
いつからだろう。いつから私は、舞台に挑戦するために進一と会っていたんだろう。
私はいつから、進一を利用してきたんだろう。
ひとつ悩みはじめると、なにひとつ伝えることができなくなる。
たった一言。たった一文。「会いたい」と伝えることが理香にはできなかった。
翌朝は、いつものように稽古場へ行く気にはなれず、外出する元気もなかった。部屋でプータローの肉球をぷにぷにして過ごそうと思ったが、プータローが逃げた。理香の膝からドスッとおりて、とつとつと玄関まで歩いてゆく。
「プーちゃんにはプーちゃんのライフスタイルがあるのかなぁ……オシッコとかしたいだろうしね」
理香は仕方なくドアを開けたが、プータローは出て行かない。
蜂蜜色の瞳で、じっと理香を見上げている。
どうやら外出するときは、理香と一緒でなければいけないらしい。
「だとしても『糸杉』にくるのはどうかとおもうわ」
樹里は優美な動作でミルクティーを注いだ。
「稽古場のほかに出かけるとすれば進一くんの部屋じゃないかしら。進一くんは大学にいて帰ってこないでしょうけれど文恵ちゃんに挨拶するチャンスはあるかもしれないもの。愛人契約の相談はないとしても会って話をしてみるのは悪くないはずよ」
あなたに自信があるのならね。
樹里は理香のまえにミルクティーをおいた。
「……昔はもっと、居心地よかったはずなんだけどなぁ」
進一と出会う前は、稽古場に近いこの場所で紅茶を楽しみ、よく時間をつぶしていた。
「糸杉は変わらない。変わったとすれば理香のほうよ」
樹里はくすくすと笑い、理香はため息をついてカップにふれる。
そっとふれた指先で、あたたかさを感じる。
「文恵さんがどんな人かは知っときたいけど、舞台を降ろされたこと、進一に知られるかもしれないし」
樹里は楽しそうに微笑む。
「もしも知られたとしても進一くんは心配するだけ、むしろそれを口実にしてたっぷり甘えればいいんじゃないかしら。なんだったら稽古を休んで進一くんの帰りを待ってもいい。団長さんの約束なんて無視すればいいのよ。簡単に代役を立てられるような役者に恋人がいて悲しむようなファンがいるとはおもえないもの。きっとだれも困らないわ」
理香が小さく息をついて、樹里は美しい指の背を口もとにそえる。乱れなくならんだカップのなかで、どれを磨くべきか思案しているらしい。
「……たぶん進一は原因を考える。気づいたら自分を責めるだろうから、私が慰めることになるかも。慰めながらおもいっきり甘えて……だから、そういうのも、悪くはないんだよね」
理香はミルクティーで満たされたカップを運んだ。湯気と香気を顔にあてて、少しだけ気持ちが楽になったような、そんな気がした。理香は少しだけ笑顔をみせる。ミルクティーを味わい、たしかな幸せが広がるのを感じた。
「やめるのかしら」
樹里は磨くべきカップを手にすることなく、じっと見守るように理香を観察している。
あなたは役者をやめるのかしら。
そう問われたことは、理香もわかっている。だから、理香は小さく笑った。舞台のことなんか忘れて、ずっと進一に甘えているもいいかもしれない。けれど、たぶん、そうはならない。夢を捨てきれないでいるのなら、進一はきっと、そばを離れるまで励ましてくれる。
「あなたは役者をやめたくはない。だから進一くんに甘えたがっている」
そうおもっていたのだけれど。
樹里はかすかに吐息をもらして、汚れなど見当たらないカップを選んだ。
間違ってないよ、と理香は笑う。
「ほんとは今すぐにでも進一に会って、進一に甘えたい。甘えて甘えて、降ろされちゃったこともなにかもぜんぶ話して、それで、慰めてほしいって思ってる。慰めてもらって、癒してもらって、元気になって、それでまた……舞台に立てたらって、自分勝手なこと、考えてる……私は舞台に立ちたくて、進一を利用しようとしてる」
「ぜひ進一くんに聞かせてあげたいわね。理香の役に立てると知ったら間違いなく大喜びするもの」
「……なんで私は、進一を犠牲にしなきゃいけないのかな」
「わがままと犠牲は違うわ。進一くんは理香のわがままを求めている。会わないことだけがあなたの罪。あなたと進一くんの関係において利用なんて言葉は言い訳にしかならない。会いたいから会いにいく、それだけでじゅうぶんのはずよ」
会って、それでまた、罪深い生活がはじまるとしても?
「……それなら、ずっといっしょにいたら、進一はもっと喜んでくれる」
「そこまで考えているのなら思い出しなさい。あなたは艶かしい行為にふけっていれば嫌なこともすべて忘れられる幸せな女じゃない。会いにいけばいいの。部屋に押しかけて抱かれてしまえば心の整理がついて演技に集中できるかもしれない。もしも子どもができたならそれはそれで万事解決だもの抱かれないでいる理由なんてひとつもないわ」
この人、けっこう本気でいってる? 理香はじっと探ってみたが、目に映るのは、微笑みをかえしてくる、慈愛そのものにみえる美しき女性マスター。樹理がカップを磨きはじめると、そこには見慣れた情景だけがあった。
「……そういえば、美咲はどうなの?」
「順調だそうよ。母子ともに健康。ついでにいえばインドにいる父親も無事でいるみたい」
進一へのお土産はもらえたのかなぁ。
理香はミルクティーを静かに味わい、樹里は静かにカップを磨きつづける。
ゆったりとした時間を過ごすなかで、理香はひとつずつ言葉を拾った。
「……会えば、進一は喜んでくれる、なら……このままでいても、ずっと、まともな演技なんてできない。そんなの、進一も喜んでくれないよね……」
「楽しみにしているわ」
「……稽古には参加するから、半日デートとかで終わるとおもう」
理香は内心でびくびくしながら、何を言われるのだろうと警戒した。そんな理香を無視するように、樹里はカップを光にかざす。樹里は少しだけ目を細めて、またカップを磨きはじめた。
理香が稽古場に入ったとき、すでに現場は荒れていた。ほとんどの劇団員が集まり、床にはA4用紙が散らばっている。コメディ路線の台本をみて、主演女優が暴れたわけではない。くるみはバイトを休んで自主練習に励んでいた。なんでもこいと言わんばかりに、苦手なはずの柔軟体操に余念がない。
「主演女優が呪われちゃったから、ホラー路線のストーリーに変更が決まったのよ」
優が語ったように、くるみは一夜にして化けていた。昨日より明らかに存在感を増している。邪な欲望を高めつづけたのか、周囲を圧するオーラは暗く重い。それは理香が舞台で魅せるような輝かしい華とは対極に位置する存在ではあったが、それでも、観客に強い印象を与えることができる。
くるみはニタニタと顔面を歪めて、ときどき奇声を上げながら床を転がっていた。
恐怖を撒き散らす壊れかけの主演女優を有効活用しようと、劇団員たちは議論を白熱させていた。
なにをやろうがホラーになりそうだ、という意見がでたことにより、とりあえず理香が演じるはずだった本来のシナリオで通し稽古をはじめる。そしてすぐに、くるみ以外の演者が台本を捨てた。ヒロインの狂気にあてられ、役に感情移入をするほど負の感情がこもったセリフが出てしまう。アドリブが飛び交う即興劇の形をとりはじめたが、くるみだけは台本に書かれたセリフを貫き通したため、混沌として収拾がつかなくなった。
「みんな、なんだか感覚がおかしくなってるからね。ここは理香くんの出番だと思うんだよ、僕は。べつの視点で勉強するのも、今後の役に立つんじゃないかな。たぶん役に立つから、ちょっと、助けてください」と疲れきった団長に懇願されたため、理香は監督の立場で舞台にかかわることになった。
一回目の反省をふまえて台本をつくりなおす。舞台練習では広く全体を見渡しながら、くるみの様子をチェックした。嫌でも目につく演技不要の存在感。セリフが棒読みでも別にかまわない。なにをどうしようが恐怖につながる。修正することもないせいか、頭のなかでは勝手に、自分ならどうやって怖くするだろうとイメージが膨らんでしまう。進一を考えない瞬間があらわれるたび、理香は自己嫌悪におそわれた。
心が乱れていたのは、理香だけではない。
「台本はいい感じになったと思います、けど、完成に近づいたかって言われると、なんか変じゃないっすか?」
若手の劇団員が牛丼を片手に、指揮棒のごとく割り箸をふるう。熱心に稽古をつづけたわりには手応えがなく、空回りしているような感覚をおぼえる。くるみ以外の演者は疲れはて、焦りも感じていた。
「ジタバタしてダメなら静かにするしかないわね。心に嵐が来たのなら、過ぎ去るのを待つだけよ」
理香に元気がなく、不安が伝わってくるのも要因ではあるが、それを認めるわけにはいかない。
みなさーん、なにいってんですかぁ? じせだいのなみ、びっぐうぇいぶのとうらいじゃないっすか。
くるみの狂気が深まっているような気もするが、いまはこれで問題ないはず。
「ええ、そうね。地下室に閉じ込めても、崖から突き落としても、深い森のなかで大地に埋めても、翌日には何事もなく生活をしている資産家のお嬢さま。そんな不条理なヒロインなんてなかなかいないわ……ヒロインといっていいのかはわからないけれど」
「にゅ~、ひろいん、ってことですよ」
「まぁ、男の人生を狂わせるのがヒロインの役割よね。しっかり発狂させてるからヒロインで……えぇ、あたし、なにか変じゃない?」
「ゆうさんがおかしいのはまえからでぇっ」
主演女優が意識を失い、「とりあえずみんな、正気にもどろう」との意見に反論も出なかったため、この日の稽古は終了となった。
理香は優の運転するジープでマンションまで送ってもらう。スイーツを買うために、コンビニにも寄ってもらった。プータローとのスイーツタイムは、心を癒してくれる大切な時間。こんな気持ちのままで、もしもプーちゃんが来なかったら。
理香は不安に飲み込まれ、急かされながらマンションに入った。
プータローは期待を裏切ることなく、ドアの前で待っていた。
理香はふくよかな猫を抱いてベッドに沈んだ。
進一に連絡はとっていない。会いたくて会いたくてたまらないのに、メールさえ送れない。
もしもプーちゃんが来てなかったら、私はどうしていただろう。
寂しくて、進一の声が聞きたくなって、電話して、慰めてもらってた?
プータローがもぞもぞと動き出して、ぐるぐると喉を鳴らした。不思議と救われたような気持ちになり、理香はプータローを抱きしめて眠る。明日はなにかが変わるかもしれない。そんな予感が偽りでないことを祈りながら、理香は長い一日を終えた。