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23 続 喫茶「糸杉」にて

 樹里はうっとり微笑んで、美しいティーカップを丁寧にならべた。


「でも進一くんの懐に飛び込めるとしたらどんな子かしら。ちょっと想像力が必要になるわよね。いくら弱っているとはいえ美咲ちゃんに免疫のある進一くんが女を強調するような相手に落とされたとは考えにくいもの。でもかなり積極的で強引じゃないと近づけないわよね不意をついたらなんとかなるのかしら。いいえ待って。大人しくて控えめな子にふらふらっと吸い寄せられた可能性も捨てがたいわ。なんだか放っておけない子に引き寄せられたなんてどうかしら進一くんならありそうよ」


「いや、もういいから、その話やめよ。覚悟はしたから、楽しそうに話するの、もうやめよ」

 理香が情けない顔で弱々しく声をあげた。

 樹里は残念そうに首をふり、となりのティーカップを手にする。


「しょうがないわね少しは別の理由も考えようかしら。進一くんの隠しごと……猫と一緒に暮らしている女の子の部屋へ通っている可能性を除いて……学業のほうに重大な問題があるとは思えないから、じつは深刻な病魔に冒されているなんてどうかしら」


「猫まったく関係なくない? それに進一、ぜんぜん発熱とかしないから。健康で丈夫だから。インフルエンザが流行ったとき、看病とかしてみたいって言ったら笑われたんだよ? 佐山家の人間は幼少時代から鍛えられているとかなんとか言われて、よっぽど無茶しないと難しいなって」


「そうなのよねバカは風邪をひかないってほんとなのよね。ほら理香もそうじゃない進一くんと付き合いだしてから体調不良に陥ったことないでしょう」



 考え込んだ理香を無視して、樹里はゆっくりと丁寧にカップを磨く。


「進一くんは猫の話にのらなかった。シャツに猫の毛がついていたなら生活空間に猫がいるとみるべきよね。でも背後に女がいないとしたら何を隠す必要があるのかしら。それに恋人同士がそろって猫に因縁をつけられてるなんて」

「奇跡だよね。うん、それいいかも」

「そんな偶然があってもかまわないけれど進一くんが猫を隠す理由がわからないわ。話したくないような不快なことでもあったのかしら。動物好きの人間が嫌になるくらい性格の歪んだ猫にからまれている……笑い話にもならないぐらい部屋を荒らされたとか」

「やっぱり性悪な猫っているのかなぁ。私、プーちゃんでよかったぁ」

「でもダメね想像がつかないわ。それこそ化け猫に襲われでもしないと嫌いにならないんじゃないかしら進一くんの場合」

「それはもう、好きじゃないっていうレベルじゃないと思うけど」

「そうなるとやっぱり背後に女がいると考えるしかないのかしら」


 樹里は手を休めて黙り込んだ。

「……奇跡はなしの方向で」

 理香は身を縮めてミルクティーに口をつける。

 樹里はゆらりゆらりと首をふったが、ふっと楽しげに微笑みをうかべる。


「それなら生活空間に猫はいないとしましょう。シャツに猫の毛がついていたのは偶然だった。そもそも猫の毛ではなかったかもしれない。でもそんなことはもう関係ないのよ理香は進一くんが嘘をついて何かを隠したと気づいてしまった。寂しさを隠しているのは間違いないとしても、それは猫の話から逃げた理由にはならない。これはもう背後に女がいるとしか思いたくないわ」


 この人は、やっぱり厳しい。


 理香は捨て去ろうとしていた覚悟を引き寄せた。

 樹里はくすりと笑い、ふたたびカップを磨きはじめて言葉をつなげる。


「でもそれが現在のこととは限らない昔の女という可能性だってあるわ。かつて付き合っていた女の子との間に猫の思い出があったとしたら理香と猫の話をするのは複雑でしょうね」


 理香は目線だけをあげて樹里をみた。

 怯えた目でみてくる理香にクスクスと微笑み、樹里はつづける。

「なんていう名前だったかしら」

 進一くんが高校時代に付き合っていた彼女の名前は。


「村上志穂、だったと思う」


 理香はミルクティーを味わうことなく飲み込んだ。

 ずっと思い出すことのなかった名前を口にして、顔も知らない天敵が心を圧迫してゆく。


「わたしたちは孝雄くんが語ったことしか知らないものね」

 樹里はそういったが、理香は自分の世界に全力で、聞いてはいなかった。


 樹里さんの言うとおりなら、いま進一のそばに女はいないことになる。これはきっと喜ばしいこと、悲しむことじゃないはず。そう、相手はしょせん過去の残像なんだから、恐れることなんてなにもない。そうよ志穂さん、浮気の覚悟までした私に勝てると思わないでね。しょせんあなたは昔の女。ちょっとだけ、私の知らない進一を知ってることが気に入らないだけ。進一の恋人である私に、すでに終わった元恋人が勝てるわけない。


 心理的防御を整えた理香は、その手を細かく震わせながらも、無事にカップを置いた。


 樹里に覚悟を迫られていたおかげで、理香は情報のプラス面を見つけ出すことに成功した。妄想に沈み込むことなく、硬いながらも笑みをうかべてミルクティーを口に運ぶ。

 樹里はクスクスとうれしそうに笑っていた。

 

「その志穂ちゃんと浮気をしていたら一番おもしろいのにね」


 理香が一瞬で笑みを凍りつかせると、樹里は美しい顔に微笑みをうかべて、あくまでも優雅にカップを磨きながら、やさしい眼差しで理香を見守る。


 まさか、復縁をもとめて進一の前に現れた? たしかに彼女なら進一に近づける。浮気? やっぱり浮気なの? 本気の浮気? もしも志穂さんに誘われたら、進一だって心残りはあるだろうし思い出話ぐらいはするかも。それで、勢いで男と女の関係に戻っちゃったとか……二股? 私たち別れてないからそういうことに? でも、違う。そんなわけない。進一にそんなこと無理。そんな後ろめたいことをして、昨日みたいなデートなんてできるわけない。



 理香はゆっくりとカップを置いた。

 震わせることなく静かにおいて、怯えることなく樹里を見上げる。


「ずいぶんと冷静ね。二年以上も付き合っていれば誰にでも勝てる自信がつくのかしら」

 樹里はカップを持ったまま、パチパチと手を打つ真似をして理香を称えた。


「どうかな」

 理香は恥ずかしそうに苦笑して、首をよこに振った。

「やっぱりね、進一に二股をかけるとか、できるわけないと思う。火遊びみたいなこともできるとは思えない。進一の心のなかに別の誰かがいることは認めなきゃいけないんだろうけど、きっと心配することないなって。これだけ脅されたあとだと、それがどうしたっていうぐらい、なんでもないような気がしてきた」


 霧が晴れてゆく。

 理香の心から嘘のように悩みが消え去ってゆく。 


「バカだよね、ほんと、私はなにを怖がっていたのかな。進一はずっと、私のこと想ってくれているのに」


「ええ、ほんとにバカよ。そこまで言い切られるなんて思わなかったもの」


 樹里はつづけて、進一が女に遊ばれていた可能性をほのめかした。弱った心につけこまれて関係をもったのではないか。二股をかけるのは無理だとしても、一度きりの過ちなら可能性はあるうると。

 理香は渋い顔をしたものの、さすがに鵜呑みにはしなくなっていた。

「たとえそんなことがあったとしても、進一をそこまで追い込んだのは私の責任だから」

 妄想に堕ちることなく樹里に言い返して、自分にいって聞かせる。


「男の浮気を許そうだなんて、いい女を演じたつもりかしら」

 樹里は磨き布をもった手で口もとを隠しながら、クスクスと楽しそうに笑う。


「まあいいわ。これなら勢いだけで別れて後悔することはないでしょう。でも実際どうなのかしらね志穂ちゃんとの思い出が浮かんで避けたなら生活空間に猫はいない。ほかに猫の毛がつく場所なんて……そういえば電車猫なんて話もあったかしら」


「でんしゃ猫?」


「ええ、どうも電車に乗りこむ猫がいるらしくて、その猫にさわることができれば痴漢の被害にあわず、なにか気に入るものを捧げるとストーカーまで撃退してくれるそうよ。都市伝説というのかしら、女子高生たちの間で話題になってるらしいの」


「電車猫ねぇ……たしかに猫って賢いもんね、ドアなんか普通に開けちゃうし。エレベーターを利用する猫がいるらしいから、電車に乗ってくる猫だっているかもしれない。まあ、さすがにストーカー撃退までいくと、それはもう猫じゃなくて猫の姿をした神さまだよね。猫神さまの捧げ物ってなにがいいんだろ?」


 理香は猫の噂を笑ったあと、想像をめぐらせた。


 進一は電車猫に遭遇してシャツに毛がついたのかもしれない。シートについた毛が移った可能性だってある。もしかしたら以前に遭遇したことがあって、都市伝説を信じていた女子高生から痴漢だと疑われたとか、電車猫になにかされたとか。

 笑えない不快な出来事。

 進一はホントに猫が好きじゃなかったりして。

 

 理香はそこまで考えたあと、どうして樹里がそんな都市伝説を知っていたのかが気になった。理香の疑問を察したように「美咲ちゃんから聞いたのよ」と樹里はつげる。

「美咲ちゃんは女子高生から聞いたらしいわ」

「……いまでも女子高生を餌食にしてるのかなぁ……瞳殺しは遠慮なんかしないもんね」

 女子校の同級生たちが、どれだけ美咲の犠牲になっただろう。友達になれたかもしれない人を、何人ぐらいを失ったのだろう。

 理香はなにも考えないように、濃厚なミルクティーに意識を集中させた。


「そうそう伝えておきたかったことを言っておくわ。美咲ちゃん妊娠したそうよ」


 樹里は楽しそうにカップを磨きながら、しみじみとミルクティーを楽しむ理香をながめた。


「ああ、ごめんね、樹里さん。いま、なにか言った?」


「ええ美咲ちゃんが妊娠したの」


「んん? ごめん、よく聞き取れない」




「美咲ちゃんにね、赤ちゃんが、できたの」




 樹里はクスクスと笑って理香の反応を楽しんでいた。

「茫然自失といったところかしら。わたしは好きよ理香のそんな顔をみるの。そういえば美咲ちゃんに男ができたって知ったときもそんな顔してたわね」


 理香はたっぷりと時間をかけてミルクティーを飲み干して、微笑みをたやさない樹里を直視する。

 美咲が妊娠? 赤ちゃん? なんで?

 誰の子?

 父親は?


「孝雄くんだそうよ」


 声にならない問いかけが通じて、樹里は端的につげた。口をパクパクさせる理香の姿をじっくりと楽しんだあとで説明をつづける。


「美咲ちゃんが語ったところによると今年の春ごろインドまで出向いたらしいわ。アーユルヴェーダを楽しむことが目的だったけれど、せっかくインドまで学びにきたなら観光と研究資源の確保にまわろうと思いついて、ついでだから驚かせてやろうと孝雄くんにも会ってきたんだって。やっぱり孝雄くんの居場所はちゃんと押さえていたみたいね。寺院みたいなところでヨガの真似事をやっていたから修行の成果をためしてやったんだって」


 樹里はおもしろそうにクスクス笑い、指先を繊細に動かしてカップを磨きつづけた。


「で、その結果が妊娠?」


 しばらく放心状態だった理香が、ようやく言葉を口にした。

 樹里はゆっくりと首をたてに振り、理香は大きく息をつく。カウンターについた両腕で頭を支えた。

「美咲ちゃんも男には一途よね」

「一途、ねぇ……美咲が恋愛感情で動くとか、まったく似合わないんだけど」



 父親は間違いなく孝雄だという。子どもは産んで美咲が育てる。シングルマザーでも経済的には何の問題もない。美咲の両親も文句はないらしい。あっても意見が通るわけがないと理解しているのだろう。

 もちろん孝雄には知らせる。産まれたあとで、写真と手紙をおくる予定らしい。



「そうなったら孝雄くんも帰ってくるでしょうね」

「美咲のことを忘れて行ったのに?」

「忘れられないからインドまで逃げたのよ。子どもができたと知ったら覚悟も決まると思うわ」


 また逃げるかもしれないけれど。

 樹里はうっとり微笑みながら磨きあげたカップをながめた。

「そういうものかなぁ」と理香は孝雄の記憶を思い出す。


 美咲に翻弄されつづけた一条孝雄さん。ドッグフードを味見するとか、いろいろ変な人だったけれど、さすがは進一の親友でイヤな印象はない。あの人がインドへ旅立ったときには、進一はどこか元気がなくて、私も何かを失ったような寂しい気持ちになった。


 樹里はうなっている理香に慈しむような眼差しをむける。

「くよくよ悩んじゃダメよ。そこのところは美咲ちゃんを見習いなさい進一くんとちゃんと話をするの。それができないなら家宅捜索でもなんでもなさい。まだ合鍵は持っているのでしょ」

 理香はコクリとうなずく。


 進一のアパートに行ったのは、タローが死んじゃったときが最後だ。一年ぐらい行ってないのかな。あの部屋には思い出もある。懐かしい。進一はまだ、あの時計を持っていてくれてる? どうしよう、久しぶりに行ってみようかな。団長の命令なんか無視しちゃって。


 場面が変わり、顔をクシャクシャにした小さいオッサンが騒ぎ出して、理香は劇団の稽古を思い出した。


「そろそろ時間かしら」

「うん、そろそろ行かないと……それと、樹理さん、ありがとう」

 

 理香は席をたってカウンターから離れる。

 別れる間際、樹里は「そういえば」と前置きをして情報をつけくわえた。


「孝雄くん、進一くんのことを気にしていたそうよ。親友だから当然かもしれないけれど。それと進一くんは旅の友だといって孝雄くんに資金提供をしていたらしいわ。当分まとまったお金は必要ないだろうから好きにつかえばいいって」


 進一もずいぶん、進一らしいことをする。

 理香はそんな感想をもって樹理に笑顔をみせると、軽快な動きで喫茶「糸杉」を後にした。








「理香さん、あっさりと復活しましたね」


 くるみが素直に感心するほど、理香はいい表情をしていた。くるみが憧れる役者の顔をしていた。それだけ集中していたのは、不安を消し去るためではなく、進一に会いたい気持ちを抑えるためだった。

 いい演技をして、より良い芝居を披露することが、誰もが幸せになれる方法だと信じていた。

 自分のために、劇団のために、観客のために、そして誰よりも、進一のために。


 私が役者として活躍することを、進一は望んでくれている。

 恋人として会うことを待っていてくれている。

 自分を犠牲にしてしまうくらい、私のことを一番に想ってくれている。

 それなら私は、団長に文句を言わせないぐらいの舞台にしてみせる。時間をつくって、進一に会おう。会ってちゃんと話をしよう。捨てられることまで考えさせられた今なら、たとえ猫好きの女を抱いていたって泣いたりはしない。覚悟はできた。もう二度と、進一との間に距離を感じたくはない。もうこれ以上、進一には犠牲になってほしくない。今度は私が、進一のために。



 理香が立ち直り、どうやら絶好調である。

 こうなると期待度が異なり、劇団員たちの気合いも違ってくる。


 稽古場にあらわれた優は、すぐに場の空気を察知して理香に近づいてきた。

「あなた、本当にすごい気迫ね」

「ああっ、ゆうちゃん、昨日はありがとう。もう大丈夫だから、安心して」

 理香の表情と声を知って、優は不敵な笑みをみせる。まだまだ頼りない劇団のスターは、どうやら壁を乗り越えて、ひとつ大きく成長したらしい。優はうれしさと興奮を内側に隠して場を離れ、全身を映しだす鏡の前に立ち、衝動のままにポーズを決める。優は強く美しく鍛えぬいた自らの肉体で喜びを表現し、自らの肉体に見惚れて頬を染めた。

 


「それにしてもさぁ、このところ私の役って、他人を犠牲にするくらい強い女とか、幸の薄い悲しい役ばっかりだよね。もっとこう楽しい役っていうのか、幸せになれる役を全然やってないんだけど」


「キスシーンNGとか言ってるからじゃないですかね」


 くるみは遠慮なく意見をいって、理香を黙らせた。

 これ以上は言わないほうが懸命だろう。だが、それにしてもと理香は思う。

 不満ではないが、以前はほとんど明るい役を演じていた。ハッピーエンドの恋愛物語が好みであり、進一と甘い時間を過ごしていた理香にとっては、幸せそうな明るい役が合っていた。どんな役も演じられるようにと頑張った結果、いまの自分がある。重い役で名を上げたのだから、重い役なのは当然かもしれない。しかし、それにしてもバランスを欠いているような気がする。


「そろっているかね、諸君」

 団長が元気いっぱいに登場すると、理香は余計な考えを振り払って気合いを入れなおした。

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