15 破られた約束
ニュース番組がCMに入り、進一は目線を上げた。
黒いブラウン管テレビの上で、少し斜めに立っているアナログ時計。
変わりなく、淡々と時を刻む時計をながめて、進一は満足気に息をつく。
コーヒーの香りが漂い、テーブルのうえには、ハニープリンの空容器も置かれている。砂糖をひかえたコーヒーを味わいながら、進一は思う。最高のスイーツタイムがあるとすれば、それは、理香のことを想いながら、スイーツを楽しむことかもしれない。
時計をながめて、頬が緩む。
こんな時間を過ごせるなど、朝には想像すらできなかった。
「プータローのせいだな」
ひとりつぶやいて、流されて過ごした半日を振り返る。
「まあ、プータローと、彼女のおかげか」
頭をかきながら笑いをこらえて、部屋に乗り込んできた後輩の姿を思い出した。
紙袋を抱えて、呼吸を乱して、頬を染めて、期待のこもった真剣な眼差しで、まっすぐに見てきた。すぐに一歩迫ってくると、遠慮なく靴を脱ぎだす。三毛猫がいたロングシャツには女性らしさがあったが、全体的には、汚れたスニーカーで残念なことになっていた。猫探しのときに見たスニーカー。靴を選ぶ余裕がなかったのか、選んだ結果があれなのか。
CMは終わり、スポーツニュースが流れていた。
進一は画面を見てはいたが、情報はまったく入ってこなかった。文恵のことが頭から離れない。思い返すたびにおもしろさが増していく。苦笑したり、溜め息をついたりもしたが、どれも嫌なものではない。いまとなってはなにもかも、心地よい気分にしかならなかった。
心に浮かぶ絵のなかには、もちろんプータローもいる。
進一のなかでは、文恵とプータローは一枚の絵になっていた。
プータローなくして、あの文恵はいない。また文恵がいることで、プータローも変わる。
ほんとに化け猫のような気がしてきたプータローも、文恵のまえでは大人しい。行儀よく座り、文恵にスプーンでプリンを食べさせてもらう姿など、進一にとっては信じがたい光景だった。なんだあれはと、いまはもう、笑うことしかできない。
進一はコーヒーを飲み干すと、テレビの電源を切った。
洗い物をすませて、歯を磨いて、シャワーを浴びて、明日に備えてとっとと寝よう。
「カフェインには負ける気がしねぇ、か」
八代さんに似てきたかな、と楽しげに笑う。
文恵とプータローが騒がしいのに、進一の心は平静で落ち着いていた。
空しさはなく、理香の姿もなかった。
布団に寝ころぶと、携帯電話がメールを受信した。
起き上がり、時計にちらりと視線が動いて、携帯電話をすぐに調べる。
彼女からのメール。
件名には(プーちゃん来てますか?)と表示されている。
「やってくれるなあ」
と独り言をもらして、メールの内容を確認した。
本文には今日のお礼と連絡のお願いが書かれていた。
本気でプータローが来ているとは考えていないらしい。件名に(プーちゃん来てますか?)などと書いたのは、少しは期待をしていたのか、ちょっとした冗談なのだろう。
読み終えて、やれやれと息をつく。
返信メールを出そうとして、ふっと、操作を中断した。
「というか、来ていたらどうするつもりだ? 夜中でも来るのか? いやいや、それはさすがにダメだろう。ならなんだ? 朝までプータローを帰さないようにするのか?」
ぶつぶつと独り言をいいながら、暗くなったら来ないことを伝えるべく、ポチポチと操作をはじめた。
「ほんとに、最後までやってくれる」
布団に寝ころがり、携帯電話を離して置いた。
もう彼女から連絡はないだろう。たぶん、理香のメールもない。
しばらくは舞台に集中しなきゃならない。わかっているのに、つい期待をしてしまう。
さっきは、彼女からのメールでよかった。
失望感はない。
むしろ、想定外の一文に興味をそそられた。
なんでもない広告メールだったら、きっと気分は沈んでいただろう。
別れる間際、駅の改札口で文恵は言った。
「プーちゃんが来たら、また連絡してもらえますか?」
進一の答えに、文恵は無垢な笑顔をみせる。
必ず連絡をくれると、進一を信頼している顔。プータローに会えることを確信している顔だった。現われないのであれば、なんとしてでも探し出したのかもしれない。だが進一には、文恵が安心しているように思えた。
「プーちゃんは、わたしの守護天使なんです」
と文恵は進一に語っている。
進一がパスタを噴き出しそうになるのを見て、文恵は「ほんとうですよ。悪いひとから守ってくれたりするんです」とムキになって抗議する。
「たしかに天使なんて子どもの発想ですよ。でも当時は、いい子にしていると天使が守ってくれるのよって、母親から聞かされたりしていたんで、わたしのなかでプーちゃんは天使そのものに……いや、だからなんで笑うんですか?」
進一は謝っていたが、笑いを止めることはできなかった。なにを語られようとも、文恵の膝で眠るふくよかな猫は、天使というにはあまりにもだらしなく、ふてぶてしい。化け猫なら考えられても、天使というのは無理があった。
守護天使として見ることできなかったが、それでも文恵の心情を垣間見た気はした。
駅の改札口で文恵の笑顔を見たとき、進一はふっと感じる。
プータローはずっと味方だった。
そしていまでも、自分を守ってくれている。
プータローはこれからも、ずっと一緒にいてくれる。
彼女はそんなことを考えているのではないかと、進一は思いをめぐらせていた。
布団をかぶって目を閉じて、アナログ時計の乾いた音に耳をすました。淡々としたリズムに変化はなく、理香の姿がはっきりと浮かんでくる。いつも不思議に思うのは、最後に見た舞台が、真っ先に浮かんでくることだ。舞台で輝く理香がいて、一緒にいるときの理香は、いつも遅れてやってくる。
まだしばらくは、理香に会うことなんてできないだろう。
寂しさと自己嫌悪で、実際、朝は最低の気分だった。
邪魔だけはしたくないのに、弱い自分が空しさを訴える。あらゆるものが無意味で、どこにも価値を見出せない。理香のそばにいられないのなら、どうやって生きていけばいいのだろう。理香のことを想うほどに、生きている意味がわからなくなる。
彼女は、また来るだろう。
プータローに会うために、来るなといっても来るはずだ。
きっとまた騒々しくなる。
けれど、それを期待しているのが自分でもわかる。
帰るときは、送っていかないとダメだろうな。そうしないと、こっちが心配だ。
西園寺、文恵か。
おもしろいね。
気がつくと、進一は目を開けていた。
目を開けたことすら意識しないままに、仰向けになって天井を見上げていた。
文恵のことを考えていて、考えていることに疑問符をつけて、漠然とした不安が押し寄せている。
胸騒ぎがして眠れない。
なにがこんなに不安なのか、それもわからない。
彼女はおもしろい。興味深い。柴田の気持ちがわかるほど。だから気になって考えていたはず。いや、というより、思い出すのが当然だ。今日起こった出来事は、どれも印象が強烈すぎる。
もっともな理屈で説明がついて、納得している自分がいる。だが、それでも不安は残っていて、納得していない自分が奥底にいる。不安が存在感を増していく。あのときに似ていると、高校時代の記憶が進一に訴えていた。相手のことがなんとなく気になって、つい考えてしまうことなら、以前にもあった。
進一は溜め息をついて、文恵の姿を思い浮かべる。
「……惹かれてるのか?」
口にして後悔した。
力をもった考えが、正当性を主張する。
「そうじゃない」
同じように言葉に出して、進一は惹かれているという考えを否定した。
印象が強いから、思い出すのは当然だ。それに彼女はまた来る。期待している。理香に会えない寂しさを、彼女が忘れさせてくれることを期待している。そうだ。さっきもそうだった。彼女のことを考えていれば、理香のことを考えずにすむ。
進一は、だから彼女のことを考えていたと、結論を出してみた。
それで間違ってはいないはず。しかし、理香のことを考えないようにしていたという結論は、文恵に惹かれているという考えを否定するものではない。文恵に関心があるのはたしかだが、異性としての興味なのか、単なる好奇心なのかが、はっきりとしない。一体どうすれば、惹かれているという可能性を消し去れるのか。進一は天井を睨んで考えをめぐらす。
理香を知ってから、別の女性に惹かれたことなんてないのに……。
可能性を消し去れないまま、不安は高まり心が乱れる。
なにに不安を感じているのか。
なにを恐れているのか。
考えをめぐらして、ずっと前から考えないようにしていたことを、進一は思い出した。
理香にとって、必要な存在じゃないのかもしれない。
進一は大きく息を吐いて、少しは落ち着けと自分に言いきかせた。
彼女に惹かれていると、瞬間的に意識せず気づいたのかもしれない。だが、それを恐れているのか? たとえ惹かれているのだとしても、好奇心と区別がつかない程度なら、たいしたものじゃない。理香に敵うはずもないのだから、どうなるわけでもない。一番怖いのは、理香を失うことだ。たとえ必要とされていなくても、理香をあきらめることなど、できるはずがない。
冷静になれと、天井を睨むのはやめた。
進一は目を閉じて、胸騒ぎも無視して、理香のことだけを考えるようにした。
会えない寂しさがこみあげてくる。しかし、二度と会えないわけではない。一緒にいるときのことを思い出そうとして、浮かび上がるのは、心に強く刻まれた思い出。出会った日のこと。ずっと一緒にいるのだと、心から感じたときのこと。
進一は落ち着きを取り戻していった。
胸騒ぎが静まるにつれて、なにに不安を感じていたのかを、すっと理解する。
進一は力なく笑って目を開ける。
理解はできても、納得はできない。頭の後ろで手を組んで、天井を見上げて考えるしかなった。
理香のことを考えないようにしたのは、理香を忘れようとしているからか?
進一は上半身を起こして、そうじゃない、と頭を振った。
忘れられるわけがない。
黒いブラウンテレビのうえに置かれたアナログ時計を見て、進一は確信する。
理香を忘れることなんてできない。理香のそばにいたいと、いまも心から願っている。
それなのに、空っぽになった心の一部が、理香の代わりを求めている。
心の奥底で、理香を失いそうな予感がしているから。
アナログ時計は変わりなく、淡々としたリズムで乾いた音を響かせていた。
ずっと時計をながめていた進一は、携帯電話を探す。
やがて手にした携帯電話を、そのまま手放すことはできなかった。