10 進一と文恵の猫談義
ジェームス発見の電話報告を、なんとか終えて、急いで飼い主のもとへ向かった。
依頼者である安藤夫人の自宅に着くまで、ジェームスは大人しく文恵に抱かれている。
鉄門を乗りこえるときだけ、進一も抱えた。攻撃されはしないかという不安は杞憂に終わる。安心もした。猫そのものと相性が悪いわけではないらしい。プータローが別格なのだろう。もう少し猫の感触を楽しみたいとも思ったが、文恵が疲れたそぶりを見せることなく独占していた。
狂喜、そして号泣する安藤夫人は、帰還したジェームスをひとしきり抱きしめ、チーズをちらしたジューシーなキャットフードを与えた。がっついて食べる愛猫を見守りながら、ともに涙を流している文恵の手をつかみ、感謝と賛辞の言葉を洪水のごとく流し浴びせ、ときにその飛沫を進一にふりまいた。いつしか話題はかのお寺に向かい、罵詈雑言が飛び交う。進一は「まあ、お寺にはお寺の事情があるのでしょう」などということは一切口に出さずに、香り高い紅茶をちびちび飲んで過ごした。
夫人は最後まで進一を黙らせている。
交通費といって渡された封筒のなかには、それぞれ一万円札が一枚ずつ入っていた。
「ほんとうは御寿司を頼もうかと思ったのよ。でもねぇ、若い子たちはピザのほうがいいかもしれないとか、悩みだしたらどうにもならなかったの。だから、これでおいしいものでも食べてね」
夫人はふたりに何も言わせず、交通費を受けとらせた。
依頼者の自宅をでたときには、午後一時をまわっていた。
「なんだろう、どっと疲れた」
エネルギーを奪われたような気がする。腹も減っていた。
「なにか食べていきましょうか?」
文恵も空腹感はあるらしく、提案を断る理由もない。
ふたりは目についたファミリーレストランで猫探しの成功を祝うことにした。
臨時収入があり、財布の相談も容易い。プチ贅沢も可能だ。昼間だが、アルコールも許されよう。
「では、ジェームスの帰還を祝して、乾杯」
ふたりはビールジョッキを傾ける。
「大成功でしたね。こんなに早く見つけられたのは初めてです。暗くなるまで探すなんてよくあることですし、一日で見つかるとも限りません。もちろん、見つからないことだってあります」
文恵は見事に杯を乾かして、勢いよく語った。
「あの直観力をもってしてもそうなのか。でもまあ、柴田が欲しがるのはよくわかる。未知との遭遇に利用したいんだろう。超能力そのものにも興味があるからな」
「本人もそんなことを言ってました。ですから、何回か猫探しを手伝ってはくれたんですけど……」
文恵はジョッキを両手でつかみながら小さくなり、上目遣いで進一をみた。
早紀も手伝った前回の猫探しでは、トラブルが起きた。
感覚を研ぎ澄ませていった文恵の決断により、依頼者の隣人宅へと踏み込んだのだ。
家捜しをさせてほしいと頼んだが断られ、窓を割って侵入すると言い出した文恵を、早紀が必死で止める。早紀が知るわけもなかったが、依頼者にも感じるものがあったらしい。依頼者を連れてきて事態は悪化し、近所の住民が警察を呼び、早紀を囮にして隙をついた文恵が家宅侵入をはたして、依頼者の猫を発見した。
どうやら猫を意図的に隠していた。
犯行の理由を警察にも問われて、隣人はすべてを語ることになった。
文恵たちにもいろいろ問題はあっただろう。しかし、事態が不倫スキャンダルにまで発展しては猫どころではない。「君たちは、もう帰りなさい」と困惑顔の警察官に許しをもらい、文恵たちは修羅場から逃げ帰った。
「あの時は、さすがにしんどいわ、って言われましたね。だから、すみません。早紀が今回の猫探しをパスした理由も、ほんとはわかっていたんです」
そうか、今回のやつは、まだまともだったのか。
「そうか……まあ、気にすることはないよ。理由はともかく、柴田が身代わりを求めていたのは読めていたし、タダってわけでもなかったからね。しかし、柴田のやつが抑える側にまわるとはなあ。知らないところでは、あいつも苦労をしていたのか」
「わたしも、さすがに迷惑をかけすぎたと思いまして、大自然研究会への誘いを受けたんです。そういえば夏合宿だけでも参加してほしいとか言ってましたけど、なにかあるんですか?」
「夏合宿ねえ。たぶん、ツチノコ探しのことだろうな」
進一は文恵をみる。あの直観力を知ったいま、たしかに、どうなるか興味はある。
「ツチノコって、いるんですか?」
「いてくれたらいい、とは思う」
進一もビールを半分ほど飲んだ。
「ああ、飲むなら、こっちにかまわずどんどん頼んでいいよ」
文恵はコクリとうなずき、照れながらメニューを手にとった。
捜索活動の成功とアルコールの相乗効果により、文恵の口はなめらかに語る。話題はもちろん猫であり、進一は食事をすすめながら文恵先生の講義を拝聴した。
猫は偏食に注意。キャットフードがよい。雄猫の去勢。招き猫誕生。
話題は次々と変化をとげた。
「わたしが文学部に入ったのは猫文学の研究をするためです。文人たちが語る猫を通じて猫がいかに素晴らしい存在なのかを世の中に伝えたい。なにより、間違いは正さないといけません。エドガー・アラン・ポーの『黒猫』という小説を知っていますか? 日本で黒猫が不吉な存在なものとされたのはこの作品が原因っていうじゃありませんか。まったくとんでもない誤解ですよ。あれは酒に溺れた人間が堕落してついには殺人を犯してしまう話で悪いのアルコールなんです。溺れてしまった人間なんです。黒猫はヒーローですよ。その身を挺し、隠蔽された罪を鮮やかに暴きだしたヒーローなんです」
文恵は米焼酎をグイッとあおった。
そうなのか。よくわからないけれど、きっとそうなんだろう。
進一はうなずきながらチーズハンバーグを噛みしめて、子どものようにはしゃぐ文恵を観察した。
いつもと違い、無邪気に明るい。
これがいわゆる、猫スイッチの入った状態か。
進一は早紀が口にした言葉を思い出し、紙ナプキンで口もとを隠した。
食事はすすみ、進一はバニラアイスも食べ終える。文恵も空腹は満たされただろう。飲み足りない雰囲気はあったが、ここは居酒屋ではない。
「そろそろラストオーダーにしようか。話の続きは、また次回ということで」
文恵は「そうですね」と素直に応じて、梅酒を飲みながらメニューをながめた。しばらくは楽しそうに笑っていたが、その無邪気な笑みはとつぜん固まる。頬はいっそう朱に染まり、文恵は隠れるように下を向いた。
「いやいや、じつにおもしろい」
こらえきれずに、進一は笑った。
進一はホットコーヒーを注文し、文恵も同じものオーダーした。
文恵は砂糖を入れなかったが、スプーンをまわしてコーヒーに渦をつくる。
「猫の話ばっかり、ほんとにすみません。わたし、昔からこうなんです。猫のことになると我を忘れてしまって……。どうしても周りから浮いてしまうので、小学生のころはいじめにも会いましたね。先生からも猫娘なんて呼ばれたりして、野良猫をイジメていた男の子を角材でおもいっきり撲ったりもして、まあそれでいじめは終わりましたけど……」
文恵は、くるりくるりとスプーンをまわした。
進一はコーヒーに口をつけて、自分も砂糖を入れていないことに気づく。
「まあ、いいんじゃないかな。いろいろと大変みたいだけど、猫が好きなのは悪いことじゃない。安藤さんとか、似たような人もいるわけだし、変貌するところはおもしろくもある」
進一はコーヒーに砂糖をおとした。
文恵もようやくコーヒーに口をつける。砂糖の有無は関係ないらしい。ブラックのまま、さらにコーヒーを口に運んだ。
「けど、それだけ猫を溺愛するようになったのは、はじめての猫だったプーちゃんの影響が大きいわけだ。そっちのプータローは、そんなに可愛かった?」
「それはもう。あんなにかわいい猫もめずらしいと思います」
「こっちのプータローとはずいぶん違うな」
「姿形は似ていても、性格は違うんでしょうね」
コーヒーに渦をつくりながら、進一は頬をゆるめた。
ふっと部室でのやりとりを思い出して、おもわず苦笑する。
プータローの特徴については、はじめて会ったときに話している。似ていることがわかると、早紀が一番興奮していた。「同じ猫であるわけがない」、そう主張する進一と文恵に、「猫又かもしれへん」と、早紀はプータロー化け猫説を主張した。
化け猫ってのは、プリンを狙うものなのか?
進一の問いかけに、「変種ですよ、変種」と早紀は答える。こたえてはいたが、さすがに無理があるらしいと表情は語っていた。
猫又って、人間を襲うんでしょ? 変種だとハニートーストを食べるの?
文恵の問いかけには、「夢がないなぁ」と返している。
同じことを思い出したのか、文恵も苦笑していた。
しかし、その表情は揺らぐ。
「そういえば、父はプーちゃんのこと、こんな図々しい生き物がいるのかって、唸っていたような気が……」
進一はコーヒーを口にしたが、さほど味わうことなく飲み込んだ。
猫を溺愛している人間は、猫のいかなる行動も美化しているのではないか。ましてや過去の初猫など、不都合な真実は記憶から消し去っているのかもしれない。
「性格も、そっくりってことはないよね?」
「母もかわいがっていましたし、性格は良かったはずですよ。でも、父は、そうですね。台風みたいなやつだ、とか、言っていたような……」
進一はコーヒーカップを口もとから遠ざけて、テーブルに置いた。
「身体の特徴は似ているんだよね? 瞳の色とか」
「ええ。尻尾の長いところとか、ちょっとたるんでいるところとか。うっすら縞模様もあるんですよね?」
「ああ、あったね。茶トラの混じった雑種かと思った」
進一はコーヒーにクリープを注ぎ、「毛の色はこんな感じ」とキャラメル色に染めた。
「やっぱり似てますね。背中はこんな色で、お腹のほうは少し白かったはずです」
はっきり答える文恵に、「よく覚えているね」と進一は返した。
好きでしたから。
すこし視線を落としながら、文恵は微笑んだ。
ふたりは静かにコーヒーを運ぶ。
沈黙のあと、
「本当に、同じ猫だったりしてね」
と進一が言った。
文恵は上目遣いで進一をみる。
「十年以上前の、実家での話ですから、それはないと思いますけど」
「けど?」
「会ってみたい、とは思います」
文恵は告げると、コーヒーに視線を落とした。
進一も、キャラメル色のコーヒーに視線を落とす。
「あの猫を連れて歩くのは無理だな。部屋に来てもらってもいいけど、プータローがいつ来るのかわからないしね。家にいるときを計ったように現れて、たいがいは、喰ったらすぐに出ていくから」
進一はカップを運ぶ。
キャラメル色のコーヒーは甘ったるく、すでに熱くはなかった。
「写真だけでも持ってこようか。携帯電話の写真だけど」
「そうですね。ぜひ、お願いします。じゃあ、あの、写真がとれたら、送信してもらえれば」
それもそうだと、お互いのメールアドレスを交換した。
「写真だけなら簡単だ。連日やってくることもあるから、早ければ、今日の夕食時にでも送れる」
進一はそういって、一気にコーヒーを飲み干した。
ふたりはファミレスを出て、電車のなかで別れを告げる。
進一の予想は外れた。
それから一週間、プータローは姿をみせなかった。