31 覚悟を決めて
「こんな展開になるとは、さすが、美咲さんには敵わない」
やれやれと首をふる進一がどこまでもうれしそうで、
「ごめんね」
と理香は言った。
「進一は、一条さんが無事だったことがうれしいんでしょ? すぐにメールで伝えればよかったのに、なんだか悪いことしちゃったね」
どうかな。静かに微笑んだ進一は、少し悩んでからそういった。
無事じゃない孝雄なんて想像できない。やっぱり元気でいた、そうとしか思えないやつだから。
「それに、孝雄が父親になったなんて情報、メールで知らされても落ち着かないな。たぶんすぐに電話をして、長々と話し込んでいたと思う。だから、これで正解」
「舞台の邪魔になるから?」
「会って話したほうが、いいに決まってるから」
進一はコーヒーに砂糖をおとして、くるくるとスプーンで渦をつくった。
理香はココアを一口味わう。目を合わせようとしない進一をながめながら、アップルパイを口いっぱいに頬張った。
話題の衝撃度が大きく、待ち焦がれた恋人を前にしても惚けてはいられない。理香の幼なじみと進一の親友が復縁を果たすのは間違いないだろう。生れてくる子どもの容姿や、待ち受ける孝雄の苦労をネタに会話は弾んだ。
「こんなに話したのは久しぶりだな。ちょっとつかれた」
「進一はいつも聞き役だもんね」
進一がひと息ついて、二杯目のコーヒーを口もとに運ぶ。
いい感じだった。付き合い慣れたころのように、余裕をもって進一といられる。
変化もわかる。久しぶりにみる進一は、以前とはどこか違ってみえる。心底楽しそうにみえるけれど、ほんとに疲れているようにも感じる。きっと毎日遅くまで頑張って、疲れが溜まっているんだろうな。でも、なんだかワイルドになったような気がするのは、なぜ?
「なんだろ? 進一からハードボイルド的要素を感じるんだけど、なにかあった?」
「いや、どんな要素なのかよくわからないんだけど……うん、まぁ、ハードな日々もあった」
進一はコーヒーに視線を落とした。
なにかを思い出すような仕草に、理香は自分が知らない進一を感じる。心が揺れる。
進一がふっと小さく笑った。しだいに笑みが去ってゆき、眼差しが沈んでゆく。溜め息をついて肩を落とし、考えを振り払うかのごとく頭をふった。
暗く元気のない進一がいて、心が落ち着かない。
なにがあったんだろう。それは聞かなきゃいけないことが原因なの? なんだかそれどころじゃないような気もするけれど。
「どうかした?」
少し陰を残したまま、進一が微笑みかける。
「うん……進一、大丈夫なの?」
心配が伝わり、進一は頭をかきながら困ったように笑う。
「ああ、問題ないよ。さんざん苦労したにもかかわらず結果を得られなくて、自分の無力さを思い知っただけというか、いいようにやられっぱなしというか……終わったことだから、もう大丈夫。あとはもう、とっとと忘れるだけかな」
進一は苦笑して、ふたたびカップの中をのぞいた。
具体的なことは何も言ってくれない。それは忘れたいことだから? 心配させたくないから? それともやっぱり、恋人には話せないことなの? 進一は嘘をつけないから、なにも話してくれないの? ううん。違う。そうじゃない。進一は自分のことをあまり語らないだけ。聞けば答えてくれるはず。思い出したくないことでも、進一なら答えてくれる。
そう、きっと話してくれる。
言いにくいことでも。
聞きたくないことであったとしても。
私が知りたいと、進一に伝えさえすれば。
「理香?」
心配そうな眼差しに気づき、理香は笑ってみせた。
「進一は、くるみちゃん知ってるでしょ?」
「ん? 理香の話によく出てくる、劇団の後輩の?」
「そう、そのくるみちゃんのこと」
理香はくるみが電車で痴漢を撃退したという作り話を語った。進一の表情や仕草に注意を払いながら、おもしろおかしく聞こえるように。
「武闘派だな」
進一は陽気に答えた。
痴漢疑惑説があっさり消えて、少し戸惑う。不安になればいいのか、安心すればいいのかもよくわからない。電車猫はなにも関係なさそうだ。やっぱり、猫が苦手なんてことは期待しないほうがいい。
「そろそろ、次のところ行かない?」
理香はそういって、途切れそうな会話をつないだ。
「一条さん、進一のこと気にしていたらしいよ」
進一とならんで歩きながら、話題はインドの孝雄に戻っていた。
理香は遠回りの道を選んだ。進一の心に女が隠れていたとして、どうやって聞き出したらいいのだろう。つぎのスイーツもおいしくいただくために、いまのうちに考えたい。軽く運動もしておきたい。どうせなら人のいない静かなところを歩いて、いい雰囲気をつくりたい。
「なにか企んでない?」
「うん。違うといえば嘘になる」
進一は何を隠しているのか。なにがあったとしても受け入れる覚悟をしたはずだ。そこをはっきりさせないと、あとで苦しむのはわかりきっている。ちゃんと話をして解決する。なにも気づかない振りはできない。それなのに、いつの間にか悩むところを間違えている、愚か者がいる。
「私って、ときどき自分が怖くなる」
進一が距離をとりそうな気配を察して、すばやく腕をからめとる。
理香は進一が渡した旅費について聞いた。
「三十万くらいだったかな。孝雄のやつ、はじめは旅行だと言っていたんだ。どこか上の空で、インドに行くんだと。たいした資金もないのにそんなことを言うから、強引に渡して恩を売っといた。絵葉書が届いたときには、やっぱりそうなのかって思ったな」
美咲さんと付き合うには、それぐらいの休息は必要なんだろう。進一はそういって苦笑した。
「でも、よく三十万も渡したよね。親友だから?」
「どうだったかな……孝雄はけっこう律儀なやつだから、お金ならいつか返ってくるとはおもったかな。大学院に進学を決めて、奨学金とバイトで暮らすことになったから、とくに使い道もないわけだしね」
進一は小さく笑う。過去を振り返り、かつてを懐かしむような、寂しそうな、遠い目をしていた。
理香は寂しさに襲われて、進一に身体を寄せる。
そばにいるのに進一が遠い。進一のことを、何も知らないでいるような気がする。
「聞いてもいいかな?」
「なにを?」
「さっき言ってた、ハードな日々ってやつ。進一の忘れたいこと」
「……急に、どうして?」
まずはそこから、という理香の思いに反して、進一はすぐには答えなかった。
「なんとなく、かな」
理香に重ねて問われ、それでも間があって、ようやく「猫だよ」と進一は告げる。
「部屋に、野良猫が来るようになったんだ」
進一の返答に、理香は思わずポツリとつぶやく。
ミラクル?
進一が首をひねり、なんでもないなんでもないと理香は大袈裟に首をふった。とてつもない偶然にうれしくなる。進一の表情に険しいものを感じて、もしかしたらと期待する。
「で、その猫に酷い目にあったとか?」理香は興奮を抑えきれず、先走った質問をした。
「えっ……まぁ、追いかけることになって、苦労したわけだけど」
「じゃあ進一って、ほんとに猫が好きじゃないんだ」
「……どうなのかな。好きじゃないってわけでも……」
進一は苦い顔をして唸った。
これはもう好きなわけないよね。理香はうれしくなって進一に身体をくっつける。
「進一が悩むってことは相当ひどい猫なんだろうね。どんな猫なの? 名前はつけた?」
進一は暗く寂しそうな表情になり、やれやれと首をふった。
「あれはもう、猫じゃないよ」
沈んだ声でささやいた。
ほんと、何があったの? 初めてみる進一に、理香はなにも聞けなくなった。どんな不幸が降りかかれば進一はこうなるのだろう。喜んでいいような悪いような、複雑な気持ちになる。
浮かれることができなかった理香は考えてしまった。
どうして猫を追いかけることになったのか。猫は好きじゃないと電話で聞いたとき、あのときすでに追いかけていて、酷い目に会っていたのか。
迷いは不安に傾く。
やっぱり、ちゃんと話をしなきゃいけない。
このままでいたら、進一の想いまで疑ってしまうかもしれない。
「どうかした?」
理香が静かになって、進一が声をかけた。心配そうな顔には、陰が残る。
「進一が、疲れているように見えたから」
「ああ、たしかに疲れは残ってるかな。試験も、近いから。最近はけっこう、遅くまで研究室にこもってる」
進一の言葉に力がない。歯切れが悪い。なにかを隠している。嘘がつけないから。話したくないから。
「そうなんだ」
理香は一言だけを返して、視線をそらした。あっさりとした反応に、進一も言葉をつまらせる。
ふたりは歩みを止めた。
強く風が吹いて、風の音だけが聞こえた。
「理香、ほんとに大丈夫か?」
理香はうつむく。
大丈夫じゃない。覚悟はしていたはずなのに、やっぱりイヤだ。知りたくない。知らなければ、どんな可能性でもありえる。進一はなにも隠していない。なにも気づかない振りをして、ただ信じていればいい。進一はずっと私のそばにいてくれる。いつかまた、なにも考えずに笑えるようになる。
理香は顔をあげて、明るく笑ってみせた。
「ごめん。なんだか劇団のほうが気になっちゃって」
つくった笑顔で、ろくでもない恋人を演じる。
進一の顔つきが変わった。進一はまっすぐに理香を見つめた。向けられたのは、大切な人を案じる真剣な眼差しで、ふっと、理香の全身から力が抜けた。
「やっぱり、私に役者なんて無理かもね。けっこうがんばってきたんだけど」
からめた腕をといて、そっと進一の胸にすがる。
進一に弱音を吐いたのは、いつ以来だろう。懐かしくて、やさしい気持ちが空っぽの心を満たしていく。あふれでる愛しさが理香に微笑みをもたらした。それは進一も変わらない。
進一は理香の背中に手をまわして、やさしく理香を包みこんだ。
「役者は理香の天職だ」
お決まりの文句を言い切る。
それだけ言えば十分だった。このあとにつづく樹里や理香の劇団仲間が耳を塞ぎたくなるような言葉の数々は、理香の身体に染み付いている。
あのころの進一はここにいる。
進一は変わらない。誰よりも私のことを想ってくれている。ずっとそばにいてくれる。
理香は進一から離れた。
一歩だけ下がり、まっすぐに進一をみつめる。
「進一、猫好きの女を抱いたの?」
弱い微笑みのままで理香はいった。
なにか間違えたような気はしたけれど、そんなことは、もうどうでもいいと思った。
真剣な眼差しで理香を見守っていた進一は、そのうち下を向いて考え込んだ。
理香が何を悩んでいるのか、進一がわかっていたはずはない。理香が本気で苦しんで、心から問いかけていることを疑うはずもなく、理香の悩みといえば芝居のことだと思い込んでいる。
意味がわからなかったのだろう。
何を言われたのか、すぐに理解できたはずはない。
進一は顔をあげて、ピンときていない表情のままで理香を確認した。
理香はじっと返答を待っている。すべてを受け入れる覚悟をして、進一を待ち続けている。
猫好き。
とくれば文恵を思い浮かべるしかない。思いつけばしっくりとくるだろう。
なぜなら文恵は猫好きであり、女でもあるのだから。
「いや、抱いてない抱いてない」
進一はよくわからないまま、素直に驚きながら否定した。
言ったあと、ようやく芝居ではなく、自分のことで悩んでいると気づいたらしい。進一は大いに慌てはじめた。なぜ理香が文恵のことを知っているのか疑問を抱くだろう。知るはずのないことを知っている、前にもあったなこんなことと考えるかもしれない。
疑問は多々あれど、とにかく浮気ではないことを説明しなければならない。
進一は肉体関係を全力で否定し、猫好きの女がいることを認めた。