幕間 20B:ある公務員の、最後の記憶
夢を見ている……。
『東京の雨には匂いがない』
それが、秋の淡い日差しの中、ルーシーの手をしっかりと握りながら歩いていた時に浮かんだ最初の思考だった。
俺の街では、雨は濡れたアスファルトと錆の匂いがした。だがここでは、ただの水だ。清潔で、無機質だ。
「カイト、見て!」ルーシーの声は鈴のようだった。彼女は俺を悪趣味なショーウィンドウの方へ引っ張り、胸にハートが縫い付けられた巨大なテディベアを指差した。「可愛くない?」
「ただのクマだ。綿が詰まっただけのな。俺の電気代3ヶ月分と同じ値段だ」俺の返事は自動的で、実用的だった。だが、そこには珍しく笑みが混じっていた。普段使わない顔の筋肉が引きつるのを感じたからわかった。
彼女は俺の腕を小突いた。「もう、つまんない人! 大事なのは気持ちでしょ」
「合成繊維の塊のために借金をするという気持ちか?」俺は皮肉っぽく、しかし真面目なトーンで返した。
彼女は笑った。渋谷の雑踏のざわめきを切り裂くような、澄んだ音色。俺はその音のためにそこにいた。彼女が俺を見る時、不可解な奇跡によってその瞳に灯る光のために。
電気工事士のカイト・ヤマダ。回路は直せても、会話は直せない男。
だが彼女といれば、会話なんて必要なかった。
彼女だけが、俺と俺の『特殊な』魂を理解してくれていた。
俺たちは歩き、笑い、語らい、屋台でたこ焼きを食べ、彼女は舌を火傷した。俺は水筒を渡し、指先が触れ合った。
認めよう。ほんの些細な接触でさえ、俺の心臓を高鳴らせるには十分だった。
すべてが……あまりに普通だった。あまりに人間らしかった。
好感度ポイントを割り振るシステムもない。クエストもない。ただストリートフードの温かさと、パールグレーの空に昇る湯気、そして幸福であるという奇妙で壊れやすい感覚だけがあった。
ルーシーはいつも夢を語っていた。小さなお店を開きたいと。たぶんカフェだ。「ただコーヒーとWi-Fiのためじゃなく、人がいい気分になるために来る場所よ」
彼女の瞳は、俺が決して持ち得なかった情熱で輝いていた。
俺は頷き、電気工事なら任せろと言った。適切な照明を設置できると。それが俺の知る唯一の夢への貢献方法だった。安全で、効率的で、法規に準拠した形にすること。
「あなたはいつも実用的ね」彼女は言ったが、それは不満ではなかった。俺の実用性が貴重な欠点であるかのような、優しい観察だった。彼女は俺の手を強く握った。「だから好きなの。あなたが私を地に足つかせ(グラウンディング)てくれるから」
その瞬間、俺はそれを真実だと信じた。俺の退屈さ、皮肉、そして『機能するもの』への執着が、彼女の空想癖に対する完璧な対重なのだと。この脆く、平凡なバランスが続くと信じていた。
俺たちはベンチに座り、人の流れを眺めていた。彼女は俺の肩に頭を乗せた。髪の香りは甘く、人工的だった。それでも俺は好きだった。世界はこの一点に集約されていた。彼女の重み、呼吸のリズム、予測可能で単調で、だからこそ完璧な未来への静かな約束。
その時だった。**『声』**が聞こえたのは。
外から聞こえたのではない。音でもなかった。それは俺の記憶の中での爆縮だった。決してノイズではなかったが、意識の根底に埋もれてずっと存在していた残響。
言葉ではなかった。意思だった。削岩機のような暴力性を持って脳裏にねじ込まれるイメージ。
俺は骨と影の要塞を見た。恐怖のそれではなく、幾何学的で恐ろしいほどの秩序を持った場所を。
俺は一人の男――いや、男の影を見た。古の血で封印された契約書の玉座に座り、燃える世界を見つめている。その目は暴君のものではなく、絶望した会計士のものだった。
美しく、きらびやかで、笑顔の英雄たちが進軍してくるのを見た。正義のためではなく、見えない脚本がそう命じたからだ。
その影の男が疲れた手を挙げると、現実の構造が従った。魔法だからではない。彼がその最も親密な条項を知り尽くしていたからだ。
そして全ての上に、判決のようにのしかかる『声』の感情。
怒りではない。狂気ではない。絶望する権利さえ使い果たしたような、あまりに深く、古くからの疲弊。そしてその疲弊の下にある、種火。人間に対する憎しみではなく、システムに対する憎しみ。脚本に対する憎しみ。
やがて、言葉が形成された。聞いたのではない。ずっと知っていたかのように思い出したのだ。
『思い出せ』
渋谷の太陽が色褪せた。ルーシーの香りが化学的で、偽物に感じられた。寄り添う彼女の体温が、拘束のように感じられた。
『この瞬間を思い出せ。この温もりを。この平和を』
握られた彼女の手が、突然手錠のように感じられた。幸福とは、巧みに設計された罠だった。
『細部まで思い出せ。たこ焼きの容器の感触。彼女の笑い声。今、お前が自分自身に誓っている約束の虚しさを』
心臓が鷲掴みにされた。恐怖ではなかった。見たくなかった真実を認識したのだ。幸福とは不安定なコードの羅列だ。愛とはリソースを食いすぎ、最初のバグでクラッシュするサブルーチンだ。
『使え。このイメージを使え。記憶の氷の中に閉じ込めろ。なぜなら、それが燃料になるからだ』
『声』は高まらなかった。深まった。宇宙そのものが崩壊する振動のようになった。
『お前の公務員的な静けさの下でくすぶっている憎しみ……それを消すな。それは彼女のためではない。2週間後にお前の上司のオフィスで彼女と寝る金髪の男のためでもない。これら全てを不可避にした機械のためのものだ。英雄が勝たねばならず、凡人が負けねばならないと定めた機械。愛は権利ではなく賞品であり、お前の論理、秩序、壊れたものを直そうとする執着は……修正されるべき欠陥であるとする機械のためのものだ』
ルーシーが身じろぎし、顔を上げた。「カイト? すごく変な顔してる。大丈夫?」
俺は答えられなかった。『声』はまだ終わっていなかった。
『愛は贅沢品だ。最も高価なな。それは私の贅沢だった。私はこの世界を愛しすぎた。完璧で、論理的で、公正なものにしたかった。だから奴らは私を怪物にした。私の世界への愛を利用して、世界に私を憎ませたのだ』
脳裏に、影の男――アルドマックスが見えた。彼が作り上げた論理的な創造物が、『善』を叫ぶ群衆によって解体されていく様を見つめている。その眼差しに怒りはなかった。あったのは、最も優秀な生徒がカンニングをしたのを知った教師の、無限の失望だった。
『今度はお前の番だ。私の勇敢で、無色で、素晴らしい後継者よ。お前は英雄ではない。お前は修正だ。生産ラインが狂った後に工場に戻ってきた品質管理だ』
『声』は最後の囁きとなり、ブラックホールのような重みを帯びた。
『この幸福な瞬間を記憶しろ。そして埋葬しろ。泣くためではなく、軽蔑の較正を行うために使え。運命の障壁を砕く時、脚本を破壊し、この血塗られた茶番劇から全員を解放する時……奴らが何を守ろうとしているのか、そして結局のところ、それにどれほどの価値しかないのかを、正確に知るためにな』
『声』が引いていった。
俺はベンチに戻っていた。渋谷の喧騒が耳をつんざく。ルーシーが心配そうに俺の腕を揺すっていた。
「カイト! 気を失ってたの? 帰りましょう、顔色がひどいわ」
俺は彼女を見た。そこにはまだ、俺の愛した女性がいた。
だが今、彼女のイメージに重なって、ソースコードの亡霊のような痕跡が見えた。隠されたタグが見えた。
<Love_Interest>(恋愛対象)
<Motivation>(動機付け)
<Future_Betrayal_Plot_Flag=TRUE>(将来の裏切りプロットフラグ=真)
俺は彼女に微笑んだ。人生で最も困難な微笑みだった。部署の閉鎖通知を受け取った公務員の微笑みだ。
「大丈夫だ」俺は言った。声は平坦で、完璧だった。「ちょっと目眩がしただけだ。帰ろう」
俺たちは一緒に築き上げた家へと歩き、俺は彼女に愛していると告げた。それらはすべて、既に読んだ脚本の台詞のように感じられ、その悲劇的な結末を俺は知っていた。
その夜、俺は泣かなかった。怒りもしなかった。
スプレッドシートを開いた。カタログ化を始めた。
彼女の笑顔の記憶:圧縮された15メガバイトの苦痛。
彼女の笑い声:動機付けとして使用するための.wavファイル。
彼女の手の感触:/memories/fuel(燃料)の下にアーカイブされる感覚データ。
俺は狂ったわけではない。最適化しているのだ。
『声』は正しかった。愛は贅沢品だ。そして俺、カイトは常に実用的な男だった。贅沢品が買えないなら、もっと効率的なもので代用するしかない。もっと耐久性のあるもので。
憎しみのように。
プロジェクトのように。
俺は横になり、暗い天井を見つめた。胸にはルーシーの頭が乗っている。新しい人生のシステムはまだ起動していない。ネクロマンシーも異世界も何も知らない。
ただ一つだけ知っていた。
誰かが、どこかで、俺が敗北する脚本を書いたのだ。ルーシーが俺を裏切り、俺の『普通さ』が俺への有罪判決となる脚本を。
そして人生で初めて、ルールに従うこと、割り当てられた役割を受け入れることへの考えが、死よりも強い嫌悪感で俺を満たした。
俺は目を閉じた。眠った。
次に目を開けた時、俺はモルデカイだった。
そして、やるべき仕事があった。




