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33 悪い女

 理香は、喫茶「糸杉」のカウンター席に座っていた。


 進一と夜を共に過ごした場合、理香は強制的に三十時間の休暇を与えられ、稽古場に出入禁止となる。「糸杉」でも似たような措置がとられてはいたが、樹理は今回、約束を無視してあらわれた理香の入店を特例として許していた。そして、後悔していた。


「でさぁ~、そこで進一はいったの。このままでいいんだ、このまま理香を待っていたいんだって。ねぇねぇ樹理さんはどう思う? どれだけ愛されてるんだと思う? ……って、ちょっと樹里さん、ちゃんと聞いてよ」


 樹里は耳を塞いでいた両手を下ろして、ゆらりゆらりと首を振った。


「きこえたわ」


 理香の発する雰囲気を読めば、情事があったことなどすぐにわかる。追い返すべきなのはわかっていたが、ふたりの関係がどのような展開をみせたのか、気になるところではあった。

 恋人の寂しさを知らない理香、知られることを恐れていた進一。

 ふたりの関係に変革が起きてもおかしくはない。約束を破ってまで「糸杉」に来たとなれば、すべてが円満調和で終わったとは思えなかった。事実、理香の話を聞いてみても判断を間違えたとは思っていない。ただ、後悔はしている。


「せめて二十時間は入れるべきじゃなかったわね。部屋に上がりこんで世話をしている女の子がいるだなんて進一くんのことを全面的に信じたとしても深刻な内容じゃなかったかしら。どうして焦燥感や悲壮感とは真逆の感情が伝わってくるのか怖いくらい不思議よ」


 理香は何も言い返さず、ミルクティーに口をつけた。浮かれた様子に変化はないが、おかしいということはわかっているのだろう。

 樹里は優美な動作で首を振り、ティーカップと磨き布を手にした。


「なにがあったらこうなるのかしらね。ほんとに不思議……あなたはベッドのうえでなにをされたの」


「樹理さん? なんで場面を限定して悩んでるの?」


「なぜって以前からずっとおかしいとはおもっていたもの今回は久しぶりということもあるのでしょうけれど理香がこの事態においてここまで浮かれることができるなんてやっぱりおかしいわ。進一くん見かけによらずテクニシャンなのかしらパワフルだとしたら理香ひとりで満足するはずないもの美咲ちゃんの魅力に抗えるはずもないわ。それとも理香に対してだけパワフルなのかしら。いいえ待って。あなたたち、もしかして変な趣味を共有してない」


「してませんよ。抱き合ってるだけで十分満足なの。それだけで他のことなんかどうでもよくなるの」


 樹里はたっぷりと時間をつかい、小さく唸って警戒している理香をながめた。ふるりふるりと首を振り、「つまらないわ」と言い捨ててカップを磨きはじめる。

 ひどくない? わからないよ? 私にはもう樹理さんがわからないよ?

 理香は目を見開いて抗議したが、あくまでも優雅に、樹里は無視する。


「進一くんの部屋にも野良猫がきていて猫好きの女の子も部屋に上がりこんでいる。艶かしい関係はないけれど掃除や食事の世話をしてもらっている。おまけに猫がほんとうに苦手らしいだなんて進一くんにも驚かされるわ。ふつうに聞かされていれば楽しめたのに……とても残念よ」


 鉄壁の微笑みに隙などなく、理香の動揺はなかなか静まらない。浮かれ熱は下がる一方となり、理香はとうとう溜め息をついた。


「これで少しはまともな話ができるかしら」

 樹里はクスクスと笑う。

「狙ってた……わけじゃないよね」

 理香はしんみりとミルクティーを味わう。



「進一くんに好きな女の子ができた」



「かもしれない」

「否定しないのね」

「樹理さんの悪意に免疫ができたのかも」

「心外だわ。好感や好意があるのなら愛欲手前の好きな女の子とみなすべきよ」

「そこは愛情の手前って言うんじゃない?」

「そうね。いわれてみればそうかもしれないわ。きっと艶かしい関係だけでは終わらない。理香という手枷がなければ一気に恋仲にまで発展したのでしょうね。愛欲というよりは愛情のほうがいいかもしれないわ」


「気のせいかな。悪意しか感じないんだけど」

「もちろん理香の気のせいよ」



 樹里はティーカップを光にかざして、理香は口もとにカップを運ぶ。



「復讐は考えてないのね」


「うん。聞かれるとおもった」



 理香は冷めきったミルクティーを半分ほどに減らした。まだまだ磨きが足りないらしく、樹里は変わることのない優美な動作でティーカップを磨きはじめる。理香の手により陶器がふれあい、カチャリと音が店内に響いた。



「私の立場からすると、文恵さんは敵になるんだよね。恋人がいると知って部屋に上がりこんでいるなんて、猫が目当てだとしても言い訳にはならない。けど、私はやっぱり、文恵さんのことを敵だとはおもってない。文恵さんは問題じゃない」


 私が許せないのは、文恵さんじゃない。

 つぶやいた理香に、「ずいぶん余裕ね」と樹里はいった。


「う~ん、進一のそばにいて支えになってるとか、うらやましいって思う気持ちはあるけど、進一を盗られるとか、進一に捨てられるとか、そういう不安はぜんぜんないんだよね。比べようもないくらい、断トツぶっちぎりで愛されているからかなぁ。進一が気に入るくらいだから、きっといい子なんだろうなって。そんなこと考えちゃうくらい、余裕を感じております」


「ほんとにいい()なのかしら」


「……断トツのところは流すんだ」


「とうぜんよ。あなたたちがバカなのは認めているもの」


 理香はカウンターに両肘をついた。両手のうえに顎をのせて、だらしない姿で見上げてくる。

 樹里はクスリと楽しそうに笑い、「文恵ちゃんは」と理香につげる。


「隙あらば奪い取るつもりで虎視眈々と理香の後釜を狙っている」


「ん~、悪い()かも」


「わたしも進一くんの見る目を疑うつもりはないわ文恵ちゃんの性格が歪んでいるとはおもわない。でもね恋人の存在を知りながら男の世話に手をつくしているのは気になるところよ。たんなる義理や恩返しではなく好きになった相手に尽くしてるのかもしれない。たまにしか会えない恋人なんていずれ別れる。そう考えて待っているのかもしれない。もしもそうなら気持ちは燃え上がる一方よ。いくら待ってもチャンスが訪れないとおもったら泥棒猫に化けるかもしれないわ」


「……猫好きの泥棒猫ね……でも進一、文恵さんから恋人のために頑張れとか言われたらしいよ」


「応援してくれてるっていいたいのかしら。でもだめよ。それだけで文恵ちゃんの気持ちを判断しちゃいけないわ。考えてみなさい好きになった相手に恋人がいると知ってしまいました。奪い取るか身を引くか。とってもいい子だったなら奪い取るとは考えないでしょうね。むしろ好きになってしまったことを悩むかしら。そしてどうしようもないと気づいても自分の気持ちに折り合いをつけて相手の幸せを願ってしまう。進一くんの溺愛ぶりを察したなら身を引いて応援しようと考えても不思議ではないわ」


「……あきらめてくれたなら」


「あなたは進一くんをあきらめることができるのかしら」


 たとえ恋人になれないとしても、好きな人の支えとなることはできる。

 それなら、いまのままでもかまわない。

 めったに会うことのない恋人よりも、そばにいて力になれて、役に立つ存在になれる。


「好きな人をあきらめるなんて簡単にできるわけがない。優越感を味わうことのできる環境にいるのならなおさら難しいんじゃないかしら。もちろん文恵ちゃんはあきらめたつもりなのかもしれないわ。ただ少しでも進一くんの力になりたいと考えただけなのかもしれない。でもだめなの。たとえ無自覚の優越感であったとしても抱いてしまうのは願望だから。このままでいたいと願う気持ちはいずれ疑問に変わる。どうして自分じゃないの。わたしはいつだってそばにいるのに。どうしてわたしが恋人じゃいけないの」


 樹里は語ることをやめた。

 少しだけ間があいて、理香が盛大にため息をつく。


「それでも、関係ない」


 それでも文恵さんは関係ない。私が許せないのは、私自身だから。


 理香は残っていたミルクティーを飲み干して樹理におかわりを要求した。たまには有料にしようかしらと樹理がつぶやき、脅迫の慰謝料代わりと理香が言い返す。

 樹里は優美な動作で首をふった。かすかに吐息をもらして、くすりと理香に笑ってみせる。


「うん、やっぱりそう。私に文恵さんを責める資格なんてない。進一の寂しさを紛らわせてくれたんだから、むしろ感謝しなきゃダメかもね。一回くらい挨拶しとこうかな。いつも進一がお世話になってます、みたいな感じで」

「いいんじゃないかしら。とても素敵な復讐になりそうよ」

「……うん、やめとく」


 樹里はくすくすと笑いながらカップを下げた。そして理香に背をむける。




「ねぇ、樹理さん……私ってさぁ……このまま、役者をやってていいと思う?」




「よくないとおもうわ」


 樹里は背中をむけたまま答えて、冷蔵庫からミルクを取り出した。


「……ねぇ、早くない? けっこう難しいこと聞いたよ?」


「わたしにとって理香は理香。あなたが役者として大成しなくても舞台に立てなくてもかまわない。むしろ進一くんと子作りに励んで美咲ちゃんにつづいてほしいとおもってるわね。わたしが悩むことなんてなにもないの」


「……あの、樹理さんはそれでいいんだろうけど、できれば、進一のさぁ」


「進一くんの気持ちなんて考えなくていいのよ。たしかに進一くんは理香と同じ夢をみているけれど夢よりも何よりも理香を欲している。だから理香は理香の気持ちを優先すればいいの部屋に押しかけて子どもが欲しいと訴えれば進一くんはあなたを受け入れてくれるわ」


「……樹理さん、子ども好きだっけ?」

「美しい子は好きよ。心のやさしい子どもなら濃厚なチョコレートクッキーだって作ってあげる」


 いつものように、ミルクを鍋にいれて火にかける。


「もちろん劇団のことを心配する必要もないわ。たとえ理香が抜けて低迷しようともそれは新たなスターが生れるための工程のひとつに過ぎないもの。あなたの劇団仲間たちだって祝福してくれるはずよ恋人を選んだからといって裏切り者と呼ぶほど弱くも惨めでもない。たとえ団長さんが駄々をこねたとしても気にすることないわ。いざとなれば美咲ちゃんが黙らせるでしょうから」


 ていねいに作業をつづけながら、理香の余計な悩みを除いていく。


「……劇団に迷惑かけるの、そういうの進一、いい顔しない」

「そうでしょうね。でも大切なのは理香の気持ち。あなたがどうしたいかということだけが問題なの。進一くんの気持ちなんて考えなくていい。どんな選択であっても進一くんは受け入れてくれる。だから、念のために聞いておくわ」


 思考の迷路に逃げ込めないように。

 言い訳はできないように。


「もしも進一くんが役者をやめてほしいと願っていたら、あなたは迷うことなんてなかったのかしら」


 なにも言い返せないでいる理香に、本心を自覚させるために。


「愚問だったわね。きっと進一くんのほうが耐えられない。それにそんなことを願うような相手なら舞台の華はここまで咲き誇ることもなかったかしら。少しばかり演技力に自信があるだけの冴えない役者でしかなったのに、あなたは恋をして魅力的になった。それでも進一くんの神経を疑いたくなるような賞賛がなければ夢は夢のままで終わらせることもできたような気がするもの」


 樹里はミルクに茶葉をいれた。

 理香の好みに合うように、たっぷりの砂糖とカルダモンシードをくわえる。


「ずっと支えていたかったのに今となっては理香を迷わせる邪魔な存在でしかない。進一くんはこうなることを恐れていたのでしょうね。だから理香に寂しさを知られたくはなかった。そして寂しさに気づけなかったあなたは自分を許せないでいる」


「あなたたちは愚かだけれど、そうでなければできないことがあったのもたしかよ」


「進一くんは舞台に立つ理香の姿に心を震わせた。うれしそうに舞台のことを語る理香の姿をみていたかった。夢と恋人を切り離したくはない。べつの幸福が姿をあらわすとわかっていても進一くんは夢に生きる理香を捨てることができなかった。互いに支えあうのが正しい関係。犠牲にならなければいけない関係なんて長続きするはずもないのに理香と新しい関係をつくることができなかった」


「理香はどうかしらね」


 樹里は微笑みをそのままに、甘いミルクティーを理香にあたえる。




「あなたは進一くんを捨てるのかしら」




「ヤダ。ムリ」

「返答が早いわ。少しぐらい悩んだらどうなのかしら予想よりも圧倒的に早かったわよ」

「無理なものは無理」


 理香があっさりと言い切り、まるで子どもねと樹里はつぶやいた。

「あなたに役者はやめられない。進一くんがやめてほしいと懇願すれば可能性もあるのでしょうけれど……思い出すわね。理香が進路を反対されて家出をして美咲ちゃんの粘菌飼育室に立てこもろうとした日のこと……ほんとに無事でよかったわ」

 虚ろな目をした理香を確認して、樹里はふたたびカップを磨きはじめる。


「もしも進一くんの寂しさに気づいていたら、あなたは舞台活動を休止していたかしら」


「……自信、ない」


「それなら後悔なんて無意味じゃないかしら」


「でも、私は進一のために生きたいの」


「それは本心なのでしょうね。だからこそ進一くんの寂しさを癒したいと切望して、役者をやめなくてもいい理由を探している。あなたは迷っているわけではなく目を背けたいだけ。進一くんの気持ちを言い訳にして自分の矛盾した気持ちを否定したいだけよ」



「…………きびしいな……樹理さんは」



 理香はミルクティーに手をつけず、ゆっくりと崩れるようにしてカウンターにふせた。


「べつに悩むことも苦しむこともないのよ。進一くんは役者をつづけてほしいと願ってる。夢を叶えたいなら多少の犠牲はしかたないもの進一くんはずっと待っていてくれるわ。あなたも進一くんの選択を尊重しなさい。もしも進一くんが支えを必要としているのなら大きな舞台はひかえめにして会える時間をふやせばいいの」


 理香はこつんと頭を打ちつけた。


「文恵ちゃんに協力してもらう方法もあるわね。愛人契約というのかしら進一くんに二股を認めさせることができれば簡単に解決できるとおもうわ」


 理香はゆらりと顔をあげた。


「……ねぇ、樹理さんが楽しそうなのは気のせい?」


 もちろん気のせいよ。

 樹里はティーカップを光にかざし、うっとりと優美に微笑んでみせた。

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