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22 それであなたはどうするの

 樹里さんなら、浮気なんて考えを消し去ってくれるかもしれない。

 そんな淡い期待もかかえて、理香は午前中に時間をつくった。


 自主練習の時間をつぶすことは、すでに万全の体勢で理香の仕上がりを待つ劇団員たちの期待に背くこととなる。さらには昨日と同様に、遅刻をする可能性も出てくる。

 ほんのわずかに存在する進一への疑惑は、おそらく、演技に影響はない。仲間たちと稽古に励めば演じる役に集中できる。集中力を高めてゆき、舞台が終わるまで忘れることができる。

 それでも理香は樹里に会うため、晩夏の陽射しを浴びながら喫茶「糸杉」へ向かっていた。

 些細な迷いであっても、理香は進一を優先した。



 喫茶「糸杉」は立派な邸宅が立ちならぶ閑静な場所にあった。周囲と調和したガーデニングが優雅な気品を漂わせており、白いポルシェがよく似合う店だった。

 レンガを積み上げた土台に、やわらかなクリーム色の外壁。屋上ではハーブや夏野菜もつくられて、緑が空からこぼれていた。三つの窓から見える店内に人影はない。木製のドアにはCLOSEの札がかけられていた。もともと美咲が読書を楽しむために用意したような店であって、管理を任されているマスターの樹里も、商売をする気はないに等しかった。


 喫茶「糸杉」のドアを開けると、ダージリンの香りが涼風にのって身体をまとう。


「あら、めずらしい」

 落ち着いた声がカウンターから投げかけられた。

 ミルクティーでいいわね。

 樹里はそういって、冷蔵庫から瓶入りのミルクを取り出した。

 くたびれているのかと思うほど丁寧で、仕草のすべてが優雅だった。



 天井は高く、広々とした空間だった。カウンターの奥には茶葉の入った容器が棚にならんでいた。店の奥には高さ二メートルを越える本棚がならび、キノコや細菌、粘菌やウイルスの専門書、文学作品やBL小説などが収納されていた。

 構造はシンプルで、内装は素朴だった。窓にあわせて二人掛けのテーブルセットが三つ置かれていた。床もカウンターもテーブルセットも、素材はすべて木材がつかわれている。部屋の片隅には、ひっそりと観葉植物が置かれていた。マスターの樹里も白いシャツと黒のパンツスーツ姿であり、店内は特徴のない美しさで統一されていた。



 理香はカウンターでミルクティーの濃厚な香りを楽しみながら、年齢不詳の樹里をながめた。


 繊細な黒髪が肩まで流れ落ちて、絹肌の端正な横顔を隠している。すらりとした身体に姿勢の歪みはなく、その動作は指先まで洗練されている。線の細い、優雅な人。流れる眼差しには慈しみが、口もとには微笑みがたえない、落ち着いた大人の雰囲気をもつ美しい女性。

 二十台の後半か、三十台の前半。

 その容姿は若く、大人びた雰囲気を差し引けば十代でも通じるのかもしれないが、理香が幼いころから見た目が変わっていない。


 付き合いは長いけど、謎だらけなんだよね、この人。

 ほんと四十過ぎとか言われたらどうしよう。四百歳とか言われたら信じるんだけどなぁ。


 顔をしかめる理香に、樹里が微笑みをむける。

「新進気鋭の女優にしては美しくない顔をするのね。あまりにも変わりないと逆に心配してしまうわ」

 あくまでも優雅に軽口をたたかれ、理香はミルクティーに口をつける。

「それ、樹里さんには言われたくないんだけど」

 樹里の微笑みが崩れることはなく、紅茶のおいしさも変わってはいなかった。


「演技をしていないか演技力に問題があるのなら、久しぶりに紅茶を楽しみにきたわけではなさそうね。でも会いに来てくれてちょうどよかったわ。わたしも理香に話しておきたいことがあったから」

 樹里はそういうと白いティーカップを磨きはじめた。

 汚れひとつないきれいなカップを、より美しく輝かせるため布で磨きながら、理香が話しはじめるのを静かに待った。



「進一が、なにかを隠しているような気がする」



 前置きなくつげた理香の声に怯えはなかった。

 だからというわけでもないのだろうが、樹里の優雅な立ち姿に変化はなかった。

「浮気かしらね」

 と短く一言で片付けると、視線をカップに向けたまま、指先の繊細な動きさえ乱すことはなく、黙ってカップを磨きつづけた。


 なにも言い返してこない理香を見てとり、樹里はようやく思案顔となる。

「進一は、浮気とかしないから」

 理香はミルクティーを見つめながら言葉をつぎたした。

「さっきより余裕がないように感じるのは気のせいかしら」

 樹里はそういって思案にふける。

 いきなり切り捨てられた形の理香は、チラチラと樹里を見上げた。今度はなにを言われるのか、イヤな予感しかしない。

「男の人って女が服を買うような感覚で浮気をするのよ。女の浮気みたいに計画性がないからすぐに発覚するけれど、それでも懲りずに何回でも他の女を求める。抑制がきかないのよ、馬鹿だから」

 この人、説得してる?

 さすがに説明を省きすぎたと、理香は心中で自分の愚かさを叫んだ。

「いや、あの、浮気を疑ってるわけじゃなくてね、進一のシャツに猫の毛がついていたかもしれなくて、進一が猫は好きじゃないって嘘をついたかもしれないという話なんだけど」

 樹里はあたふたと説明をつづける理香をながめながら、磨いていた手を休めて耳を傾ける。余裕など微塵もない説明は言い訳にしか聞こえず、そして、

「ようするに猫好きの女の子と浮気をしてたわけね」

 ついに正解を導きだしたといわんばかりに、樹里はにっこりと微笑んでみせた。

「……来るんじゃなかったかも」

 理香は肩を落としてうなだれ、「お願いだから、浮気から離れて」と懇願した。



「違うところでバカな孝雄くんなら浮気以外の隠しごともあるかもしれないけれど、進一くんはどうかしら。でもたしかに進一くんもバカなところがあるかもしれないわね。孝雄くんの親友だけあって似ているところだってあるもの。……そう、理香に人生を捧げそうな勢いだった。理香のことをあれだけ絶賛できるなんてたいしたものだわ」

 愛という名の歪んだレンズ。そうだった、あなたたちはバカだったわよね。


 なんだろう。ここに来てから、自分がどんどん弱くなってるような気がする。

 理香はしんみりとミルクティーに口をつけて、カップを磨きながら思案する樹里の姿を見守った。

 なにか思うところがあったのか、樹里が「もう一度はじめから」と手を止める。心の傷が広がっていた理香は聞かれたことに素直に答えた。今度はもっと幅広く、突然あらわれた猫のことから、進一と距離を感じたことまで、不安のすべてを吐きだした。




「浮気じゃなくて本気かしら」


 最後まで聞きだしてポツリとつぶやき、樹里はふたたびカップを磨きはじめた。


 かるい口調で放たれた樹里の言葉は、理香のなかへすぅーと送りこまれる。

 理香はミルクティーをゆるやかに飲み干し、カップを口から離したところで動きをとめた。カップを置くことなく宙で留めておきながら、脳裏で繰り返される「ホンキカシラ」という音の羅列が意味のある言葉であることを受け入れていった。


 理香はぶつぶつと独り言を繰り返す。


 進一と浮気はなんとなく合わない。女遊びをするような性格じゃない。もしも誰かと付き合っているのなら、本気と考えたほうがしっくりくる。私以外の誰かと本気で。猫好きの女と本気で。


 止める者がいないため、不安に満ちた思考で妄想はふくらんでいった。

 巨乳女の嘲笑が聞こえたあたりで心臓が痛くなり、理香はカップを置いてカウンターにふせる。


 顔をあげれば、樹里がカップを磨きながら見下ろしていた。

「私、進一に捨てられるの?」

 理香が泣きそうな声で問いかけると、樹里は変わらない微笑みをむける。


「ずいぶんと悲しいこというのね。だいじょうぶ心配することないわ進一くんは理香に惚れ込んでいるんだもの。理香だってそうなんだから捨てろともいわない。役者の仕事も大変なんでしょうけど会える時間をもっとふやせばいいのよ感じている距離なんかすぐに埋まるわ。ほんとは理香がバカなのよ進一くんを放っておくから横取りされることになるの」


 労わるように、慰めるように、樹里はやさしく語りかける。


「たしかに進一くんは隠してきたと思うわ。理香が役者として成功したころから進一くんは寂しさと空しさを隠してきたと思う。進一くんは恋人だから応援していたわけじゃなかったもの唯一のファンだったし今でも一番のファンに違いないわ。会いたくても会いたくても進一くんにはどうしようもないの。理香の邪魔をしないように無理を重ねていたはずよ」


「理香には夢があるけれど進一くんには理香しかいなかった。理香のそばにいることを望んでいたはずなのに、それなのに舞台役者としての理香にまで心を奪われてしまった。奪われていることを知ってしまった。そして理香の成功を願う進一くんにできることは理香の邪魔をしないことだけ。理香の夢が叶うことを誰よりも望んでしまった進一くんは自分がいないほうがいいと考えるまでになった」


「寂しくても空しくても理香に会ってはいけない。それでも恋人としての理香と離れることはできそうにない。わたしは進一くんにいってみたわ恋人に会ってはいけないのなら、たとえ恋人と距離をおいても平気なぐらいの何かがいる、理香に役者としての道があるように進一くんにも自分だけの道が必要だと思うって。理香のために何もできない進一くんは自分のすべてだった理香以外の道を探すことを決めた。支えとなる恋人に会えないまま、孤独のままにね」


「理香にとっての劇団員のような、ほんの小さな支えでもあればよかったのかもしれないけれど、そんな支えとなりうる親友はあろうことか海外に旅立っている……ほんとに隙だらけなんだから寝取られていても不思議じゃないわ。たとえ理香一筋のバカな進一くんであっても」



 樹里は新しくミルクティーをつくりはじめる。


 理香は静かに泣いていた。


 邪魔しないように無理をして、進一は寂しさを隠している。

 連絡をくれなくて、いつ会えるのか尋ねられなくて、遠ざけられているように感じて寂しがっていた、以前の自分が情けなった。愛しさと、哀しみにつぐ自責の念、捨てられたりはしないという安心感もあって、ぽろぽろと涙をこぼしていた。


 濃厚な甘い香りのたつ紅茶をそそがれると、理香はゆらりと操られるようにカップを手にする。




「それであなたはどうするの」



 樹里は白いカップと磨き布を手にして、理香に問うた。


 理香は涙をぬぐって笑ってみせる。

 言葉を選ぶうちに、ミルクティーの甘い香りに誘われてカップを口もとに運んだ。


 この場所ではじめて進一と出会って、この大好きなミルクティーを、進一は気に入ってくれた。


 理香は進一とのはじまりを思い出して、想いがあふれてくるのを感じた。

 進一のそばにいたい。

 進一に別の相手がいるのだとしても別れたくはない。

 そしてそれを望むなら、樹里さんのいうように捨てられたりはしない。

 進一はきっと、私を選んでくれる。

 それなら私は樹里さんのいうように、進一と会う時間を増やそう。団長に何も言わせないくらいの演技をみせて、進一と会うことを認めさせよう。


 理香はミルクティーを一口だけ楽しみ、微笑みながらカップを置いた。





「それで、どうやって進一くんを奪った相手に復讐するのかしら」






 理香は何か怖いことを言われたような気がして樹里に目をやった。

 樹里はあくまでも優雅にカップを磨きながら、慈しむような眼差しで理香をみていた。

 またミルクティーに目線を落として、理香は甘すぎる紅茶を口に運ぶ。なにか間違っているような気がして、落ち着こうと自分に言ってみる。


 たぶん私が間違っているんだろうけど、復讐とかいわれたのは聞き間違えじゃないよね。進一を奪った相手に復讐……たしかに進一を横取りするなんて敵以外の何者でもない。でも復讐なんてどうやったらいいんだろう。ゆうちゃんたちに相談しようかな、全力で手伝ってくれそうだし、美咲は得意そうだけど相談したら被害が尋常じゃなさそうだから危険だもんね。でも進一を寝取るような女だから、たとえ猫好きだとしても遠慮はいらない……ん? ああ、そうか、美咲だと進一に危険が……ええっと……私って進一を寝取られたんだよね?



 理香はハッとなって目を見開き、樹里を凝視した。

 横取りされた寝取られたと不穏な言葉を織り込まれ、妄想をがっちり補強されて現実を見失っている。進一が別の女と本気で付き合っているということで話が展開されている。


「それだけ泣いたなら少しはすっきりしたのかしら」


 樹里は美しい指の背を唇にあてて、口もとを隠しながらクスクスとおもしろそうに笑っていた。


「どれだけ悩んだってしかたないもの。とりあえず理香に覚悟さえあれば心配しなくていいんじゃないかしら」


 理香は重たくなってゆく頭をささえて、美しいマスターを見あげる。

「そうかもしれないけど、寝取ら……ほかに相手がいないなら、そのほうがいい」


 樹里はクスクスと笑い、何も言い返さずにカップを磨きつづける。仕草のひとつひとつが丁寧で美しく、理香はあきらめて吐息をついた。


「……来るんじゃなかった」

 理香はそういって、深く深く息をつく。

 すさまじい脱力感に襲われてカウンターにふせた。

 すっきりしたのかわからないが、解放感があるような気もする。騙されたのは疑いないが、救われたような気がしないこともない。くやしいけれど、来てよかったと思ったりもしてしまう。文句のひとつも言ってやりたいのに、厳しいような優しいような、この人には、どうやったって勝てる気がしない。


 理香は弱々しく一度だけ、額をこつんとカウンターにぶつけた。

 すこしは成長していたのかしらと、樹里は磨き上げたカップを光にかざした。

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