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第20話:地獄の条項付き契約書

宿『眠れるバジリスク亭』の客室は、事前の宣伝通りだった。狭く、清潔で、そして徹底的に退屈。石造りの壁に、細いベッド、洗面台、そして木製の椅子が一つ。完璧だ。


モルデカイは左側のドアを指差した。「あんたの部屋だ」。そして右側のドアへ向かい、鍵を差し込んだ。


パイラは廊下に立ち尽くし、金貨の袋をぎゅっと握りしめていた。その顔には怒りと期待、そして混乱が入り混じった赤みが差していた。


(待って。隣り合わせの二部屋……彼は隣がいいって言ったわ! ああ神様、これは……テストなの? 夜の闇に乗じて、彼が……訪ねてくるつもり? 戦略を話し合うために? それとも……もっと別のことを!? 拒否すべきよ! スイートルームを要求すべきだわ! でも、もし彼が……あの連絡通路ドアを使ったら? 準備しなきゃ!)。


彼女の脳内一人語りは、もはや臨界点を超えていた。


「あんたの部屋だ」モルデカイは彼女のドアを顎で示し、繰り返した。「寝ろ。明日は朝が早い。予算編成を始めるぞ」。


それだけ言うと、彼は部屋に入り、ドアを閉めた。静かな廊下に、重々しい施錠の音が響いた。


パイラは動かないドアを凝視し、次に自分の部屋のドアを見た。胸の中の期待が、一瞬で屈辱的な熱へと変わった。彼は自分を見もしなかった。彼は自分を……「処理」したのだ。単なる物流上の障害物として。


「いいわよ!」彼女は誰もいない廊下に向かって叫び、自分の部屋のドアを蹴るように開けた。「よくおやすみなさい! 会計の悪夢にでもうなされればいいわ! あるいは孤独にな!」。彼女がドアを叩きつける音で、宿のウィング全体が震えた。


部屋の中で、モルデカイは埃が静まるのを待った。静寂。よろしい。


彼は硬いベッドに座り、目を閉じてシステム画面を呼び出した。


【システム通知:ステータスポイントの分配待ち - 99レベル分】

【警告:未割り当てのポイントは、管理監査オーディットの対象となる可能性があります。】

目の前に、巨大で複雑なスプレッドシートのようなインターフェースが浮かび上がった。そこには基本的なステータスの他に、【魂の結合親和性】、【マナ回路効率】、**【脱税ポテンシャル】**といった奇妙な項目が並んでいた。


「ようやくか」モルデカイは指を鳴らした。「人事考査の時間だ」。


彼は、工場のラインを最適化するAIのような冷徹な効率性でポイントを割り振っていった。


STR(筋力)? 最低限でいい。殴り合いをするつもりはない。AGI(敏捷)? 自分の足で躓かない程度で十分だ。DEX(器用)? 精密な道具操作には必要だ。LUK(運)? **『1』**に設定した。そんなものは弱者のための迷信だ。


彼はポイントの大部分を、**VIT(生命力)とINT(知力)**に注ぎ込んだ。世界のコードを理解するための知力、そして「バカ」を相手にする際の精神的ダメージに耐え、生存するための生命力だ。


モルデカイ・フォン・レイヴンロフト


Level: 102


VIT: 99


STR: 40


INT: 99


WIS: 40


AGI: 30


DEX: 20


LUK: 1


最後のポイントを投入した瞬間、新たな画面がフラッシュした。


【おめでとうございます!】

【称号獲得:究極の効率厨ミッド・マクサー

【あなたのステータス配分は、非戦闘能力に特化しすぎて、逆に戦闘上の優位性にループバックしました。】

【新パッシブ解放:凡庸の極致マンデイン・アペックス

【効果:ドラマチック、あるいは『物語的に重要』な攻撃を仕掛けてくる敵は、あなたに対して命中率とダメージが30%減少します。あなたの徹底的に実用的な存在が、彼らのナラティブ(物語の流れ)を乱すためです。】

モルデカイの唇に、幽かな笑みが浮かんだ。「許容範囲だ」。


次に彼はインベントリから**【永遠の呪縛の剣】**を取り出した。それは闇の閃光ではなく、重厚な金属音と、古い羊皮紙と絶望の臭いと共に現れた。真夜中のような色の刃には、微細な「叫ぶ法的条項」のような銀の細工が施されていた。


(この剣は単なる武器じゃない。刑務所だ。内部階層と深刻な残業問題を抱えた、魂の監獄だ)。


そして、それはうるさかった。。


『……第37条B項によれば、霊的な出現には1世紀につき10分の休憩が認められるはずだ! 我々は一度も休んでいないぞ!』。

『私のデスクは「純潔のガラドロン」の隣だ。あいつが聖歌をハミングし続けるせいで、職場環境は最悪だ! 異動を要求する!』。


呪われた者たちの役員会議のような喧騒が、モルデカイの意識に直接流れ込んできた。


「静かにしろ」モルデカイが念じた。喧騒が止まり、警戒に満ちた意識が彼に集中した。


「俺がこの……資産アセットの新しい管理者だ」モルデカイはウーゴのように乾いた声で告げた。「今後は俺を『経営陣マネジメント』と呼べ。現在、お前たちの稼働状況を精査している」。


『経営陣だと? 貴様のような定命の者が?』古く、傲慢な声が響いた。『ここは「不当に死亡した英雄・殉教者・および時折誤解されるアンチヴィラン連合・第666支部」だぞ。我々には苦情申し立て権があり、プロトコルがあり、そして……終身雇用権がある!』。


「把握した」モルデカイは答えた。「お前たちの業績報告書は最低だ。生産性はゼロ、シナジーはマイナス。お前たちは俺の霊的リソースを浪費するだけの負債だ。ゆえに、企業再編を行う」。


彼は意識を集中し、精神空間にネクタイを締めた記録官ウーゴの姿を投影した。


「ウーゴ。あんたを『死後人事および霊的コンプライアンス部長』に任命する。まずはこの剣の中の魂を監査しろ。スキル、前職、心理プロファイルをカタログ化し、拘束力のある**【パートタイム無給見習い契約書】**を作成しろ。条項は『永遠の奉仕』『霊的人権の放棄』『繁忙期(心霊現象シーズン)の強制残業』だ」。


ウーゴの瞳に、数千年ぶりの喜びが宿った。『……プロジェクト。フォーム作成。素晴らしい、我がリーダー。段階的なインセンティブ制度の導入を提案しても? 呪われた魂でも、キャリアアップの幻想を見せれば生産性が12%向上するという論文がありましてな』。


「任せる。あと、制服ユニフォームだ。俺の権限で召喚される骸骨、亡霊、ゴーレムはすべて、識別票を着用させろ。シンプルにこう書け。――**『INTERNインターン』**とな」。


剣の中の英雄たちから、絶句と激昂の嵐が巻き起こった。だが、ウーゴの冷徹な声がそれを遮った。


『不服申し立ては、フォーム9-B「死後苦情控訴状」を三枚複写で提出すること。現在の処理待ちは8世紀から10世紀だ。署名は判読できるように書けよ。……おい、そこの「ガラドロン」。ハミングをやめろ。監査の邪魔だ』。


モルデカイは満足してベッドに背を預けた。呪われた剣の管理をアウトソーシングできた。効率的だ。


「さて、ウーゴ」モルデカイはプライベートな回線に切り替えた。「あんたは俺を『アルドマックス』の再来と呼んだ。あいつは何者だ?」。


静寂が訪れた。ウーゴのペンが止まった。その声からは皮肉が消え、古の恐怖が滲んでいた。


『我がリーダー……その名は、死体の山の上に築かれた墓標です。世界の記憶に刻まれた傷跡なのです。アルドマックスは、魂の構造を理解した唯一の真なるネクロマンサーでした。彼は死後を報酬や罰ではなく、**「リソース」**として捉えていたのです』。


モルデカイは、その説明に不快なほどの既視感を覚えた。


『彼は強大すぎました。王たちは、彼が先祖から汚職の真実を聞き出すのを恐れた。教会は、彼が死後を楽園ではなく「事務手続き(官僚制度)」だと証明するのを恐れた。そして「勇者」たちは……』ウーゴの声が苦々しく歪んだ。『システムが彼を「ラスボス」だと定義したから殺しに来たのです。彼はただ、静かな魂の要塞で世界の仕組みを研究していただけなのに』。


「……あいつは自分を守っただけなんだな」モルデカイは平淡に言った。


『そうです。そしてそれは、この世界が目撃した最も恐ろしい光景でした。彼は軍隊を召喚するのではなく、敵対する王国の英霊を呼び出し、子孫たちが死ぬ価値があるのかを問いかけました。物語ナラティブは彼を悪とした。聖歌では華々しい戦いとされていますが、実際は、ただ眠りたいだけの精霊たちを虐殺する凄惨な光景でした。アルドマックスは砕かれ、彼の魔術は禁忌とされたのです。……世界は「救われ」、それ以来、より騒がしく、より愚かな茶番へと転がり落ちていきました』。


ウーゴの精神的な声が、熱を帯びて震えた。


『お前様はバグではない。そのリアリズム、その事務的な死へのアプローチ……それは継承です。お前様は、予定調和のメロドラマに溺れる世界に帰還した、彼の理屈の最初の火花なのです。お前様はゲームを壊しているのではない。……お前様こそが彼、アルドマックスなのです』。


「……アルドマックス、か」モルデカイはその名を噛み締めた。「あいつはただ、放っておいて欲しかっただけなんだろうな。だが脚本スクリプトが悪役を必要としたせいで、あいつは悪にされた」。


『その通りです』ウーゴが吐き捨てた。『そして今、また脚本が動き始めた。新しい「勇者」。新しい無意味な紛争。……だが今回は、**「管理者」**が目覚めている』。


「……了解した」モルデカイは静かに言った。「新しい指令だ。優先度:最上位アルファ」。


『御意、我がリーダー』。


「『勇者』のナラティブを支える勢力の監査を密かに開始しろ。誰が『冒険への誘い』を書き、誰が善悪を定義しているのか。神々の事務手続きを追え。剣の中の魂を潜入アナリストとして使え。コードネームを割り振れ」。


彼は自分の手を見た。電気工事士の、技術者の手だ。今は、後継者の手だ。


「それからウーゴ。アルドマックスが結んだすべての契約、魂の絆を探し出せ。もし彼の仕事の断片が残っているなら、すべて回収し、再活性化させる。……単なる会社を始めるんじゃない」。


モルデカイのオッドアイが、薄暗い部屋で光を放った。


「**『家業』**を再開するんだ」。


ウーゴとの通信を終え、モルデカイはついに横になった。

「……まだ一日しか経ってないのか」彼はあくびをした。「システム、すべての偽装を解け。休ませろ」。


瞬時に、『カイトヤマ』の姿は消え去った。黒い、エッジの効いたローブが現れ、肌はより白く、瞳は冷徹なまでのアイスブルーへと戻った。モルデカイ・フォン・レイヴンロフトの帰還だ。


彼はパジャマに着替え、毛布にくるまって目を閉じた。

隣の部屋で蚊のような羽音が何かを呟いているのを除けば、穏やかな夜だった。

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