12 進一と二つの約束
二度寝から目覚めると、ゴトンという音が聞こえた。
きっと空耳だ。そんな考えが頭をよぎったが、なにやらガーガーと音がする。脳裏に浮かんだプータローは、爪で網戸を引っかいていた。
進一は起き上がり、窓を開けてやる。
「なかなか来ないと思ったら、朝から不意打ちときたか」
気だるそうな半眼で、蜂蜜色の瞳が進一をみる。それで挨拶は終わったらしく、プータローは何の遠慮もなく部屋に入り、当然のごとく布団に居座った。
洗顔をすませ、湯を沸かしていると、布団からプータローが直視してくる。進一はイワシの煮付け缶を選ぶと、炊飯器のなかを確認した。
イワシ煮混ぜご飯をつくってプータローに差し出し、カップに熱湯をそそいでインスタントコーヒーをつくる。砂糖は切らしている。忘れていた。しかたなくブラックコーヒーをすすりながら、猫飯を喰らうプータローをながめた。「よく食うな」と感想がもれて、直後にプータローから睨まれた。
視線をそらすと、携帯電話が視界にはいった。
手にとって、理香からのメールをもう一度見ておく。
今日も理香には会えない。いつになったら会えるのか、それもわからない。
ため息を漏らして、苦いコーヒーをすすった。
(追加公演決定!!!!)
件名だけで、理香の喜ぶ姿が想像できた。
よその劇団によるものらしいが、活躍の機会が増えたことは喜ばしい。理香の評判が高まれば、所属している劇団も得をするはずだ。あの人は、なんでもやる。自力公演を数多くこなしたうえに、積極的に他の劇団と交流をもっている。役者を育てるためなら、なんだってやるとあの人は言った。
理香のやつと、距離をおいちゃくれないかい?
普段はいい加減に見えるのに、あの時だけは真面目な顔をしていた。
「君のおかげで、理香は一気に開花したと思う。けど、今度は君が邪魔になると思ってる」
あの人の言葉を鵜呑みにしたわけじゃない。役者の真顔なんて、信じるものじゃない。けれど、役者であることに集中させたい、そこだけは意見が一致した。できるだけ、こちらからは連絡しないようにと、約束した。
理香は役者として成長している。
あの人の言ったことは正しいのかもしれない。
長年にわたって役者をつづけて、劇団を立ち上げた人だ。どれだけいい加減に見えても、ただの小さいオッサンじゃない。
進一は受信ボックスを閉じようとして、文恵のメールを見つけた。
コーヒーをすすって、ようやく文恵との約束を思い出す。
「写真、送らないとな」
携帯電話のレンズを向けると、プータローはカメラ目線だ。カシャリと写せば、蜂蜜色の瞳が美しい。何枚か撮って、長い尻尾やキャラメル色のふくよかな身体など、特徴をバッチリおさえたベストショットを選び出す。
どの写真もカメラ目線だと気づき、被写体を見る。プータローは視線をそらして、皿をなめ回した。
写真を添えて、文恵にメールを送る。
食事を終えたプータローは、布団で丸くなっていた。
「プリンはないぞ」と声をかけたが、動く気配はない。
こいつ、帰る気ないな。居座るのか? プリンを買ってくるまで居座るつもりなのか?
心配してもしかたなく、進一はコーヒーを飲み干してカップを洗った。
携帯電話が震えて鳴り響く。
文恵からのメールだと予想はついた。携帯電話を手にとって、メールを確認をする。
(いまから行きます)
文章はシンプルであり、読み違いはないが、意味を読み取るには時間がかかった。
いまから部屋に来る。プータローに会いに、ここに来る。
どうやって? 彼女はこの場所を知らないはずだ。勘か? 直感だけで来るのか?
考えがまとまらないうちに、携帯電話が着信を知らせる。
液晶画面には西園寺文恵と表示されていた。電話に出ると、やけに大きな文恵の声が聞こえる。何を言っているのか聞き取りづらい。何度となく聞きなおして、ようやく住所を尋ねていることがわかった。