14 猫に癒され、時間を忘れて
文恵は飽きることなくプータローを撫でまわし、ときにはギュッと抱きしめてほろほろと涙を流す。
黒蜜プリンを一個半ほど食べたプータローは、うつらうつらと眠たそうにしていた。ことごとく眠りを邪魔されているが、それでもプータローは何もしない。されるがままにすべてを受け入れて、文恵を慰めていた。
点滅を繰り返した猫スイッチも、ついには限界をこえる。
文恵は落ち着いてプータローと触れ合えるようになり、触れ合いながら会話もできるようになった。
「いろいろと、すみません」
進一に笑いかけながら、文恵は涙をぬぐった。
涙をふいて鼻をかみ、「トイレ、お借りします」と文恵は告げる。
心にゆとりがあらわれた文恵がトイレに立って、プータローはテーブルのうえに解放される。さすがにトイレまで連れてはいかなかった。当然ではあるが、文恵のスキンシップを見つづけた進一にとって、たとえ一時でもプータローから離れるなど、憑き物がとれたような印象をうける。なぜテーブルに猫を置くのか、もはや疑問にさえ浮かばなかった。
プータローは身体を横に投げ出すと、ごろんと寝返りをうち、眠たそうな目で進一を見る。
「どうして彼女には無抵抗なんだ?」
目の前で横たわる猫に、進一は問いかける。
撫でようと近づけた進一の手は、猫パンチにはじかれた。
朝からコーヒーとプリンしか口にしていない進一は、文恵に留守番を頼んで買い物に出かけた。
プータローがいるかぎり、文恵が部屋を離れるとは思えない。遠慮する文恵に好きなパスタソースを聞いてから、進一は自転車でスーパーに向かった。食材と砂糖、特売のハニープリンを買い込み、ゆったりとペダルをこいで坂道をのぼる。
部屋に戻った進一は、変わらぬ光景を確認して「ただいま」と言った。
パスタを茹でて、パックのチーズソースをからめる。文恵にはタラコのソース。
プータローは文恵の膝で眠り込んでおり、まともな会話をしながら、ゆったりとした食事をすることができた。過去と現在におけるプータローの魅力を、文恵は落ち着きながらも語りつづける。進一は苦笑しながら話を聞いた。納得できる部分は多くなかったが、そこは受け流して話を聞いていた。猫好きの視点ではどう見えるのか、その違いがおもしろくもあった。
進一は自分好みのコーヒーを味わいながら、文恵との会話に時間を忘れた。
大きな窓から西日が射し込んで、プータローが目覚める。
文恵の邪魔もなく、プータローは畳で大きく伸びをした。冷蔵庫のほうを向いて鼻をヒクつかせたが、結局は小さい窓のほうへ歩き、窓の下で進一をまっすぐに見る。
「帰るみたい」
進一はそう言って、文恵を見る。
「プーちゃんは、やっぱり自由がいいんでしょうね」
あの頃と、変わらないな。
文恵の寂しそうなつぶやきに、進一は小さく笑った。
進一は窓を開けて、「また来いよ」と別れを告げる。
プータローは窓枠に跳び上がり、ゴトンと音を鳴らして、外の世界へ帰っていった。
「それじゃあ、わたしもそろそろ帰ります」
立ち上がっていた文恵が、「今日は本当にありがとうございました」と言いながら玄関に向かう。使い込んだスニーカーを履くと、進一にペコリと一礼をしてドアを開ける。「気をつけて」という言葉を背に受けて、文恵は部屋から去っていった。
進一は腕を組んで、しばらくドアを見ていた。
六畳間から携帯電話と財布を手にとると、玄関から部屋を出る。
ゆっくり歩いてアパートから出ると、周囲に気を配りながら坂道を下っていく。駅が見える場所までは直線に近い一本道。誰であろうと迷うはずはなく、沈んでいく太陽を望みながら駅に向かう。チワワを連れた中年女性とすれ違い、顔見知りだったので会釈をかわした。女性の表情に違和感を覚え、すこし歩みを速めて、塀に張りつく文恵をみつけた。
「やっぱりか」
その声で進一に気づき、文恵は塀から離れた。
「ずいぶん物分かりのいいことを言うから、こっちまで感傷的な気分になったのに。しっかり後を追いかけてるじゃないか」
文恵は視線をそらしていたが、反省しているようには見えなかった。
進一があきれて溜め息をつくと、文恵は上目遣いで進一をみる。
「……逃げられちゃいました」
と、イタズラの見つかった子どもように、照れながら笑っていた。
進一は文恵とならんで歩き、駅に向かう。
「連れて帰ろうとか考えたわけじゃありませんよ。ちょっと、プーちゃんはどこに行くのかなあって、気になっただけですから」
「で、どこまで追いかけるつもりだった? さっき塀の上に登ろうとしてなかったか?」
文恵は目を合わそうとせずに、「大丈夫ですよ」と言い張った。
人間の通る場所じゃない猫道でさえチャレンジする文恵。もしもプータローが他人の家に上がり込んだら。もしも雑木林のなかへ入っていったら。もしも信号などないところで車道を横断しようとしたら。
考えるだけで不安になる。
落ち着かない気持ちになって部屋を出たが、はっきりと危険性を知ってしまった。プータローに逃げられたとはいえ、偶然見つける可能性も、見つけだす可能性すらある。止めたほうがいいと言っても、止めるわけがない。精神の安定を保つためには、文恵を駅まで送るしかないだろう。
進一はあきらめて、溜め息をついた。




