20 二年目のデート
イチョウの緑が陽射しを和らげ、光を揺らしている。
街路樹が並んだ飾り気のない通りを、理香と進一は寄り添って歩いていた。
歩幅は違っても、ふたりのリズムに乱れはない。久しく離れても変わりなく、ふたりの歩き方は自然だった。
居づらくなってカフェを離れて、どこへ行くかも決めてはいない。
「どうしようか」と進一はつぶやき、隠れ場所を尋ねるように、こっそり横目で理香をみる。
会話のほうはまだ少し、顔を見合うとぎこちない。
理香は黙って腕をからめて、行きたい場所へと進一を連れた。
歩きなれた二人は、パフェのおいしい店を選ぶ。
付き合いはじめて二年が過ぎても、スイーツを楽しむ習慣は変わらなかった。
案内されたのは、二階席の窓際。
理香と進一は向かい合って座り、メニューを見ながら言葉だけ交える。
「進一は、最近どう?」
「どうって、幅広いなあ。まあ、元気でやってるよ。バイトは辞めたし、そろそろ、学業に専念ってところかな。八代さんを手伝って論文を読んだり、研究に便乗して卒業論文を書いたり。いいかげん、院生試験の勉強もしないと」
「八代さんって、美咲の推薦枠を譲った人だっけ?」
「そう……譲ったというより、押し付けた感じなんだけど。まあ、あの人の方が雪村製薬は喜ぶと思う。熊みたいな体格なのにとんでもなく器用。細かい作業が得意で、正確さとスピードは誰にも負けない。体力も根性もすごいから、まさに研究作業のプロフェッショナルだ。美咲さんの顔に泥は塗らないよ」
「……そんなにすごい人なのに、なんで後半は笑いながら話すかなぁ」
「いや、おもしろい人でもあるから。それに、この前の合宿が、ちょっと」
店員が来る。
ふたりはチョコレートパフェと抹茶パフェを注文して、顔を見合わせた。
「……進一、忙しくなっちゃうね」
「時間なら、つくるよ」
照れながら微笑む進一がいて、理香は表情をふやけさせた。
恋人と楽しむスイーツタイム。
ふたりは何度も味わった幸せを取り戻して、愛しい人がいる現実に慣れていった。
パフェを楽しみながら、会えないでいた空白の時間を埋めるように、理香は役者としての日々を進一に語りつづける。進一は微笑みを浮かべて耳を傾け、生き生きと話す理香に見惚れた。
パフェがなくなっても、舞台の話は尽きない。
いくらあっても、時間は足りない。
「もうこんな時間か……」
進一は、それだけつぶやくと、視線を落とした。
動きを止めていたスプーンから、すくったバニラが器に戻っていた。
顔をあげた進一は、どこか苦しそうで、なによりも寂しそうな表情をしていた。
となりに座っていたカップルの会話が、理香の耳に空しく聞こえていた。
理香は無理やり笑顔をつくる。
「ほんと、そろそろ時間切れ。……まだ、ストロベリーパフェも気になるのに」
理香のセリフに、進一のスプーンはふたたび動きを止めた。セリフの意味を理解して、すぐに進一は小さく笑った。頭をかいて、残ったバニラアイスを口に運び、「まったくだ」と、笑ってみせた。
ラストオーダー。
ふたりはココアとコーヒーを注文した。
話したいことを、どれだけ話せただろう。
理香は静かにココアを味わい、コーヒーを口にする進一と視線を交わす。
残された時間を、最後まで大切にしたい。
何も語らずに過ごすのも、悪くないような気がした。
プリンを食べる、キャラメル色の猫が頭をよぎる。
おもわず笑みがこぼれて、進一も同じように笑みをかえした。
何かを問いたそうな進一に、「なんでもないよ」と理香はこたえる。猫が苦手というなら、楽しめない話をする必要はない。たとえプリンを食べる猫に興味をもってくれても、会いに来てとはいいにくい。進一が会いたいと願うなら、団長命令を無視する自信はあるけれど。
「なにか、良からぬこと考えてない?」
見透かしたような問いかけに、理香は窓の外へ視線をうつした。
「ねぇ。私の部屋に遊びに来て、っていったら、怒る?」
「怒りはしないよ。行かないけど」
「団長に見つからなければ、ねぇ」
「翌日には、顔に書いてあるとかなんとか言われるだろうな」
楽しそうな進一がいて、理香は口を尖らせる。
怒ったようにみせても、進一には通用しない。理香はわざとらしく溜め息をついて、両肘をだらしなく卓上についた。穏やかな眼差しを浴びながら、両手でカップを口に運ぶ。甘いココアを味わうと、理香の頬はあっさりゆるんだ。
「捨てられた子犬を拾っても、進一には教えてあげないんだから」
そんな理香の負け惜しみに、進一は苦笑して謝罪した。
進一は本当に犬が好きだと、話題は柴犬タローにおよんだ。タローが元気だったころは団長の命令もなく、理香も進一の部屋を訪れている。ふたりが築いた思い出のなかに、タローは確かに存在していた。
理香が臭いというたびに、進一がブラッシングをしていたこと。食べるものを用意しないかぎり、まったく芸をしないこと。エサをねだるときと、孝雄が来るとき以外、まったく吠えない番犬だったこと。タローが亡くなったとき、進一が泣いていたこと。泣いているのを認めなかったこと。
共有する思い出を語り合って、わずかに残されていた時間は静かに流れた。
いまの私たちは、あのころとは違う。
あのころは、望めばいつでも一緒にいられた。
いつも近くに進一を感じていて、なにも考えることなく、ただ笑っていられた。
遠ざかっていた日々の記憶が、理香の心を重くする。
進一は懐かしむように微笑んで、最後には、遠くを見るような眼差しで理香をみつめた。
時間に迫られ、理香と進一は店を出る。
「そろそろ行かないとな」
進一が小さく笑うと、理香はうつむいて恋人の手をつかんだ。
まだ、離れたくはなかった。別れることが怖い。進一が遠い。このまま離れてしまったら、進一を見失ってしまうような気がする。あまりにも長く離れすぎていたのかもしれない。これまでにも進一との間に距離を感じたことはある。けれど、こんなにも遠いものではなかったはずだ。
「駅まで、いっしょに行くだけだから」と理香は言った。
稽古場には遠回りになる。それは二人ともわかっていて、それでも進一は理香の手を握りかえした。
まだ、進一はここにいる。そう思えて、理香のこころも落ち着いていく。
駅までの道のりを、ふたりは並んでゆっくりと歩いた。
「今度は、いつ会える?」
「……どうかなぁ。これくらいのデートなら、わがまま言ってもいいかも。本番直前にしちゃえば、逆にいい感じになるような……」
「いや、終わってからにしよう。こっちが心配になる」
「簡単にいうけど、デートが決まったあとで役者モードをキープするの、大変なんだよ? 昨日の打ち上げパーティーとか、その反動でほとんど記憶がな、い……」
「……またなにか、良からぬことを考えてないか?」
「考えてる、というより悩んでる。久しぶりのデートなんだから、やっぱり別れのシーンは大事でしょ? キスをするか抱きしめ合うか、進一はどっちがいい?」
無口になった進一から離れて、理香は恋人の背中に抱きついた。
進一は見事にうろたえて周囲を見回し、視線をそらす人々を目撃して固まる。
調子にのった理香は笑い声をあげて「やっぱり両方がいいかなぁ」と進一に甘えた。この状況、恋人の存在を隠したがっている団長が知れば、どんな文句を言われるだろう。そんな考えが脳裏に浮かぶと、理香はいっそう楽しくなって進一を肌で感じた。
進一は、ここにいる。
いまでもずっと、そばにいてくれる。
「もういいんじゃないか? いいかげん、遅刻するぞ」
動かないでいる進一が、あきらめたように理香にいう。
理香は大げさに溜め息をついて、「しょうがないなぁ」と進一の背中から少し離れた。
進一のシャツの裾に見慣れたキャラメル色の猫の毛をみつけて、理香の思考は「ん?」と途切れる。
不思議がる理香の声に進一が振り返り、警戒しながら理香の様子をうかがう。
理香の思考は舞い戻った。進一が困惑顔で周囲を気にしながらも、自分のことを心配してくれている。
すべてを忘れて正面から抱きつこうとしたが、そこはすばやく逃げられた。
ぶちぶち文句を言いながら進一を見送ったあと、理香は稽古場に向かう。
幸福感に浸りながら歩いていると、行き交う人たちにチラチラと見られた。美しすぎるわけでも役者オーラでもないことを自覚して、緩みきった表情を引き締める。
つぎの芝居に意識を向けようとしたが、先ほどの疑問が邪魔をした。
なんでプーちゃんの毛が進一のシャツに? コロコロできれいにとれたと思ったけど、私の服についていたのが進一についちゃったのかなぁ。見間違い、じゃないと思うけど、プーちゃんのはずないし、べつの猫……。でも進一は猫が苦手なわけで、じゃあ、犬の毛? 猫っぽい違う動物……ってなにがいるの? あぁ、そもそも動物の毛の違いなんてわかるわけないし、プーちゃんのものじゃないよ、きっと。
赤信号で立ち止まると、理香はどうにも不安を感じて着ている服にキャラメル色の猫の毛がないかチェックした。見つからなくて、不安を感じる。自分の考えに納得がいかない。どこか、なにかを間違えているような気がする。
時間が迫っているというのに、信号が青に変わっても、歩き出すタイミングは遅れてしまう。
じわじわと嫌な感じが増してゆき、何がおかしいのか、答えを求めずにはいられない。
遅刻をしたあげく、稽古の出来は最低だった。




