16 嘘と現実と猫の受難
携帯電話が騒がしい。
理香はため息をついて、仕方なくバームクーヘンを平らげた。
鳴り止まないメロディを止めるために、ソファーを離れる。テーブルで震える携帯電話を手にして、一瞬で、身体が熱くなる。
進一が呼んでいる。液晶画面には間違いなく、『佐山進一』と表示されている。
理香は疑問を抱くよりさきに、呼び出しに応えていた。携帯電話を耳元にあてて、相手の声が聞こえるまえに、恋人の名を呼んでいた。
「ごめん、理香。いま大丈夫かな?」
「うん。いま部屋にいるから、ぜんぜん平気。でも、どうしたの? めずらしいよね、進一が電話くれるなんて。ものすごーく久しぶりでしょ?」
「このところ、理香、がんばってるからな。こっちから電話して邪魔はしたくはないよ。こんなふうに話していると、あとで怒られるだろ? 役になりきれなくて」
「昔の話ですよそんなのは。いまはもう、すぐに役に入っていけます。あっ、いま進一笑ったでしょ?」
「ごめんごめん。でも……いや、なんでもない」
「もう、まだ笑ってる」
「ああ、笑えてる」
「そんなに信じられないなら、また劇場まで見にきてよ。いい演技、するから」
「いい演技か……出入禁止、解かれてないよね?」
「うん、団長が手をまわして、ほかの劇団にまでブラックリストの扱いになってた」
「あの人そこまで徹底してるのか?」
「うちの団長、ほっといたらどこまでもいくからねー。なんとかするには、進一がいても大丈夫っていう証拠を見せないとダメだと思う。だから、どう? ここはひとつ、強攻策でいってみない?」
「やめとくよ。もしも強硬手段なんかやって舞台に影響がでたら、劇団の人たちにも全力で拒まれるような気がする。まあ、いまでも十分警戒されてるか。最前列に座って見たとき、理香のアドリブが激しすぎてすごいことなったから」
「あー、あったねーそういうことも。でも、あのときはほら、いい役もらえて、緊張してて……うん。なんかもう、進一がじっと見てくるから怒ってる表情をつくれなくなって、無理やりハッピーエンドにもっていったんだよね。みんなが協力してくれなかったら、観客席から硬いもの投げられたと思う。はは、あとですっごく怒られたよねー、進一も一緒に」
「さすがに、全員から睨まれたくはないな。あんなことは二度とないとは思うけど、やっぱり劇場には行かないほうがいいと思う。怒りとか悲しみとか、難しい演技を求められてるときは、舞台のことだけを考えたほうがいい。会わないほうがいい演技をするのは、素人でもなんとなくわかる。……いまだから言うけど、理香にも黙って、こっそり見に行ったことがある」
「えっ、ほんとに? もぉ、なんで言ってくれないのー?」
「なんでって、危険だから。もしも理香に見つかって、役から離れたりしたら大変だろ? それに……一度、見ておきたかったから。ずっと会わないでいた理香が、どんな演技をするのか。劇場まで見にいったのは、あれが最後だな。あとで団長に見つかって、危険だから二度と来るなって、念をおされた。……悪女の役なんて理香には似合わないと思ったんだけどなあ。なんだか、かっこよかったよ」
「……進一」
「役になりきってて、観客をどんどん芝居の世界に引き込んでいって、ああいうのを、いい演技っていうんだろうな。見てきたなかで、一番いい演技をしてたと思う。きっと、舞台のことだけ考えて、集中すればするほど、理香はいい演技をするんだよ」
「……ちゃんと、見ていてくれたんだ」
「ごめん、ずっと黙ってて」
「……やっぱり、会わないほうがいいのかな」
「たぶん、そうなんだと思う」
「そっか……なんか、くやしいな。……でもね、進一。舞台に集中するようにって気をつかってくれるのはいいんだけど、たまには声くらい聞かせてよ。めちゃくちゃうれしいんだよ、こっちは」
「……それ、すごくわかる」
「うん? なにが?」
「こっちも理香の声が聞けてよかったってこと。……あーあ、団長との約束、破っちゃったな」
「どうでもいいよ、そんなの」
「いや、理香には舞台のことだけ考えて欲しい。邪魔だけはしたくないんだ」
「だいじょうぶ、平気だって。なんなら誓ってもいいよ。明日の舞台練習では、役作りに失敗しませんーって」
「ほんとに大丈夫か? けっこう悲しい役なんだろ? 笑顔とか厳禁じゃないの?」
「だから、心配ないって。そんなに疑うなら、これから毎日電話しちゃうよ? 話したいことがどれだけあると思ってるの? 毎晩夜明けまで寝かさないよ?」
「わかったわかった。こっちが悪かったから。信じるよ。理香のこと信じてるから、今日はもう寝るよ」
「えぇー、もうーぉー」
「なんていう声を出すんだよ。こっちが恥ずかしくなるじゃないか」
「だって、そっちから電話しといてさぁ。今日ぐらい徹夜でもいいんじゃないの?」
「いいわけないじゃないか。どれだけ舞台から意識を離すんだよ。それに、寝ないで稽古に出たらフラフラになるんだろ? 理香はもう、少女Bとか村人Cみたいな端役じゃないんだから。ああ、なんかもう、電話したの後悔してきた」
「もう、しょうがないなぁ。進一は真面目すぎるんじゃない? 私だってプロだよ? うちの劇団の看板役者ですよ? 体調管理が大事なことも、徹夜がダメなのもちゃんとわかってる。でぇーもぉー、もう少しぐらい恋人と恋人気分を味わっても罰はあたらないと思わない? あっ、そうそう。進一ってぇ、猫は好きかなぁ? ……進一? どうかした?」
「ん? いや、なんでもない。ああ……ごめん。猫は、あまり好きじゃないんだ」
「へぇ……そうなんだ。なんか、意外かも」
「で、猫がどうかした?」
「ううん。なんでもないなんでもない。たいしたことじゃないの。ほら、団長がさ、猫のモノマネとか考えてるから、それを思い出しただけ。でも、そっか、進一は猫のこと苦手なんだ。なんだろ? 犬が好きな人って、猫は嫌いなのかなぁ? 進一ってかなりの犬好きだもんね。タローが死んじゃったときとか、ずっと泣いてたし」
「まあ、嫌いってわけじゃ、ないんだけどね。……いや、泣いてないから」
「えぇー、泣いてたじゃない」
「いや、ぜんぜん泣いてない。理香の記憶違いじゃないか?」
「いーえ、ぜったい間違ってません。進一が涙を流してさぁ、もらい泣きして、ふたりで一緒に泣いてたでしょ?」
「そう、だっかなあ?」
「ふーん、そう。認めないんだ。じゃあ思い出せるように、最初からぜーんぶ、話する?」
「するわけないだろ。しなくていい、そんなの」
「じゃあ、認める?」
「はいはい、認めます。たしかに、ちょっと泣いてたと思う」
「ちょっと?」
「もういいだろ? まったく、なんでそんなこと覚えてるんだ」
「だって、泣いてる進一を見るのなんてあのときだけだもん。忘れられない思い出ランキング、ベスト5には入ってるの」
「はぁ、もういいや。じゃあ、そろそろ切るよ」
「えぇー、もうーぉー」
「だからそんな声を出すなっての」
「ひどいなぁ、進一から電話しておいて」
「……舞台が終わるまでは、また電話もやめとくよ」
「ほんとに、これで終わり?」
「理香には、舞台で活躍して欲しいから」
「じゃあ、ほんとに終わりなんだ」
「……ごめんな。もうずっと、理香だって電話しないようにしてたのに」
「それは……」
「……理香」
「……」
「今度は、いつ会える?」
「……うん。今度の公演は、どうかな? 評判がいいから、長引くかもしれない」
「そっか。まあ、人気があるのは、いいことだと思う」
「また、メールするね」
「ああ、楽しみにしてる」
進一の声が届かなくなって、理香は耳元から携帯電話を離した。
いつもより、鼓動が早い。胸の高鳴りを感じながら、落ち着くように呼吸を意識する。本番前の舞台と同じように、心を静めてゆく。プロの役者として、明日の舞台練習に気持ちを切り替える。ちょうどいい。演じる役と、状況は似ている。
いまは、幕が上がる直前のステージ。
いま、恋人の声が途絶えた。
幕が上がる。
愛しさと、切なさ。
観客席に向かい、嘆きの表情を浮かべて、その場に足下から崩れ落ちる。
「うん。ムリ」
理香は携帯電話をつかんだまま、緩みっぱなしの頬を両手でおさえつけた。
寂しくもある。切なくもある。ただそれ以上に、うれしくてしかたがない。崩れ落ちるどころではない。団長の命令など無視して、いますぐ進一の部屋まで飛んでゆきたい。雨だとか、冷たい地面だとか、考えられるわけがない。部屋に雨など降るわけない。床はフローリングであたたかい。
「もう、どうしよー? これ明日とか危なくない?」
理香は危機感のない表情でぶつぶつと独り言を繰り返す。
ソファーでは、バームクーヘンを食べ終えたキャラメル色の猫が、蜂蜜色の瞳を細めていた。
猫のあくびに気づいて、理香はようやく猫の存在と、進一とした会話の内容を思い出した。
あわててソファーに近寄ると、ふくよかなキャラメル色の猫に悩みをぶつける。
「プーちゃん、どうしよう? 進一、猫は苦手なんだって。このソファーにふたりで座って、プーちゃんの肉球を一緒にぷにぷにしたかったのに」
理香に肉球を揉まれながら、プータローは小さくゲップをした。
「んー? 今日はいつもより食べてないのに、もうお腹いっぱいなの?」
理香はソファーに座り、プータローを抱えて膝にのせる。
猫の缶詰を見せても、反応することは多くない。今日にいたっては、スイーツにも反応は薄かった。
「いつもどこて食べてるの?」
理香の質問に、プータローはあくびで答えた。
理香は眠ろうとする猫をやさしく撫でながら、バームクーヘンは嫌いなのかなぁと、考えてみる。
プータローにも好みはあるのかもしれない。だとしたら、プリンはどうだろう? 劇団の後輩に聞いてみても、猫がスイーツを好物だとは知らなかった。進一も知らないかもしれない。猫がプリンを食べると知ったら、進一だって気に入るかもしれない。
やたらと長い尻尾が、ぽふぽふと太腿をはたく。
「うん。いける」
理香はプータローを抱えたまま、まだ見ぬ未来へと想像をふくらませた。
「いっしょに暮らそうか」と進一は言った。
はじめての主演舞台が成功して、引っ越しについて話している途中だった。
そのときすでに、お互いの部屋には行かないよう、団長から命令が出ている。
余裕があるなら会ってもかまわない。しかし、理香は劇団のスターであり、恋人の存在などファンに知られていいものではない。ホテルならまだしも、部屋に泊まるなど言い訳のしようがない、と。
団長の命令を、進一が忘れていたはずはない。
進一の提案に戸惑いをおぼえながら、「ダメだよ、そんなの」とすぐに答えていた。反射的な答えで、ふかく考えた答えではない。会話の流れは、役者としての今後の生活だった。流れのままに答えたあとも、進一の考えがわからなかった。
進一はとても自然で、いつもどおりに微笑んでいた。
「冗談だよ」
と言ったあとも、進一はやさしく微笑んでいた。
進一と同居なんて、役者を辞めるのに等しい行為だ。
団長を裏切るからではなくて、問題は、まともな演技ができなくなること。それくらいの自覚はある。進一といっしょに生活したら、素で舞台に上がらないといけない。進一と付き合いはじめたときはそうだった。明るい役しかできなくなり、どの役をやっても、なにも変わらないと言われてしまう。演技力に自信があったぶん、傷ついて、傷ついたことをすぐに忘れるほど満たされていた。
それはそれで間違いなく幸せだと思う。けれど、役者として芽がではじめて、まぶしいほどの光を浴びて、栄光へと向かう道が目の前にあって、劇団のみんなからも期待されている。そして誰よりも進一が、役者としての成功を応援してくれていた。
だから、歩きたかった道を選んで、もうひとつの答えは、心の片隅に残してある。
たとえ冗談でも、あとからあとから、うれしくてたまらなかった。
団長には世話になっているから、むやみに命令を無視するつもりはない。けれどいつかは、恋人の存在ぐらいでファンが減らないように、そんな心配を団長がしないように、もっと実力をつけて名を上げて、劇団の人気も高めていきたい。
そのためにも、ひとつひとつ、公演をしっかりやらないといけない。
ちょっと声を聞いたぐらいで、舞台に集中できないようじゃダメだよね。
進一といっしょにいても演技ができるぐらいの役者魂を発揮しなきゃダメ……。
理香は身体を揺り動かして、右へ左へとプータローを振り回す。
「できるかなぁ。でも、どうしようかぁ」
しだいに勢いをつけながら激しく揺らした。ついには立ち上がり、うれしそうにため息をつく。
「ねぇ、プーちゃんはどう思う? 私はやっぱり団長が悪いと思うんだぁ。進一と普通に付き合っていたら、私だって落ち着いた女になれたと思わない? こんな遠距離恋愛みたいなことをしてるから、いつまでも出会ったときと変わらないんだと思う。……えっ、なに? 変わった? 深まってるの? この想いはどんどん深まってるの?」
理香はくるくると回り、プータローに遠心力をかける。
ピタッと華麗に止まったときには、明日のことなど忘れ去っていた。
理香はプータローをベッドに連れ込んだ。
朝になればシーツも布団も、コロコロテープで猫の毛をとらないといけなくなる。
けれど、一人ではとても、眠れそうにない。
理香はプータローを抱き寄せながら目を閉じた。
出窓に置いたアナログ時計が、淡々としたリズムで思いおこさせる。
今度はいつ会えるだろう。進一の言葉を思い出して、プータローの受難は続いた。
プータローは薄く目を開けて、蜂蜜色の瞳をのぞかせていた。
眠りに落ちた幸せそうな顔をながめて、ため息のような息をつく。
もぞもぞと動いていたが、理香のそばを離れたりはしない。
瞳を閉じて、もう一度小さく息をついた。