21 劇団仲間の献身
小皿がわずかに震えては止まる。
中華料理店「桂馬」の座敷席にて、理香は卓上に頭を打ちつけていた。
ごつんごつんと音がする席には、後輩の木下くるみと、同時期に入団した山田優が座っている。
「理香さーん、そんな自虐的行為をしていると、アホな男どもが興奮しますよ」
くるみはのんびり言いながら、箸で餃子を口のなかに運んだ。
「いまはそっとしておいてあげて。理香はこうやって成長していくんだから」
乙女の心をもつ優は、餃子ふたつを一口で食べた。
理香が額をさすりながら箸を持ったときには、餃子の姿は卓上から消えていた。ふたたび気力を失い、最低だった稽古の出来が悔やまれる。理香は片肘をつき、うなだれる頭をささえて深々と息をついた。
「ゆうちゃんダメ。もう私はダメ。ねぇ、くるみちゃんもそう思うでしょ?」
「大げさですよ。たしかに集中力に欠けてましたし、調子がいいなんてお世辞にも言えませんけど」
「そう、私って最低」
「だから大げさですって。そんなに落ち込むことでもないでしょうに。それとも、稽古のほかに何かあったんですか?」
くるみの問いかけに、理香はゆっくりと沈んでゆき、頬を卓上につける。そして、くるみのポッチャリとした童顔を見上げながら、しんみりとひと言、「ない」といった。
いえ、まったく説得力ないんですけど。
くるみの断言に、理香は顔をすっと滑らして額を卓上にそえた。
「ほーら、元気を出しなさい」
優はやさしく声をかけて理香を励まし、腕力で理香の自虐行為を止める。
「こういうときはニンニクよ。すーぐ元気になるわ。にんにくを食べたら大丈夫。食べなきゃ駄目なんだから」
優は「すいませーん」と厨房にむけて、餃子五人前を追加注文する。
いい声してますねぇと、くるみが「うんうん」うなずいていた。
「それで、進一くんと何があったの?」
優はやさしく問いかけて、理香を解放する。
涙目の理香が答えずにいると、「ついに別れましたか?」と、くるみが満面の笑みで聞いてきた。
「別れてませんよ。っていうか、ついにってなに?」
理香が驚きながら抗議すると、くるみは「なんだ」と鼻で笑い、「タフな人たちですねぇ」と舌打ちをした。
理香が後輩の理不尽な扱いに驚愕して固まり、優の大きな手がくるみのアゴを締め上げている間に、追加注文した餃子が大皿でやってきた。
優に「どんどん食べなさい」とうながされ、理香は餃子を箸でつかむ。酢醤油につけて口にいれると、タレの酸味が刺激になって唾液が溢れ出し、噛みしめると肉汁が口のなかに広がった。熱々の餃子をハフハフしつつ、辛味やら旨味やらを味わい、パリパリもちもちした皮の感触を何度も確かめる。ひとつ食べ終えたときには、気持ちも少し楽になった気がした。
優に視線でうながされ、「ほんとになにもないってば」と理香はいう。
「隠さなくてもいいの。あなたが演技のほかに悩むことなんて、進一くん以外ないでしょ? 彼となにかあったなんて稽古場にいた全員が気づいてるわよ。この場にくるみしかいないのが、その証拠ね。あたしに任せて遠慮したのよ。微妙な問題を抱えてる乙女から奢ってもらおうなんて、くるみ以外いないわ」
首をひねる理香に、優は困ったものねと息をついた。
「あなたが進一くんとデートをすることは、みんな知ってたわ。だから、みんな覚悟はしてた。あなたは絶対に浮かれきっているから、まともな練習ができるはずはないってね」
優は箸を手にすると、熱々のできたて餃子をひとつだけ取った。
「今日は来ないんじゃないかって意見もありましたよ。私ですけど」
くるみも箸をもって餃子をとる。
理香も餃子をとり、黙って食べながら優の続きをまった。
「たしかに稽古の出来はひどかった。でも、予想とは違って、あなたは浮かれてなんかいなかった。心ここにあらずって感じで、台本読みにすら集中できていない。あたしたちは悩んだわ。進一くんとケンカをしたとは思えない。そんな常識的なこと起きたとしたら、もっとひどいことになってるはずよ。考え事をしてしまうぐらいですむわけないもの」
優は餃子に箸をのばし、次はあなたと理香をみる。
理香は箸をくわえたまま黙り込んだが、ついにはあきらめて全身から力を抜いた。
進一のシャツにね、猫の毛がついていたかもしれないの。
理香は告白を終えると、深刻そうな表情を浮かべた。
真面目な顔で聞いていたくるみが「はぁ?」と語気を強めて、すぐさま優にアゴを締め上げられる。
「猫の毛なの? 女の髪とかじゃなくて?」
理香はボンヤリとうなずき、優は首をかしげて後輩から手を離した。
「それで、猫の毛がついていたら、何がいけないの?」
「いけないことじゃないんだけど……進一、猫はあんまり好きじゃないって言ってたのに、なんでだろうなって。ほんと、なんでこんなに気になるのか、自分でもよくわからない」
「そうねぇ……たぶん、それは勘ね。女の勘が働いているのよ。あなただって乙女なんだから」
「ええ、理香さんは女ですよ。理香さんは」
優はくるみを無視すると、理香の話をじっくり聞くために腰を据える。
「あれが猫の毛だとしたら、進一の近くに猫がいることになるのかなぁ」
「そうかもしれないけれど、どうかしら? まったくの偶然かもしれないじゃない」
「うん、そうなんだよね。たんなる偶然かもしれないし、そもそも猫の毛がどうかもわからないのに」
「……なにか、納得がいかないのね」
ふたりが考え込んで黙ったのを見てとり、「嘘ついてんじゃないですかぁ」とくるみが割り込んだ。
遠慮がない別方向からの意見に、理香と優は後輩をみる。
くるみは気をよくしてニタリと笑った。
「もしも猫が苦手でないなら、近くに猫がいても問題はない。猫の毛がついていたって不思議でもなんでもないでしょう。なんで嘘をついたのかはわかりませんけど」
浮気でもしてるんですかねぇ。
くるみは適当だが自信のある意見を独り言のようにつぶやいた。これを聞いた先輩がどうなるか、口もとをニンマリさせながら逃げる用意をしたが、理香はまったく反応できていなかった。
「ほんとにピンと来てない顔ねぇ。まっ、たしかに、進一くんと浮気を結びつけるのは難しいかも。そういえば、くるみは会ったことなかったかしら?」
顔も知りませんよ。
くるみが吐き捨てるように答えると、優は落ち着いた笑みをうかべて理香をみる。うわきうわきしんいちがうわきと理香が何度も確かめるようにぶつぶつと唱えていることに気づき、その無表情な横面にかるく刺激を与えた。
「……でも、猫はあんまり好きじゃないって聞いたとき、変だなぁって思った」
理香は頬をさすりながら、沈みがちな目で優に救いをもとめる。
「そうね。たしかに進一くんは、ほんとは猫が好きなのかもしれない。大好きなのかもしれない。あなたに嘘をついたのかもしれない。けれど、いい? たとえ彼が嘘をついたのだとしても、それはあなたのためだと思う。あなたを心配させないために嘘をついた。そうに決まってるわよ」
理香の目をまっすぐに見据えながら、優はそう言い切った。
説得力はあった。なぜ猫が好きだと言えば理香を心配させることになるのか、理由はなにも思いつかなかったが、たぶんそうなのだと優は本気で考えており、きっとそうだと理香も思えた。
進一はなにかを隠している。
そう考えると納得ができてしまう。
けれど、たとえそうだとしても、それは些細なことに過ぎないはずだ。
誰もが少しずつ嘘をつく。
進一にプータローの存在を隠したように、恋人にだって嘘はつく。
大切な人のために。
自分のために。
お互いが、幸せになれるように。
「まったく、なにを寝ぼけたことを言ってるんですか。嘘をつくってことは、なにか後ろめたいことがあった証拠じゃないですか。ましてや男が恋人に嘘をついたんですよ? 浮気ですよ、浮気。これはもう、ぜったいそうですって。おそらく進一さん、猫好きの女でも抱いたんでしょぅ」
くるみは顔面を万力のような力で締め上げられ、声にならない苦痛の叫びを発して苦しみもだえる。後頭部を畳に押し付けられると背を反らし、両足をバタつかせて抗うものの、無駄に終わった。
優はぐったりとなった後輩を放して我にかえると、女の囁く声が聞こえて背筋をゾクリとさせた。
表情を失くした理香がダイタダイタネコズキノオンナと繰り返しつぶやいている。
優は悲鳴をあげながら理香の肩をつかんで揺らし、目に涙をうかべつつ説得した。
「しっかりなさい。食べるのよ、食べなきゃ駄目なの。ほーら、いそいで食べないと、また冷めちゃうでしょ? あぁ、やだ。あたしったらニンニクに囚われ過ぎていたわ。ごはんを食べないと駄目よね。炭水化物こそエネルギーなのに」
優は仰向けになって動かない後輩を叩いて起こした。
くるみは四つん這いで座敷内を移動すると、ごはんの大盛りを三つ注文した。
三人は大盛りのごはん茶碗を片手に餃子を食べる。間違いなく、微妙な問題を語るような環境ではなかった。理香は優の狙い通り雰囲気に染まり、餃子の奪い合いをはじめるほどに活力を取り戻していった。
「あれが本当に猫の毛だとしても、私の服から移った可能性もあるんだよね」
「あらそうなの? そういえば野良猫を部屋に連れ込んでるとか言ってたもんねぇ。……えぇ、なんで移るのよ。まさかあなた、街中で抱きついたりしてないでしょうね? ちょっと、なんで目をそらすの。半笑いってなによ」
「ほんと、聞いてるだけでツバ吐きかけたくなるんですけど」
「……くるみちゃん、さっきからひどくない?」
「さっきからじゃないわ、くるみの根性はスリムだったころから腐ってたもの」
そういえば、入団したときはアイドルみたいにかわいかったよね。
「これでも入団前はマトモでしたよ。腐ったのも太ったのも全部ストレスのせいです。なんたって私は理香さんに憧れて入団したんですからね。まったく何度劇場まで足を運んだか……理香さんの演じた悪女は、たしかに最高でしたよ。そりゃ私だってね、役者が演技してるキャラと同じはずないって、わかってますけどね。この落差はなんですか? 詐欺ですか?」
「もう、そんなに毒を吐かないであげて」
「ユウさんだってショック大きかったんですよ? 鍛え抜かれた肉体美がすごくて、ワイルドな悪役がかっこよくて、それなのにコミカルなオネェ役もできると思っていたら本物のオネェじゃないですか。いまは演技じゃないですよね? これは完全に素でやってますよね?」
スリムになって黙っていたらアイドルでもやっていけるのにねぇ。
ほんと、くるみちゃんなら演劇界の人気アイドルになれると思う。
「……餃子の争奪戦をやっておいて、アイドルとか本気で言ってんですか?」
なぜか照れている先輩たちにイライラしながら、くるみは今夜も食べることでストレスを発散させた。
理香は文句を言いながら、食後のスイーツであるゴマ団子に手をのばす。
「スケジュールに余裕がなさ過ぎると思わない? 進一と会う時間がぜんぜんないんだけど」
くるみも同じように手をのばし、理香の団長批判に賛同した。
「たしかに団長は、よその芝居に出させすぎですよ」
あたしたちの活動がストップするものねぇ、と優ももちろん手をのばす。
「理香さんを活躍させる、というよりは、わがままを言えない客演を増やして進一さんに会わせないようにしてましたよね。別れさせるためにやってるなら、今のところ失敗でしょう。逆効果にしかなってない」
「やっぱり、くるみちゃんもそう思う? 進一への想いは深まってると思う?」
「そっちですか? ええ、さっさと同居でもしとけば、愛とやらも冷めるでしょうに」
「やだなぁ同居なんてしたら、もう……でも、やっぱり慣れるのが一番だもんね。今日も久しぶりに会ったら、進一の顔、まっすぐ見れなくなってたからなぁ」
あなた、なんでそんなに都合よく聞きとれるわけ?
「まぁいいわ。団長が引き裂こうとしても、これなら大丈夫でしょう」
優はウーロン茶で口の中をさっぱりさせると、すみやかに手をのばしゴマ団子をとらえた。
獲物の数はどんどん減ってゆき、三人とも無口になった。
残り二個となったが誰も譲る気配はなく、くるみが会話を再開させる。
「しっかしですね……付き合って二年も過ぎてるのに、なんで慣れないんですか?」
「……うん、慣れかけてはいたんだけどね、たぶん」
「くるみは知らないでしょうけど、当時、劇団を支えていた水樹様が辞めちゃって、どうしても新しいスターが必要だったの。……だから団長には、ほかに選択肢がなかったのも確かなのよね。あたしたちの劇団に理香を遊ばせておく余裕なんてない。その理由は、くるみもわかってるでしょ?」
「そりゃあ、よその劇団がチケット売るのに苦労してるのは知ってますよ」
舞台上の理香には華がある。
ええ、舞台の上では間違いなくスターですよ。観客が多いのは当然です。
「やだなぁ、もう、そんなことないって」
理香は笑顔を隠すことなく姿勢を正すと、ゴマ団子の皿をすすっと自分から遠ざける。
優とくるみは遠慮なくゴマ団子に手をのばした。
「演技のうまい人ならいる。けれど、水樹様が去ったあとの劇団に、スターは一人もいなかった」
そして、そのときすでに、理香には輝ける可能性があった。
「理香は水樹様の代役を求められて、期待以上に成功したのよ。進一くんと距離をおいて、舞台に集中すればするほど、理香はいい演技をした。……誰も口出しできないほどに、ね」
進一くんも、あたしも、理香でさえも。
目の前から食べる物がなくなり、三人の食事はようやく終わりを迎えた。
ポッコリお腹をさすりながら、くるみが愚痴る。
「理香さんに恋人ボケを克服させる余裕がなかった。そして、それは今も変わらない。だったら、とっとと別れさせたほうが劇団のためになる。そこまではわかりますし、はっきりいって私は賛成です。しかしですね、あの小さいオッサンは本気で別れさせる気があるんですか? どうにも中途半端な感じがするんですけど」
理香は手を合わせたまま記憶を探った。
「そういえば、団長から別れろって言われたことはないんだよね。……役者に集中させたいだけかも」
「そうねぇ……いまでこそ嫌がらせのように恋愛禁止を叫んでいるけど、以前はまったく反対のことをいってたものね。恋愛もできんようなやつが芝居なんぞやれるか、役者として成長したかったら人間として成長しろ、って。ステージの上から叫ばれても、まったく心に響かなかったことを覚えてる。……でも、それでもあの人は、ただのポンコツじゃない」
あのオッサンには、なにか計画でもあると?
さぁ? あるような気もするし、まったく何も考えてないような気もするわね。
「まぁ、気にしてもしかたないわよ。あなたと進一くんなら、団長がなにを企んでいても大丈夫でしょ?」
「うん。いつかは進一といても、まともな演技ができるようにするつもり」
「やっぱり別れる気はありませんか。……同居なんてさせたら、使いものにならないんでしょうね」
くるみの独り言に優がうなずき、理香も大きくうなずいた。
優が運転するジープに乗り込み、理香はコンビニ経由でマンションまで送ってもらう。
「帰りはいつでも送ってあげるわ。あなたにもファンが増えてきたから、痴漢だけじゃなくてストーカーにも気をつけないと」
優が言うと、助手席のくるみが口を開く。
「それ、私が団長にやれって言われたことなんですけどね。役を離れた理香さんにファンが気づくとは思えませんけど、ずっと奢ってもらってますし、私だって送迎くらいしますよ。なのに、なんで勝手に役割を奪ってくれるんですか? 団長が言うように、恋人がいないことを願う幸せ者だっているんですよ。ユウさん外見は完全に男なんですから、目撃されたらカモが逃げちゃうじゃないですか」
「ほんとにもう、どれだけ最低なのよ、あんたは。あたしたちはファンがいるから生きていけるの。だからこそ、そんなファンの夢も壊さないように、くるみも乗せてあげてるんじゃないの。それに、あたしは進一くんから頼まれてるのよ。理香のことはまかせなさいって、約束してるの」
理香はくわしく聞きたかったが、「あなたは愛されている、それだけのことよ」と優は答えた。くるみが進一の顔を知りたがり、写真はないかと理香にきく。「進一のすべては、私の心に」と理香は情感を込めて最後まで言いきったが、「あら、あたしの携帯電話に写真あるわよ」と優があっさり否定した。
理香は車外に追い出され、マンションの前に捨て置かれた。
走り去るジープの排気ガスにまかれて、捨てゼリフも吐けずに力を落とした。
マンションのなかに入り、昇降ボタンを押してエレベーターが降りてくるのを待った。
優やくるみといっしょにいて、稽古における悩みは失せた。いまでは明日の稽古に意欲もわいている。
エレベーターに一人で乗り込み、一人で三階まで昇っていく。
進一のシャツについていた毛に対する、怖いくらいの悩みも消えた。正体不明の不純物は消えて、進一に対する想いはクリアになった。あなたは愛されている。そんな優の言葉もあって、愛されているのだと素直に思える。思えるがやはり、ずいぶん具体的な形をした不純物が底に沈んでもいた。
ひとりになると考えてしまう。
進一はなにかを隠しているような気がする。浮気だとは、思えないけれど。
扉が開いた。
ドアの前に、キャラメル色の猫がいる。
カギを開けて、プータローを抱えた。
ふくよかな身体を抱きしめて、ぬくもりを感じる。来てくれてよかった。プータローの存在が、こんなにも心強かったことはない。ひとりで過ごす夜が、こんなにも心細かったことはない。いままでずっと、進一を疑うことなどなかったのだから。
「猫好きの女って、ねぇ」
ほっとして語りかけると、プータローは派手にくしゃみをした。
ニンニクは嫌い? 理香はむぐっと口を閉じて、キャラメル色の猫を部屋に連れ込んだ。
プータローと過ごす時間は変わることなく幸福で、眠る前、出窓に置いた安っぽいアナログ時計をながめれば、今朝よりも表情はゆるんだ。それでも、樹里に会うことを理香は決める。話を聞いてほしかった。愛しい人に愛されていると感じながら、その大切な人を疑ってしまう弱さを。
進一との話を聞いてもらうなら、樹里さんが一番……だよね?
悪い夢をみないように、理香はプータローを抱きよせて眠った。