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29 最後の見送り


 西園寺文恵はこれでいい。元気のない彼女は見たくない。


 進一はハニープリンを味わいながら、プータローと視線を交える。進一の意欲を察してか、蜂蜜色の瞳がキラリと光った。キャラメル色のふくよかな身体が、文恵の膝でもぞもぞと動く。グルグル鳴いて甘えてこられては、うれしくてしかたないらしい。文恵はプータローを抱えたまま畳に寝ころんだ。

 猫とともに畳を転がる文恵がいて、進一はニヤリと口元を歪ませる。プリンを大量に食べさせる計画は反対されたが、弱らせる方法なら他にもあるらしい。

「我ながら、ずいぶんと考え方が姑息になった」

 進一は振り回されている猫を存分にながめ、プリンをおいしくいただいた。



 文恵の抱擁から解き放たれたプータローは、ふらふらと小さい窓のもとへ移動した。文恵が立ち上がって窓を開けると、プータローは窓枠に跳びあがりそのまま外の犬小屋へ下りる。

 ゴトンという音が聞こえた。

 捨てられない犬小屋を踏み台にして、今夜もプータローは去っていく。

「行きます?」

 文恵が尋ねる。以前は声をかけることなく玄関で靴を履いていたが、このところ進一に確認をとっている。進一の耳には、「今日もわざわざやられに?」とも聞こえる。

 進一はうなずいて立ち上がった。自然と態度にも意欲があらわれ、文恵も興味がひかれたらしい。

 じっと見られるのが照れ臭く、進一は頭をかいて困ったように笑う。「ちょっと考えてみた」と前置きをして、文恵に仮説を話しはじめた。


 進一は猫との戦いに決着をつけるべく、あらためてプータローの能力を分析している。


 敗北をつづける最大の理由は、プータローの姿を見失ってしまうこと。目を離したり、物陰に隠れたり、一瞬でも視界から外れると消えている。どこにも姿が見当たらない。どうやって逃げているのか、ずっと常識的な視点で考えてきたが、まっとうな考え方を捨てない限り勝機はない。ここはひとつ、本当に消えていると考えてみる。

 これまで否応なく観察をつづけてきた。

 プータローが消えたあと、そう遠くない場所にキャラメル色の猫を発見できる。見つけるまでの時間と距離の感覚からいえば、瞬間移動といった類ではない。プータローは普通に歩いて移動していると思われる。

 存在に気づかないだけで、プータローは逃げもせず、隠れてさえいないのではないか。あの性格からすれば、むしろ堂々と目の前におり、探しまわる姿をみて楽しんでいるかもしれない。

 もうひとつ。目撃者について。

 駅周辺は人目も多い。たとえば向かって歩いてくる通行人など、こちらの死角を見ることができた人物ならば、プータローが消える瞬間を見ることができたはず。しかし、猫が消えて驚いた目撃者は一人もいない。

 まず間違いなく、猫が消える瞬間を見た人はいない。

 プータローは消えたが、キャラメル色の猫は消えていない。

 どちらも正しかったとすれば、ふたりがプータローの姿を見失い、あたりを見回しているそのとき、ほかの人たちには猫の姿が見えていたことになる。通行人から疑わしい目で見られる状況。「お前たちは何をしているんだ? 猫なら目の前にいるじゃないか」と言われそうな状況。

 ふたりにだけ見えていない。

 ふたりが見ている世界にだけ、プータローの姿が欠落している。


「そうですか……ついに佐山さんも、プーちゃんを化け猫と決めてかかりましたね」

 駅へと向かう下り坂。すでに児童公園が見えている。

 文恵の意図せぬ攻撃が効いているのか、プータローは寄り道もせず歩いていた。ノロノロと壁際を歩くプータローの後ろ、二メートルほどの距離をおいて、進一と文恵はのんびり歩いている。

「仮説の前提条件としてはだけど……まぁここまでくると、もう化け猫の定義のほうが間違っていると思いたいね。化け猫はきっと、人間なんか襲わない。長い年月を生きつづけた猫は妖力を得て、プリンを狙う妖怪になるんだよ」

「うーん、そうきましたか。早紀が聞いたら喜びそうです」

「ああ、柴田にだけは秘密にしてほしい」

 難しい相談ですね。

 文恵が子どもっぽい表情で進一をみる。

 これなら話してみた価値はあるだろうか。明日には柴田がやってきそうではあるけど。

 進一は少しだけ空を見上げ、すぐに余計な考えを振り払う。前を歩くプータローに意識をもっていく。

「とにかく、対処法を模索したい。プータローによって視覚が狂わされる、つまり、脳が騙されている可能性があるから、それを検証しようと思う」

 プータローを見据えながら、聞いているだろうと進一は考える。

 猫は人間の言葉を理解しているという。それが事実かどうかは知らないが、コイツが会話を理解していないはずがない。自信がある。むしろ思考まで読まれているような気がする。ならば下手に隠すことなく、反応を探ってみたほうがいい。

「脳を騙すというなら、消えるだけじゃない。存在しないものを見せることができるかもしれない」

「幻をみせる、ってことですか? キツネやタヌキみたいに?」

「そう、もっと積極的に人を化かすこともできるだろうね。サンダルサイズの巨大なゴキブリが現われたら、と思うとゾッとするけど、妖怪にだって能力に限界はあるはずだ。いままで消える瞬間を見たことはない。脳を騙すにも、脳がすんなりと受け入れられる状況が必要なんじゃないかな。個人の世界観を崩壊させるような、強引な騙し方は不可能と信じたいね」

 狂わす時間や人数にしても、無制限ってことはないだろう。

 しかし、脳が受け入れ可能なら、どんな幻でも見せることができるかもしれない。だとするとやっかいだ。脳が受け入れたがるものを、人の見たいものを見せることができるのならば、それはもう最高の詐欺師だ。いくらでも人を落とし入れることができる。

「佐山さん?」

「ん?」

 危ない。

 文恵が叫んだときには遅かった。

 進一は立ち止まらなかった。歩きながら首だけを回して、不審から驚きへと変わってゆく文恵の表情に注意をむけていた。なぜ彼女は立ち止まっているのか。なにを不思議に思っているのか。疑問はあっても足を止めることはなかった。

 進一は速度をゆるめることなく電柱に右半身をぶつける。

 半身を強打するまで、電柱の存在に気づかなかった。歩みはゆったりとしていたが、予期せぬ衝撃に苦痛は大きい。進一は電柱に身体をあずけ、目をつむり黙って耐える。「だいじょうぶ、ですか?」心配する声が聞こえたため、やせ我慢をもって両足を踏ん張った。

 自分の身に何が起こったのか。

 わからなかった。電柱が見えていなかった。しかし、なぜ? 電柱などあるはずがない。ずっとプータローを見ていた。プータローは見えていた。電柱があったとすれば、視界は遮られていたはずでは? 

 進一は困惑したまま顔を上げる。

 と、プータローがこちらを見ていた。わざわざ立ち止まり、振り返えって進一を見ていた。

 進一は理解する。

 脳を騙すというのなら、存在を誤認させるというのなら、猫も電柱もたいした差ではないのだろう。電柱の存在を認識させなかった。電柱の存在を欠落させて、電柱に遮られ見えていないはずの部分も都合よく補完されている。プータローの姿を、見たいものを見つづけていた。 

「ひょっとして、化かされました?」

 文恵が聞いてくる。

 正面にある電柱にノンブレーキでぶつかる人間はそうそういない。進一の仮説を聞いたあとであり、文恵も似たようなことを考えたのだろう。

「たぶんね」

 進一が認めて、プーちゃんすごいと文恵がはしゃいだ。

「いや、笑えないんだけど」

 つられて苦笑し、進一は真っ直ぐ立ち上がる。

 プータローは歩きだしていた。尻尾をピンピン立たせて去っていく姿には、意気揚々という言葉がピタリとはまる。

「……化かされたというか、馬鹿にされたというか」

 進一は溜め息をついた。

「ええ、さすがはプーちゃんですね」

 文恵は自慢するようにプータローを誉める。

 会話がプツンと途切れてつながらず、ふたりは横目で視線を交わす。そのあと逃げるようにして、文恵がプータローを追いかけていった。

 





 二人同時に見失うことは、できるだけ避けたい。進一は思い切ってプータローの横を歩き、文恵がプータローの後ろを歩くことで様子をみた。

 どうやら仮説は否定しづらいらしいと、進一は数々の痛みによって思い知らされる。

 電柱にぶつかり、駐輪自転車に脛を打ち、進一にしか見えない幻の猫を追いかけて、堂々と公衆の女子トイレに侵入する不審者になりかけた。線路に沿って追跡は続いたものの、能力を隠そうとしなくなったプータローに遊ばれるだけで、対処法を見つけるどころではない。進一にトラブルが頻発するため、文恵も追いかけることに集中できなかった。

 





 駅の改札口を目指し、肩をならべて二人で歩く。進一の足どりは重い。スイーツタイムを楽しむことはできたが、結局は逃げられて落ち込んでいる。打撲をうけた身体も疼く。トボトボと歩く進一に合わせて、文恵もゆっくりと歩いていた。

「……どうしたもんかなあ、これ」

 進一が弱音を吐いて、楽しそうに文恵が笑う。

「相手はプーちゃんですからね。ここまでこれただけでも、上出来だと思いますよ」

 すっかり励まされる立場になってしまった。胸の内でつぶやき、進一はぐるぐると考える。

 心が折れたあの日から、隠れていた予感が姿をみせている。プータローに逃げ切られると、いつかはこのままいなくなると感じてしまう。これでいいとは思えないが、文恵はどう思っているのか。進一にはわからない。


「……それでいいと思ってる?」

「ええ、いいと思ってます」


 進一は立ち止まり、文恵も足を止める。

 文恵の答えがあまりにも潔く、おもわず文恵の表情をさぐった。嘘をついているとは思えない、満たされた顔がそこにはあって、進一はますます困惑する。

 わからない。彼女はプータローがいなくなるとは思っていないのか?

 進一が悩みだして、文恵は少し困ったような顔をした。気まずそうに視線を伏せると、ひかえめな声で文恵は告げる。


「わたしなら、大丈夫ですよ。プーちゃんがどこに行くのかわからなくても、プーちゃんと一緒にいられる時間が少なくなっても……もう、だいじょうぶです」


 本心だろうか? 進一は浮ついた返事をしただけで、何も気づかないまま歩きだした。三歩だけ悩みに没頭し、隣に文恵がいないことに気づいて振り返る。文恵は立ち止まったままだった。文恵は恥ずかしそうに苦笑して、それでもどこか余裕の感じられる態度で、まっすぐに進一を見つめていた。

 いつもと違う雰囲気に、心がざわつく。

 声をかけられないでいる進一に、文恵はいたずらっぽく笑ってみせる。


「プーちゃんを追いかけてくれたのは、わたしのためなんですよね?」


 文恵は落ち着いた声でそういった。

 進一は何も答えられず、見透かしたような眼差しから逃れることもできなかった。

 誰かのためだと口にしたことはない。わざわざ口にすることでもない。気づかれていてもおかしくはないが、まさか確認をとられるとは思っていなかった。不意打ちで本人から問われても言葉につまる。


「やっぱり、そうですよね……早紀だけじゃなくて佐山さんにも……やだなぁ……わたしって、そんなに変でした? いえ、変なのはもとからですよね。ほんとすいません。プーちゃんと一緒になって、ものすごく迷惑をかけているのはわかっていたんですけど、すっかり甘えてしまって……」


 どうして突然こんなことを? 彼女は何を伝えようとしている?

 なにもわからないなかで、いつもと違う猫好きの後輩がいま、猫をみていないことはわかる。

 幾多の波紋が心を揺らした。彼女はプータローがすべてだ。彼女が恋愛感情を抱くわけない。告白という答えはすぐに否定できた。だが、わざわざ否定をしなければならないほど、文恵の存在に胸が高鳴る。文恵をみていて可愛いと感じる。


「佐山さんにプーちゃんを追いかけてもらえて、けっこう、うれしかったりもしたんですよ」


 そうじゃない。

 ざわつく心を、進一は否定する。


「でも、もう十分です。これ以上、佐山さんに負担はかけたくなくて……部屋で待たせてもらうのは変わりませんから、だから今度は、わたしに手伝せてください。佐山さんはもっと、自分のために頑張ってください」


 彼女はたんなる猫好きの後輩にすぎない。彼女のためだけに、プータローを追っていたわけじゃない。途中からは意地もあった。理香に対する後ろめたさも、無関係ではないはずだ。柴田や八代さんのことも、なにもかも、全部ひっくるめて自分のためだった。



「わたしのためなんかじゃなくて、もっと、大切なひとのために頑張ってください」





 わたしはもう、十分ですから。

 文恵は落ち着いた声でそういい、それ以上は語らなかった。進一の心はしんと静まりかえり、言葉もなく、遠くもない距離で止まったまま、ふたりは見つめ合う。

 ひとりは微笑んで。

 ひとりは呆然と、気の抜けた顔をして。


 理香のことを知っている? 思考がぐらりと巡りだして、進一の意識は文恵から外れた。ふわふわとして落ち着かない。何を言われたのか、結局はなんの話だったのか。よくはわからないが、いろいろと知られているらしい。何を言われたかを振りかえり、可愛かった文恵を思い出す。ふたたび心がざわついて、そんな動揺までも知られていないかと、恐る恐る文恵をみる。


 文恵がゆっくりと進一に近づいた。


 進一は動けなかった。距離が縮まるにつれて緊張が高まり、息がつまって身体が硬くなる。

 文恵はまっすぐ前だけをみて、そのまま進一の横を通り過ぎた。

 進一は息を吐いて、無性に恥ずかしくなり振り返る。文恵のあとを追い、文恵の少し、後ろを歩いた。



 文恵に声をかけられないまま、横に並ぶこともできないまま後ろを歩いて、これが最後だということはわかってきた。プータローの追跡は今日で終わった。惨敗したままで終わる。数々の労苦が思い出され肩を落とした。それは同時に、重荷からの解放でもあった。


 好きなんだろうな。


 落ち着いた気分で、他人事のように進一は思う。自分の気持ちを認めることができた。終わらせることができる、捨てることができるから、西園寺文恵に惹かれている自分を受け入れられる。文恵に抱いた淡い感情は、理香への想いには敵わない。不自然な生活を終わらせることに迷いなどなかった。


 形は違えど目的は果たせた。これで終わりだと理解するほどに心が軽くなる。進一は笑った。これでいい。これでよかった。満ちてゆく喜びを感じながら、可愛かった文恵をふりかえる。


 どうやら好意はもってくれているらしい。猫の次か、その次くらいには。


 それもまた、嬉しくないといえば嘘になる。


「理香のこと、知ってた?」

 進一は後ろを歩いたまま文恵に尋ねた。隠そうと思っていたわけではないが、結局は話していない。他人の色恋沙汰に関しては、柴田が積極的に話したとも思えない。


 文恵の歩調が一段と遅くなって、進一は文恵のとなりに並んだ。

「……名前とか、詳しいことは知りません。なんとなく、そういうひとがいるんだろうなぁって。佐山さん、テレビにのってる時計を見るとき、寂しそうだったり、うれしそうだったりしてましたから」

 文恵は恥ずかしそうに秘密を語った。


 言われて気づく無意識の行動。心当たりがなくはない。いつからだろう。一体いつから、そんな無防備なところを見られていたのだろう。

「……理香には、たまにしか会えないから」

 進一は照れ臭くなって口を閉ざし、文恵もそれ以上は聞かなかった。



 改札口まで、あと少し。


 ふっと記憶がよみがえり、小柄な制服姿の少女が進一の脳裏をかすめた。童顔の幼児体型を悩み、中学生に間違えられてしょんぼりしていた女子高生。泣きながら図書室を出ていく初恋の相手。村上志穂。

 思い出すのも久しい記憶。

 心が揺れることもなく、さすがに未練はないらしいと進一の頬はゆるんだ。

 彼女を見送るのも、これが最後だな。

 文恵がチラリと様子をうかがっていることに気づき、苦笑して頭をかいた。またしても無防備なところを見られてしまった。胸の内でつぶやいて、改札口を正面に見据えた。



「じゃあ、気をつけて……それと、これからはプータローが来ても、メールはいいよ」


 これでもう、はやく帰ることはない。一緒に食事をすることもない。

 進一はすでに普段と変わらない態度を取り戻していたが、文恵には硬さが残っていた。返答はなく、うなずくことさえなく文恵は言った。


「……お掃除、してもいいですか?」

「はぁ?」

 脈絡もなく切り出されて、進一の思考は追いつかない。

「キャットフードの整理もしたいので」

「いや、キャットフードはともかく、掃除はいいよ、自分でやるから」


 ブラッシング効果でプータローの抜け毛は見あたらない。ホコリもかぶってなかったような気がするが、そういえばこのところ掃除をしていない……いつからだ? ホコリの塊がゴロゴロしていてもおかしくはないような……。


 進一は自分の鈍感さに呆れ果て深々とうなだれた。

「すみません」

 申し訳なさそうに文恵が謝る。


「勝手に掃除するのはどうかと思ったんですけど、ちょっとだけ、ホコリを拭き取るだけならいいかなぁと。それがきっかけで、いろいろ気になりだしてしまって……キッチン周りも磨きたいんですけど、ダメですか?」


 どうしたものかと進一は唸る。善意と欲求が感じられるうえに、お願いをされるとものすごく断わりづらい。だが、今さらとはいえ、理香に説明しづらい点は減らしておきたい。


「……ダメじゃないんだけど、そこまで気をつかわれると困るっていうか、もう十分というか。だから、そう、今までありがとうになるのかな。食事をつくってくれるのも助かるけど、もうそれも」


「ダメです」


 文恵は声を張って進一を黙らせた。

 突然の強い断定口調に進一は驚いたが、言った本人も驚いてオロオロとうろたえる。


「わたしに手伝えることなんてそれくらいしかありませんし、今度はわたしが佐山さんを手伝おうって決めていて、なんていうかその、猫の、恩返し?」

「……はぁ」

「そう、ですから、今後も部屋を使わせてもらうからには食事の用意ぐらいはさせてもらわないと、礼儀というか、お料理は好きですし、佐山さんに食べてもらったほうが、その……二人分なら手間も一緒です……ダメですか?」


「……ダメじゃ、ないんだけど……」


 なんで全力でお願いをされているのだろう。理香のことを応援してくれる彼女の好意は、一体どの程度のものなのか。猫への愛が異常すぎて、猫の次はどうなのか、よくわからない。……ダメだな。もうやめよう。余計なことは、考えなくていい。


「お掃除も?」



「……やりたいのであれば、好きにしていい」



 文恵は見るからに安堵して、ようやく柔らかな笑顔をみせた。


 彼女の願いを断わらなかったのは、理香に対する裏切りだろうか? 断わっていても悩んでいたとは思うが、ほんとうにこれでよかっただろうか。


 心が重くなるのを自覚しながら、進一もまた笑ってみせる。



「それでは、今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします」


「うん。まぁ、自由にしてくれたらいいよ。あとは、そうだな。日が暮れるのもどんどん早くなるから、帰り道だけは気をつけて」


「あっ、そのことなんですけど、じつはミニバイクを買おうかと思っているんです。それなら学校と佐山さんの部屋にも通いやすくなって、プーちゃんの追跡にもなにかと」


 ん?


「……ええっと……プーちゃんがバスに乗ったときとか、役に立つかなぁと」


「えっ、ということはなに? ……追跡は、あきらめてない?」


「ああ、でも心配はしないでくださいね。バイク移動ですから、塀のうえとか雑木林のなかには行けませんし、うまくいけばいいなぁと思っているだけで、以前のような無茶をするつもりはありませんから。これはもう、生きがいっていうか、食後のプリンみたいな感じですので」


「プリンを例に出されても……夜道の一人追跡は止めたほうが……どうする? 痴漢とか出たら」


「もちろん全力で逃げますけど、じつはあんまり心配してないんです。なんだかプーちゃんが守ってくれるような気がしていて……ほんとに化け猫だったとしても、やっぱりプーちゃんは、わたしの守護天使ですから」


 ……ああ、きっとそうなんだろう。

 進一は文恵の幸せそうな笑顔をみて思った。

 文恵を襲おうとする輩がいれば、まず間違いなく、プータローが地獄をみせるだろうと。


「たしかに、プータローの標的になるより危険なことはないか……ほんとに無茶はしない?」


 文恵は苦笑して、うれしそうな顔でうなずいた。

 それを最後に、進一は文恵を見送った。





 アパートへ続く坂道を一人で歩きながら、進一は文恵のことを考える。


 お願いをされると断わりづらいのはわかった。あの猫好きの後輩が可愛いのもよくわかった。彼女はもう単なる猫好きの後輩じゃない。それなのに断われなかった。理香との関係を大切にするなら断わるべきだった。もっとはっきり、部屋に来ることも拒否するべきだったかもしれない。プータローを溺愛する彼女の幸せも、彼女の好意も、すべてを切り捨てて……。


 これ以上、彼女に近づくことはない。そして、プータローはいつかいなくなる。その日まで自由にしてもらえばいい。だから、彼女を犠牲にする必要はない。

 すべては捨てられなかった言い訳なのだろうか。またひとつ、心が重くなる。


 彼女は一人で追跡をつづける。彼女がプータローに遊ばれることはないだろう。プータローにまかせておけば大丈夫だろうか。いや、心配したって仕方ない。彼女の近くにはいないほうがいいのだから、これ以上、考えるのはやめにしよう。二人での追跡は失敗に終わった。これはこれでいいはずだ。一緒に追いかけたところで無駄だろう。協力するどころか、足手まといにしかならない。


 ……足手まとい?


 もしかして今夜、あの猫好きは……足手まといを切り捨てにかかったのか?



 どうにも否定しづらくなり、進一は苦笑するしかなかった。

 彼女はプータローのためだけに部屋にきて、部屋の住人に対する献身などただの暇つぶしで、あれほど熱心に手伝わせてほしいと訴えてきたのは、こちらの小さな親切を切り捨てにかかった心苦しさの現われなのでは?

 まったく相手にされていないと思うほど、余計な考えは消えていく。心は軽くなってゆく。

 来ないで欲しいといって、彼女は諦めただろうか? いや、住人を追い出してでも部屋には来るだろう。それでこそ、西園寺文恵だ。

 進一は頭をかきながら笑いをこらえた。

「これで終わり、だな」

 悪くない気分だ。打撲のあとが、疼いたりしなければ。

 一人つぶやいて坂道を上がる。

 いい夜だと、進一は思った。






 進一が文恵と一緒に過ごすことはなくなった。文恵が購入したミニバイクを学内で乗り回している早紀の姿は目撃したが、文恵が自分の部屋でどう過ごしているのか、進一は知らない。毎日遅くまで研究室に居つき、部屋に帰って文恵がいた痕跡を見つける。食事は毎日用意されていた。キャットフードは整理され、キッチン周りもきれいになった。

 ときには早紀がいた痕跡もみつけた。早紀が通販で購入したという、高温の蒸気を噴射するマシーンが部屋の隅に置かれていたり、前年度の誕生日会で早紀に贈られ、その場で叩き返したはずの女性用のセクシー下着が、進一のトランクスに混じってベランダに干されていたりした。

 そよ風に揺れる、薄っすら透ける桜色の小さな三角形を見つけた進一は、思考停止、一時的なパニックによる文恵像の崩壊、記憶のフラッシュバックを経て、すぐさま早紀に連絡をとった。早紀は言った。プータロー目当てに来ているがまったく会えず、せっかくだからこっそり干してみたと。

「いますぐ取りに来い」「いえいえ、どうぞ遠慮せんと、とりあえず一晩楽しんでくさい。明日にでも文恵に回収してもらいますから」「どうやって話をややこしくさせる気だ。させるかそんなこと」

 結局、進一は八代経由で下着を返すことにした。早紀のイタズラに八代は半日以上笑っていた。その後一週間は進一の顔をみるたび笑っていた。




 たまに騒がしいこともある、文恵がいない生活。

 ごちそうさまメールを文恵に送り、部屋でひとり、時計をながめる。

 理香に会いたい。

 恋人からのメールを待ち望み、恋人のことだけを考えて過ごす。これでいい。これでいいんだと進一は思う。理香を待つことが許される。それだけで十分だ。プータローが来る前とは違う。これならきっと、理香の邪魔をしないでいられる。

 だから、これでいい。

 理香を待つだけの進一は、時計に向けて小さく笑った。

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