9 進一と文恵の猫探し
午前九時、十分前には二人とも集合場所にいた。
これまで大人しく地味な印象しかない文恵だったが、今日は違う。ジーンズにスニーカー、薄手のジャージといった活動的な服装をしており、ツヤのある黒髪をうしろで束ねて、整った顔が正面を見据えている。その眼差しは力強く、ポシェットを彩るトラ猫さえ、虎のように睨んでいる気がした。
文恵は挨拶もそこそこに歩きだすと、「さあ、いきましょう」と頼もしい言葉を発した。
なかなか、おもしろい。
進一は笑いをこらえながら、リーダーシップを発揮した文恵のあとに従った。
依頼者の安藤夫人宅で、失踪したシャム猫ジェームスの話を聞く。
「今日で三日目になるの」という涙ながらの訴えに文恵はもらい泣き、進一は何ひとつ口をはさむことが出来ないまま、黙って立ち続けることになる。猫仲間による玄関先の会話は長々とつづき、三十分後、失踪猫ジェームスの写真を預かり、ようやく捜索活動を開始した。
まずは自宅付近を捜索するとのこと。
地図を見ながら、文恵が指示を出す。
「ではとりあえず、この道路沿いを探しましょう。佐山さんはあちらの壁に沿って進んでください。陰になったところや溝のほうもしっかりとお願いします」
了解、と言った進一だったが、ふっと思いたち聞いてみる。
「猫探しをするうえで大事なことって、なにかある?」
文恵はすこし腫れた目をこちらに向ける。
微笑みを浮かべてコクリとうなずき、すべてを慈しむような優しい笑みで進一に言った。
「勘と、執念です」
ゆったりとした口調は愛に満ちていたが、なんとなく、ゾッとした。
捜索活動は、実りなく一時間を過ぎた。
道路の反対側では、文恵が側溝に頭を突っ込んでいる。心地よい陽射しを浴びて、溝からは臭気が漂っていた。進一も顔を突っこみ、何度となくむせている。ときには通り過ぎる人々の視線が突き刺さり、精神的にもなかなかハードな作業だった。
おそらく、彼女は臭気や視線など気にもとめていない。
ものすごい集中力だと感心しながら、進一は地道に捜索をつづけた。
大きな通りにぶつかると、文恵は地図を取り出して捜索場所の変更を決める。
「そんなに遠くじゃあ、ないと思います」
文恵は地図をぼんやりと眺めながら、このあたりかなぁと指でなぞる。
なにやら池のようなものがあると思えば、大きな寺の敷地内だった。依頼者の自宅から百メートルほど北に位置している。
進一に反対する意思はなく、ふたりはお寺をめざした。
壁の隙間などは一応チェックしながら、参拝道の入り口まで来て足を止めた。
『ハトや猫にエサやり禁止』と看板が立っている。
由緒あるお寺のようで、敷地は広く木々も多い。猫の隠れそうな場所などいくらでもありうる。
「野良猫が、いるんだろうな」
と進一はつぶやく。
文恵は、つま先でちょこんと看板を蹴った。
「参拝料がいるみたいですし、敷地内は後回しにしましょう」
口調に変化はないが、文恵が機嫌を損ねているのは進一にもわかった。その気持ちも、理解はできる。
「じゃあ、ぐるっと回ってみようか」
進一は同意して、少しうつむいている文恵とならんだ。
ふたりは塀に沿って歩くことにした。
このあたりにはいないと見切りをつけているのか、文恵は見回す程度で歩いている。
お寺の周囲は二キロほどあった。途中には生垣があり、竹やぶもあり、池に流れ込む小川と橋もある。猫にも三匹出会った。野良猫たちは、ふたりに気づくとすぐに身を隠す。
「あらためて、プータローのふてぶてしさを実感するな」
「プーちゃん、また来たんですか?」
「プーちゃんね。昨日も来たよ、夕食中に」
そうですか、と文恵はつぶやき、進一よりも一歩前にすすんだ。
「うらやましいです。わたしのマンションなんて、ペット禁止なんですよ。猫の訪れる部屋なんて、最高じゃないですか」
前を向いたまま、文恵はそう言った。
大学を選ぶとき、一人暮らしをすることを許されても、ペットと住める部屋は反対されたという。
「父親と母親の両方から、絶対にダメだと大反対されちゃいました」
なんとなく、わかる気もするなぁ。
進一が感想を口に出すと、振り返った文恵に恨めしそうな目で見られた。
「まあ、うちのアパートは適当だからね。大家さんの飼い犬も、ほとんどアパートの住人が世話をしていた感じだったし。野良猫がやって来るような、オーラかなんかが出てるんだろうなぁ」
進一は独り言のように語り、文恵のあとをついて歩いた。
しばらく歩くと、文恵の歩き方が慎重になってきた。ゆっくりと、なにかを確かめるように進んでゆく。塀の向こう側には木々が茂っていた。いかにも潜んでいるような雰囲気があり、進一も、気にすれば気になる。
塀が途切れて、格子状の鉄門があらわれた。
池が見える。
参拝道の反対側に位置するらしい。
鉄門には鎖が巻かれ、南京錠で施錠されて、『関係者以外立ち入り禁止』と大きな札が貼られている。
「行きましょう」
文恵はさらりと言った。
たしかに登って越えられない高さではない。
が、そこは問題ではない。進一は念のために、万が一のために確認をとる。
「それは、不法侵入だよね。見事なまでに」
文恵は「たぶん、ぎりぎりでセーフです」と根拠のないことを言って、足をかける位置を探していた。
やはり、真っ当ではないことを自覚はしている。理解したうえで乗り越えるつもりだ。
おもしろい、と進一は笑う。
止められないことはわかっていた。猫に対する執念をまえに、法律順守の精神など無きに等しい。あたりに人はおらず、もしも見つかったとしても、自分たちは失踪した猫を探しているにすぎない。しかし、それでも進一の良心は聞かずにはいられない。
「ジェームスがいるとは限らないだろ?」
文恵は振り向いて進一をみる。
意外そうな顔をしていたが、すぐにニッコリと笑った。
「大丈夫ですよ。わたしの勘は、そのあたりにいる動物霊より当たりますから」
文恵はかるく言ってのけたあと、ふたたび鉄門に足場をさがした。
進一が何の反応もとれないうちに、文恵は鉄門のうえに立っていた。向こう側に降り立ち、あたりを警戒してしまった進一を忘れて、さっさと奥へと進んでゆく。
我にかえった進一は、頭をかきながら苦笑した。
してやられた気分だったが、なかなかおもしろい。進一はすぐに文恵を追いかけて、不法侵入をはたした。
ざっと見回す。
文恵は下草を踏み分けて木々の間をすすんでいた。
進一が近くまで寄っていくと、文恵が手をあげて止める。その理由は、すぐに察した。忘れかけていた目的を見つけて、ほんとにいたよと、心のなかで感嘆の声をあげる。
文恵はポシェットからスライスチーズを取り出した。包装をはがして、目の前にいるシャム猫にちらつかせる。お腹を空かせていたのか、よほどの好物なのか、ジェームスは文恵の手からすんなりとチーズを食べた。
逃げそうもないので、進一は文恵のとなりまで近づいた。
「どうやら、共犯者になった価値はあるらしい」
文恵は得意気な笑みをみせると、そっとジェームスを抱きかかえた。