26 ツチノコの祝福
研究室には一人しかいなかった。細身のやつれた院生が、簡易ベッドで仮眠をとっている。進一は部屋の一角にある流し台で電気ポットの水を入れ換えた。音をたてずに移動したつもりだが、院生は目を覚ましてふらふらと進一の横に立つ。簡単な挨拶を交わしたあとに質問があった。
「その傷、どうしたの?」
進一は擦り傷のついた左手をみる。
「……ちょっと、獣道を歩きまして」
寝起きの院生は何か悩んでいる様子だったが、結局は「そうか」とだけつぶやき、歯ブラシを口にくわえた。
進一は電気ポットをプラグにつなぐ。荷物を片付けて、自分のマグカップにインスタントコーヒーの粉末と黒糖をいれた。首や肩など上半身を回す。肉体的な疲労はそれほどでもないが、日常生活で使わない筋肉がつらかった。
起動させたノートパソコンの前に座り、コクのある甘いコーヒーをすする。
緒論を読み返したころ、八代があらわれた。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶は簡単なものだった。
八代は何も語らない。普段と変わらぬ行動をとっていた。だが、いつも以上に元気に見える。
偏見だろうか、と進一は考えた。昨夜のことを確かめるのは簡単だが、野暮なことは聞くもんじゃない。もしもはっきりと答えられたら、こっちが困る気もする。
「おはよ」
歯磨きと洗顔をおえて、簡易ベッドを片付けていた院生が八代に言った。
「おう、おはよう。どうした元気ないなぁ、徹夜か?」
八代はつやつやした顔で同期を励ました。
励まされた方は適当に相づちをうち、トイレに行くといって外に向かう。何か悩んでいるらしい。
「タフだよなぁ」とつぶやいた彼は、さきほどよりも疲れた顔をしていた。
ランチタイムを迎えて、進一と八代は学生食堂にいた。八代の隣には早紀もいる。早紀が作った特製サンドウィッチがパーティー用の大皿に盛られていた。進一の分け前もあるというが、それにしても大量だった。大自然研究会の部室にて、講義をサボって作り上げたらしい。途中からは文恵にも応援を頼み、サンドウィッチをエサに物好きな部員も利用して、ここまで運んできたという。
進一はもちろん、八代も知らなかった、早紀によるサプライズ。
なぜにパーティーが始まるのか、周囲からは注目の的だった。視線はやはり気になるが、隠れるほどのことでもない。この程度で逃げ出していたら、進一の大学生活は早々に終わっていたはずだ。
しかし、それにしてもと進一は思う。
調子が戻ったのはいいとして、それにしても気合いが入っている。悪ふざけにこそ全力を尽くすヤツだと思っていたが、まぁ、尽くすタイプでもあったか。
早紀が魔法瓶から熱々のコーヒーをそそぐ。
何も言わないほうがいい、何も聞かないほうがいいと決めて、進一は湯気のたつ紙コップを受けとった。
「今日の文恵、昨日よりは元気でしたねぇ」
早紀はケラケラと笑った。
文恵の姿はすでにない。いくつかのサンドウィッチを持って、進一の部屋に向かっていた。ランチは進一の部屋で、プータローを待ちながら食べるらしい。
「昨日はプータローが来たからな」
進一はレタスとチーズのサンドウィッチを食べる。文句なしにうまい。想像していたものの上をいく。自分が作るのと何が違うのだろう。愛情か、値段か。
「やっぱり文恵の猫パワーやろか? そうか、プータローの妖力でツチノコの呪いが弱まったんかも」
八代が豪快に笑う。
「俺はやはり、西園寺くんの底力だと思うぞ。化け猫といわれても、いまいち信じられんからなぁ」
ふたりは仲睦まじく呪いありきの会話をつづけた。
進一はコーヒーをすすって聞き流し、次のサンドウィッチに手をのばす。
「あっ、さすが佐山さんは違いますわぁ。うちの新作を的確に選ぶやなんて」
あぁ、間違いなく絶好調だ。
「取りやすい位置にあったのは気のせいか?」
進一は少しだけ中身をのぞく。
「塩辛?」
「そうです。イカの塩辛にチャレンジしてみました」
「味見は?」
「してませんけど、なにか?」
早紀はケラケラと笑う。
八代も手を叩いて楽しそうだ。
まったくおもしろくはなかったが、手にしたものを戻すのは抵抗があった。塩辛を食べるのだと思えば大丈夫だろう。そう願って口にいれ、進一は顔を歪める。
「隠し味のつもりか?」
塩辛にはタバスコがかけられていた。
進一の問いに返答はなく、早紀はうれしそうな顔で進一をながめていた。
サプライズの全力ランチパーティー。
二段構えの悪ふざけ。
この顔。
早紀の常習被害者である進一は、咳き込みながら違和感の正体を察した。
タバスコなんてものは、照れ隠しに使うものじゃないだろうが。
進一は早紀に無言の圧力をくわえ、幼少より育まれたモッタイナイ精神をもって塩辛タバスコサンドをひとつ食べ終える。拍手がおこり、八代と早紀も同じものを口にした。
三人そろって咳き込んで、クリームたっぷりのフルーツサンドに手を伸ばす。
早紀は少し涙目だった。八代のなごやかな苦情にけらけらと笑っている。笑いながら、横目でチラリと進一の様子を探っていた。
このサプライズランチは、八代のためではない。
進一にメッセージが伝わったことを、早紀はおそらく気づいている。気づいているだろうと進一は思う。
「ほかにはないだろうな」
進一は強い口調で言いいながら、感謝の意が込められたサンドウィッチに手をのばした。




