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25 不自然な生活

 プータローが来ているかもしれない。そんな考えが焦りをもたらして、どうにも落ち着かなかった。まだまだ帰るには早かったが、進一は八代たちと挨拶をかわして研究室を離れる。

 そんなに都合よく来るわけない、とは思いながらも帰路を急いだ。

 来ているかどうか、文恵に連絡をとればよかったと気づいたのは、アパートに着いたあとだった。


 

 予想に反して、プータローは期待を裏切らなかった。


 進一がドアを開けると、奥から明るい声がとんでくる。文恵が六畳間で座っていた。

「あれっ、いつもより早くないですか?」

 そういって、文恵はキャラメル色の猫を抱きかかえた。進一が質問に答えるまえに、質問したことを忘れている。気だるそうな眼をした猫に頬をすり寄せて、文恵は無邪気に笑っていた。


 いまから柴田を呼ぼうか。

 この姿をみせたら、あいつの悩みは消し飛ぶ気がする……いや、やめておいたほうがいいな。

 おそらく、あの人たちは放っておいたほうがいい。少なくとも、今夜は。


 笑うしかないな、と、進一は頭をかいた。

 お互いの気持ちを確認しあい、八代と早紀は感動で胸を振るわせるのだろう。本人たちが真剣なだけに、喜劇としての質があがる。

 進一は部屋の奥へ三歩すすみ、「久しぶりだな」と声をかけた。

 プータローは無視したが、文恵は進一を見上げる。目が合って、文恵はすぐに視線を外した。抱えていたプータローを膝のうえにのせる。文恵にやさしく撫でられて、プータローはグルグルと喉を鳴らした。

 久しぶりにみる光景をまえに、なにを焦っていたのかわからなくなるほど気持ちが和らいでいる。

 ずっと一人で暮らしていたのに、これがあるべき姿のように感じていた。




 土鍋で雑穀ごはんを炊く準備がされていたが、文恵は忙しそうなので、待っていてもしかたない。しかたがないので、土鍋ごはんは忘れて夕食をいただくことにした。

 文恵はテーブルに五種類のキャットフードをおいて、プータローに選ばせる。

「あとはルウを入れるだけですから」

 と文恵が言ったように、コンロには豚肉と野菜が煮込まれた鍋があった。進一は三種類のルウを一緒にいれてカレーを仕上げる。冷凍ごはんをレンジで温めた。二人分には足りず、食パンも用意する。

 文恵は二種類のキャットフードを猫皿にうつした。


 二人と一匹で食事をはじめる。

 進一はポークカレーを食べて、素直に「うまい」と口にした。

 ほんとに料理がうまくなったと、進一は思う。最初に出てきたカレーは、サイズの大きなニンジンが硬かったと記憶している。上達するだけの時間を一緒に過ごしてきた。慣れてしまったが、おいしい食事が待っているなど贅沢な話だ。

 進一は、プータローに夢中でいる、文恵を見やる。


 プータローがいなければ、彼女がここにいることはなかった。


 すべてはプータローのおかげ、ということになるのだろうか。

 視線をうつせば、プータローが前脚をテーブルの上においている。見慣れてしまった。食卓に猫皿がならんでいることに違和感がなくなっている。

 なにかと不愉快な猫ではあるが、プータローがいなければ、この生活はありえない。プータローがいなければ、このポークカレーを味わうことはなかった。理香に会えないでいた日々、落ち込むだけの生活が続いていたなら、どうなっていただろう。デートのキャンセルを受け入れずに、理香の邪魔をしていただろうか。それともこっそり劇場に忍び込んで、理香の演じる世界に引き込まれて、もう一度、どうにもならない空しさを味わっていたかもしれない。


「プーちゃんって、ほんとに行儀がいいですよね」

 文恵が微笑む。

「そうかもしれない」

 進一も笑う。

 文恵がプータローから視線を外した。探るような目を進一にむける。

「どうかした?」

「いえ、なんでもないです」

 文恵の笑みは硬かった。なんでもなさそうではなかったが、進一は何も聞けなかった。口を開くまえに蜂蜜色の瞳がギラリと光り、意識をそらされる。気だるそうな眼差しでプータローが睨んでいた。敬意がない、のは最初からだが、なにを要求されているのかわからない。「もう食べないの?」と文恵に声をかけられると、プータローは残っていたカツオ味を食べはじめた。


 すっきりとしないまま、進一は柔らかな豚肉を口のなかへ入れる。

 うまい。と感じると同時に、ふっと時計が目について理香を想い、頬がゆるんだ。

 これからもずっと、理香を失うことはない。理香に会えたことで不安は姿を消していた。心がざわつくこともない。文恵は猫好きの後輩に過ぎないのだから。


 慣れるもんだなぁ、こんなややこしい生活でも。


 胸の中でつぶやいて、時計と文恵を視界に収めながら食パンにかぶりつく。

 進一は豚肉の旨みがとろける口で食パンを噛みしめながら、このややこしい生活をどうやって理香に話そうか考えはじめた。


 そして、進一の動きは異様に遅れる。


 大学の後輩が部屋で食事を用意して待っている。二人で一緒に食事をしている。

 ほとんど毎日。毎晩。異性と。二人だけで。


 なんなんだこれはと思いつづけていた生活スタイルを、理香に話す……いや、どう説明できる?


 この状況、他の女と生活している、といえなくもないのか? 理香はどう思うだろう。変なことはしていないと言ったら信じてくれるだろうか。たとえ信じてくれたとしても、いい気分になるわけないよな。劇団仲間の食事会とは違う。不自然だ。まず間違いなく、受け入れられるものじゃない。

 どうすれば理香の負担は小さくなる?

 とにかく恋愛感情や浮気などではないことはわかってもらわないといけない。

 まずは彼女が猫のために来ているという事実を説明して……いや、そういえば以前、猫は好きじゃないとか言ったような気がする。そう、電話をしたときに猫が好きかを聞かれて、とっさに彼女のことを聞かれた気がして……もしかして、これはよくないのか? 恋人には知られたくない気になる存在がいる、ということになるのか?

 あのときの会話、理香は忘れていないだろうな、たぶん。いまさら猫の話をしたら、理香は変に思うかもしれない。なんで猫のことを話さなかったのかと聞かれたら、なんて答えればいいんだ? 正直に伝えたら……西園寺文恵という相手がただの後輩ではないと思われてしまう。ちょっと意識していただけあって、完全に否定できない気もする。何を言っても説得力がない。すべてが言い訳にきこえる。

 しかし、なんだろう。どんどん後ろめたい気持ちになってくる。これってやっぱり、理香に悪いことをしているからなのか? いや、考えてみれば当たり前だな。優さんは別として、理香が男と二人だけで食事なんて想像することさえできない。

 理香は裏切られたと思うだろうか?

 浮気されたと傷つくだろうか?

 それはだけはダメだ。理香を傷つけることだけはあっちゃいけない。せめて浮気だと誤解されないためにはどうすればいい? 想いを伝える? すべてを話す? なぜ彼女を意識してしまったのかを? 理香に会えない寂しさを? 理香を失いそうな予感がして、不安にかられて理香を求めてしまったことを?

 いや、ダメだ。そんな弱さを知られたら、理香の邪魔になる。

 タローが最後を迎えたとき、理香は稽古を抜け出してきた。触れ合える距離にいてくれた。

 傷つけずにすんだとしても、邪魔することになってはいけない。

 どうも猫の話はしないほうが無難らしい。だが、できるのか? いや、そもそも説明をする必要はあるのか? こんな生活を理香に知られないようにするべきでは? しかし、なんでこんなことに……なぜこんな生活を過ごしているんだ? いや、いまは他に選択肢がなかったのか考えている場合じゃない。愚かだったのかどうかも悩む必要はなくて、問題なのは、一体いつまで愚かでありつづけるのかだ。まずはこの不自然な生活をなんとかするほうが先決……。


 この生活を変える方法。

 彼女が部屋にこなくなる方法?


 もしかして、プータローが来なくなるほうがよくないか?



「おいしく、ない、ですか?」

 遠慮がちな声に気づいて、進一は文恵をみる。動きは戻ったが、何を言われたかわからない。

 文恵はうつむいた。

「ほんとは、土鍋でごはんを炊いて、サラダも作るつもりだったんですけど」

 文恵が顔をみせる。

「ごめんなさい」

 進一の目をまっすぐに見ることはなく、文恵は困ったように笑っていた。

 進一は、口の中のものをゴクリと胃におくる。

「いや、謝られるとこっちが困るよ。これだけやってもらって、文句を言ったら罰が当たる」

 文恵は猫皿を舐めるプータローの頭を指先でくすぐる。

「明日は、忘れないようにしますから」

 プータローが動き出して、文恵の膝のうえにのった。文恵は片腕でプータローを抱えこむ。ほっと息をついて、進一をみた。文恵は安心したような、満ち足りたような顔をしていた。



 プータローが来なくなれば、彼女がここに来る理由はない。



 進一は思う。

 プータローが来なくなれば、理香には話せないような生活は終わる。不義理な生活だったと過去形で反省できる。

 進一は食パンを少し口にして、ポークカレーをていねいに味わう。 

 プータローをみた。

 気だるそうな眼をした猫は、文恵の膝でも進一を睨んでいた。

 愛らしさの欠片もない猫と視線を絡ませながら、進一は胸中でささやく。


 お前はひょっとして、彼女を困らせるなと言いたいのか? だとしたら、そんなに睨むなよ。



 プータローにつづいて、進一と文恵も食事を終える。ふたりが食べ終えたのはほとんど同じだった。進一は食パンだけで二杯目のカレーを食べていた。文恵はバランス的にカレーが多すぎると気にしていたが、「うまいから大丈夫」と進一は答えた。思ったことを言っただけで嘘はついていない。少しばかり汗をかくのはしかたないことだ。


 食後に訪れるスイーツタイム。

 進一はカップの蓋をペリペリとはがして、ちらりと時計に目を向ける。


 心がざわつく。

 戸惑いではなく、罪悪感が心をざわつかせる。

 こんな生活を続けるつもりはない。はやく終わらせないといけない。



 しかし、だからといって、彼女につらい思いをさせるわけにはいかない。



 進一は見慣れた光景をながめながらハニープリンを食べる。

 文恵とプータローは一個のプリンを仲良くわけていた。文恵がスプーンですくったプリンは三回に二回がプータローのものになる。プータローは蜂蜜色の瞳を輝かせながらスプーンを凝視して、文恵が食べさせてくれるのを大人しく待っている。


 つまり、自分がこの部屋にいなければいいわけだ。


 進一はプリンを食べながら一人うなずく。

 彼女にはプータローが必要だ。

 この猫のいるところが彼女の居場所になる。

 この部屋にプータローが来るかぎり、彼女の居場所はこの部屋だ。彼女を部屋から追い出すこともなく、理香に弁解できる程度の生活をおくるには、自分が部屋にいなければいい。


 ベストではないが、ベターではある。

 研究室にこもって帰らなければいいだけだ。彼女は一人で食事をするだろう。八代さんの手伝いもできて、院生試験も万全になるはずだ。


 しかし、そうなると別の問題もでてくる。

 彼女の安全対策をどうするかだ。このあたりの治安が悪いとは思わないが、駅まで見送ることはできなくなる。プータローがこないときは、早く帰ってもらえばいいだろうか。けれどこれからの季節、明るいうちに帰るのは難しくなる。


 夜道を一人で歩かせるのは気がかりだが、もっと気がかりなのはプータローが来たときだ。

 避けるどころか、好んで危険に陥ってしまう。危険度のステージが違ってくる。


 プータローが来たときだけは、連絡をもらって帰るしかないか。



 ベストからはほど遠いが、ほかにアイデアが浮かばない。

 進一は頭をかきながら考えをまとめる。

 プータローが出て行く前に、文恵に話したほうがいい。

 これからは研究室に居ついて学業に専念するので帰りが遅くなる。待つ必要はないので、プータローがこないと見切りがつけばすぐに帰ること。もしもプータローが来たなら、メールで連絡が欲しい。

 そして、そのときだけ早く帰るのは、心配だから、というだけじゃない。

 

 追いかける。

 決意をもって、進一はプータローをみる。


 彼女を困らせるなと言いたいなら、お前はわかっているのか? 


 今日だけで追いつめられるとは思っていない。けどな、彼女を不安にさせているのはお前なんだ。どこへ行くのか、きっちり居所をつきとめてやる。


 プータローがチラリと進一を見た。

 進一は、底意地の悪いニヤリとした笑みを、プータローに見たような気がした。

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