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32 猫好きの支援者

「彼女は大学の後輩で、猫探しを生きがいにするような猫好きではあるけど抱いたとか抱いてないとかいう関係ではなくて、誤解されるようなことも、ない、とはいえない……」


 なにを語ろうが所詮は言い訳。進一は早々に口を閉じて、非難を受け入れる構えをみせた。

 しかし、理香の答えは決まっている。


 理香は一歩近づき、進一の胸に身体をあずけた。


「樹理さんのおかげかな」

 そういって、進一の背に腕をまわした。


 進一の反応から察するに、猫に関わる異性の存在は疑いようもない。けれど、それが男女の関係であるとは感じられない。進一の説明など頭に入ってこなかった。一夜の過ちならあるかもしれないと覚悟をしていただけに、うれしくなって涙がこぼれた。



 進一は優しく繊細に、そっと理香を抱き寄せる。

 自分に慰める資格があるのか。ためらいはあっても、それでも守らずにはいられなかった。



 進一にはわかる。理香の感情は怒りや哀しみではない。

 樹理が絡んでいるのなら、的外れの推測はないだろう。理香の妄想に拍車をかけた疑いもある。ではなぜ、理香は安堵して喜びを感じているのか。樹理は何を語ったのか。

 それが、進一にはなんとなくわかる。


「あなたは理香を捨てるのかしら」


 思い出される甘い香り。どこまでも優美な仕草で、樹理は甘いミルクティーを淹れる。

 理香のいない寂しさを見抜き、恋人を取り戻せと脅しながら。




「進一のシャツに猫の毛をみつけて、猫が好きじゃないのになんでだろうって、不安になって樹理さんに相談したの。浮気だとか寝取られたとか、さんざん脅されちゃったんだよ? 進一はずっと寂しがっているんだから、別の女がいてもおかしくはないって。進一と、ちゃんと話をしなさいって」


 理香は温もりを感じながら不安を伝えた。

「あの人らしいな」とつぶやいただけで、進一はなにも語らない。話を聞くはずだったのに、聞いてもらって慰められている。進一の支えになりたい。今度は私が進一のために。願いと覚悟が、自分の弱さで崩れていく。弱さを自覚するほどに、進一の優しさに頼ってしまう。

 自分の弱さに泣けてきて、確かな温もりに笑みがこぼれた。


「ごめんね。いきなり変なこと聞いちゃって」


 知らない女とどんな関係にあるのか。

 そんなことは、もうどうだってよかった。だからこそ、いまなら聞ける。


 もう一度最初から。しかし、理香は離れようとして、進一に抱きとどめられた。涙をぬぐう暇もなく、求められ、戸惑う理香の耳もとで、大丈夫だからと進一はささやく。もう十分だ。これ以上はいらない。理香が望んでくれるなら、それだけでいい。

「もう、大丈夫だから」

 進一はそういって、理香を強く抱きしめた。


 ささやかれた言葉には力があった。それは確信であり、誓いでもあった。理香には伝わる。進一の声が、その振動が熱をともなって身体中に広がる。捨てられることなどありえない。裏切られることなどありえないと、理香は心から信じられる。

 だからこそ、危うさを感じた。

 理香は進一のシャツを握り締め弱々しく抗う。

 いままでならこれでよかった。求められるままに、このままでいたいと願うだけでよかった。しかし、甘かったのだと理香は気づく。樹理の言っていたことは正しかった。受けとめていた以上に、樹理の言葉は正しかった。進一は寂しさを抱えている。進一はずっと無理を重ねていた。

 進一は弱い。

 慰めを必要とするほどに。


 理香はシャツを握ったまま、強く強く進一にすがった。


 進一は役者としての成功を望み、恋人として会うことを待っていてくれる。

 だから、今度は私が進一のために。

 そしていつか、進一のそばに。


 なんて愚かなのだろう。


 いつかでは遅すぎるのに。

 いまでなければ意味がないのに、ずっと待っていてもらおうと思っていた。




「行こうか」



 進一は曇りのない顔で笑いかけてくれる。疑いようもなく、愛され、守られている。

 これ以上はいらないと進一はいった。そばにいられない私でも、少しは進一の支えになれてる? 進一の力になれるなら、舞台の数ぐらい減らしてもいいの。こうして会って、守られることでしか支えにはなれないのなら、劇団のみんなを裏切ってもいい。


「うん」


 でも、進一はそんなことを望まない。寂しさをかかえた進一は弱く、それなのに慰めを求めようとはしない。弱さを隠して、これからも自分を犠牲にしようとしている。

 きっと、どうしようもなく愚かなのだ。

 私も、進一も。









 猫好きだというその(ひと)は、進一にとってどういう存在なんだろう。

 男女の関係ではないにせよ、恋人に近い存在? そばにいて、孤独を癒してしまうような。


「聞いてもいいかな。もう一度、はじめから」


 本わらびもち黒蜜をふたつ注文したあと、理香は尋ねた。

 理香には苦すぎる緑茶をすすり、今度はゆっくりと進一は語る。


 彼女の名前は西園寺文恵。今年サークルに入ってきた大学の後輩。部屋にやってくる野良猫を求めて、ほとんど毎日部屋にきている。猫に関しては強引だが、それ以外のことは常識的かつ良心的。気を使ってくれて、部屋の掃除や食事の用意まで、猫がこなければやってくれる。猫と戯れていなければ、じつにありがたい存在。


「部屋を貸してる見返りとはいえ、彼女にはずいぶん世話になってる」


 ずっとそばにいて、進一を助けてる? 私がやりたかったことをしているの?


「……その文恵ってひと、可愛かったりする?」


「ん? うん……可愛かったりは、するかな。理香ほどじゃないけど」


 つまり、私のほうが可愛い。お世辞とかじゃなくて、進一は本気で言っている。これはもう、進一の顔を見ていればわかる。自然に口にしてしまうらしく、おかしなことを言ったとも思っていない。

 めずらしいことじゃなくて、みんな知っている。進一のこういうところを樹理さんは憐れむ。その場にいたなら、ゆうちゃんや団長なんかも唖然として距離をとり、一条さんに至っては金縛りにあう。進一のどこかが壊れていること、進一の意見が参考にならないことは、周囲の努力により私も学んでいる。

 でも、いまは関係ない。100人アンケートに大差で負けたとしても関係ない。大切なのは進一の一票。

 うん、だいじょうぶ。私のほうが可愛い。


「……じゃあ、私ほどじゃない可愛い女の子が、猫に会うために毎日進一の部屋にきて、ついでに掃除して食事の用意をしてるってこと?」


「まあ、そんな感じになっていて……それで、少し前までは、彼女とふたりで食事もしてた」


 進一の表情はすこし硬い。


「……ふたりだけで?」

「そう。部屋で、ふたりきりで」


 進一はすべてを話す気でいる。間違いなんてなかったとは信じているけれど、『桂馬』みたいな騒々しい雰囲気ではないわけで、いくらでも良い雰囲気になりえるわけだから……。


「……胸は、大きい?」


「…………いや、大きくはないんじゃないかな? 柴田や美咲さんほど存在感はなかったと思うけど」


 柴田ってひとのは知らないけれど、美咲より小さいといわれても勝算はみえない。

 進一の目が憐れみを帯びているような気がする、と思ったら視線をそらされた。


「進一、抱いたの?」


「抱いてないよ。理香がいるのにそんなことはしない。けど、そう勘繰られてもしかたない状況だとは思うし、理香にとっておもしろい状況じゃない。もしも理香がほかの男と一緒に食事をしていたら、そう考えたら、もうダメだった」


 だから、部屋に帰らないようにした。二人きりの状況をつくらないように、研究室にこもることを選んだ。不自然な生活だと気づいたあとも、彼女に来るなとは言えなかった。拒むどころか、やってくる猫の追跡に協力した。猫が来なくなっても、彼女が困らないように。


「彼女、猫に会えないと元気がなくてね。そういう弱ったところ、あまり見たくなかったから」


 まぁ、来るなといっても押しかけてきたとは思うけど。

 進一は湯飲みを口に運んだ。おもしろそうで、どこかうれしそうな顔をしていた。



「進一、その子のこと、好きなの?」



 ふっと感じたことを、理香はそのまま口にした。答えを聞くまでもなく、好意があるのはわかる。それがどの程度ものかもなんとなくわかる。だから、嫉妬はなかった。柴犬のタローに嫉妬しなかったように、愛されているという意識が揺らぐことはない。自然と文恵の存在を受け入れていた。いい子なんだろうなと、とても好意的に。


 進一は湯飲みを持ったまま、どうだろうなと苦笑していた。好きだといっても、目の前にいる想い人とは比べようもない。少し唸って悩んではいたが、結局答えはかえさなかった。ただ、「彼女には感謝してる」と進一はいった。


「感謝しなきゃ罰が当たるよ。結局、猫の追跡も足手まといに終わったし……そういや最後、こっちはもういいから、もっと自分自身や恋人のために頑張れともいわれたな。気をつかってくれたのか、足手まといを切り捨てるためだったのかはわからないけど」


「ん? ああ、そっか。むこうは私のこと知ってるんだ」


 んん? ということはなに? 恋人がいるとわかっていて部屋に上がり込んでるってこと?


「大切な人がいるってことはね。聞かれてもいないのに教えるのは変だから、なにも言ってなかったんだけど」


 そういえば、文恵さんにとって進一はどういう存在なんだろう。聞いてる感じだと、猫が命で、猫に恋してる感じで、進一はぜんぜん相手にされていないような……ただの無害な先輩であって、男としては眼中にない? それはそれで複雑な感じが……でも、迷惑をかけてるとはいえ、どうでもいい相手に毎日食事の用意とかする? 料理が好きなだけ?


「理香?」


「……文恵さんとは、もう一緒にいないの?」


「いないよ、部屋にいる時間帯が違うから。部室のほうも顔を出してないし、最近は会ってもいないな。帰ったら料理のメモがあって、今日も来てたとわかるだけ。ごちそうまでしたってメールは送るけど」


 進一は少し困ったように笑った。


「いろいろと大変だったけど、おかげで余計なことは考えなくてすんだ。彼女がいなかったら、もしかしたら、後悔することになっていたかもしれない」


「後悔?」


「声を聞くだけじゃ足りなくて、理香に会いにいったかもしれない」


「……それって、本音だよね」


 会えなくて寂しいと進一が認めた。進一は遠ざけられたと感じるくらい連絡をくれない。ずっと強がっていて、だから、寂しいってことを進一の口から聞かされるのは初めてのことで、とても意外な感じがする。

 ……でも、ほんとに初めてのこと?

 私がバカじゃなかったら、隠し切れない寂しさに気づいて、ちゃんと受け止めることができた?


 進一はやっぱり苦笑して、照れたような顔をしている。疲労の影は残っているけれど、すっきりとしていて、ふっ切れた感じがする。向けられた眼差しに、すべて終わったことであり、もう大丈夫だと言われたような気がした。


 進一は迷いなく待ちつづける。

 でもそれは、もう寂しくないというわけじゃなくて、ただ、寂しくてもかまわないというだけ。




「ねぇ……もしも私が役者をやめて、いっしょに暮らしたいって言ったら、進一はどうする?」




 進一は、しばらく呆然として理香を見ていた。そして、うなだれるように顔を伏せた。

「断われないな」とつぶやいて、進一は顔を上げる。困ったように笑いながら、「それは断われない」と嬉しそうに告げる。


「団長に恨まれても、理香の夢が絶たれるとしても……だから、理香がほんとうに役者をやめたいと思ったのなら、もっと頑張れとは言えそうにない。理香の一番輝いている姿が消えてしまったら、きっと後悔することになるだろうけど」



 わらびもちが運ばれてくる。

 プリンでもめったにないのに、進一のほうが先に手をつけた。



「このままでいいんだ。このままずっと、理香を待っていたいんだよ」



 進一は何もいえないでいる理香に微笑みかけた。

 少しだけみせた、遠くを見るような眼差しのなかに、理香は寂しさを見つけた。

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