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山上被告の裁判と文学の長い空白期間

 安倍元首相を殺害した山上被告の裁判が始まったようだ。私はこの事件をかなり重く見ている。

 

 山上被告の事件は、日本社会の転機を現しているのかもしれない、とも考えている。大げさかもしれないが、私としてはこの事件はできる限り深刻に、自分事として考えたい。

 

 どのあたりが重要かと言うと、山上被告が限りなく悲惨な生い立ちの中で生まれ、その環境が彼をしてあのような犯行に追いやったという要素が強く感じられるからだ。

 

 この事は私は「必然」の問題として重要視している。

 

 必然とは何か、という問題を最近は考えている。私が現代社会や、現代の人々を批判するのは人々が必然を嫌い偶然を好む事と関連がある。

 

 必然というのは「そうならなければならなかった」という事だ。これはどういう事だろうか。「そうならなければならない」という事は、そこに自由意志の抵抗が見られたとしても、最後にはそれ無化されてしまうという事だ。

 

 自由意志が必然の鎖に打ち勝ち、自らの欲求を達成する物語がエンターテイメント作品の物語だ、と私は今は端的に言う事ができるだろう。それに反して、必然が自由意志を抑え込み、ついに自由の限界を露出させ、自由を屈服させるドラマ、これが芸術としての物語であり、悲劇の本質だと私は考えている。

 

 今の世の中で映画・アニメ・漫画・小説などを作る際、どのような物語を作る事も可能だと人々はぼんやり考えている。創作家は自由であり、物語をどの方向にも持っていける。そうして素晴らしい物語は歴史に残り、人々を楽しませる事ができる。ほとんどの人々はこのように考えている。

 

 こうした人々はいつの時代でもこのようなものが物語の本質だと考えている。だが、このような考えは自由を基調とする資本主義を前提とする、現代という時代に限定された考えに過ぎない。多くの人々はこの思考の枠から逃れられない。

 

 我々の社会では人間は自由で平等であり、努力次第で幸福を目指す事ができる、と信じられている。それが建前というか、そうした栄達の物語こそがこの社会の宗教であると言った方がいいだろう。

 

 この成功譚への信仰が、物語というものはどのように作るのも可能であり、必然は存在せず、存在するのは自由のみだという考えの土台となっている。だが、歴史的に人類はそんな考えを抱いてきたわけではない。


 むしろ、人類史のほとんどは現在、私達が得ているような自由を得られなかった。そこでは、自分達の自由が抹殺される理不尽な事ばかり起こってきた。自然災害、病、戦争など、様々な必然が人々を襲った。


 それ故に人々は、自分達の自由を経験的な領域の外に投げ出した。つまりそれが経験を越えた超越的なものへの崇拝、「宗教」に他ならない。

 

 ※

 山上被告の事件に戻って考えるなら、私はこの事件の「必然」に興味を抱いている。

 

 山上被告という人物は愚かな人物ではない。むしろ、私が観察した限りでは普通の人よりも賢い人間だと感じた。それでは、普通の人より賢い人間が何故あのような凶行を行ったのか。

 

 そこには「必然」の問題がある。だが、この問題は、山上被告に対する同情論で片付ける事もできないだろうし、また山上被告を「ただの犯罪者」として切り捨てる事によっても解決できはしないだろう。

 

 思い切って言ってしまえば、この問題を解決、とまではいかないまでも、正確に分析するのが可能なのは「文学」というジャンルだと私は考えている。また、だからこそ、文学についてずっと思惟してきた私はこの事件に興味を持ったのだ。

 

 文学はエンターテイメント作品とは違う。この事を少し考えてみよう。

 

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」という小説には、村上の考える彼なりの思想、というか倫理が一応は記されている。それは

 

 【踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。】

 

 というものだ。

 

 このような倫理は当時の若者に強く響いたのかもしれない。私はこのような倫理でも、こういうものを持っている作家の方が、何の思想も倫理も持たない作家より随分マシだろうと思っている。

 

 ただ、この倫理を例えば山上被告のような人物に伝えたとしたら、彼はそれを一蹴するだろう。村上の生の倫理はあくまでも資本主義の中で、それなりの快楽と倦怠感が支配する中で一定の効力を持ったに過ぎず、それ以上に深刻な社会的現実がやってきたら、通用しなくなる。

 

 村上春樹に「多崎つくる(長いので略す)」という小説がある。私はこの小説を読んで村上春樹の限界をつくづく感じたが、それは村上が、悲惨な事件によって死んだ人間に対する取り扱い方だ。

 

 作中では、レイプされ殺される女性がキーパーソンとして出てくるのだが、最終的にこの人物に関する謎は解明されず、言ってみればこの被害者の霊は一切救済されず、(ま、しゃーない)の精神で、主人公は事件をどこかのブラックボックスに放り込んで自分の幸福を求め始める。

 

 これは「カラマーゾフの兄弟」のイワンと真逆の態度だろう。イワンは「幼子を犠牲にして作られた天国があったとして、そこに入る切符を自分は返上する」と述べている。これはあるユートピアが、ある人間を犠牲にして作られた際に、その人間の血や涙を忘却する事はできない、という思想である。

 

 この問題は実際には解決不可能な問題なのだが、ドストエフスキーやトルストイといった偉大な作家はこの解決不可能な問題に真正面から取り組んだからこそ、あのように偉大な作家となった。というより、彼らは作家という枠組みをはみ出て、全世界と個人との軋轢の問題を考えたからこそ、結果としてあのように偉大な作家になった、という方が正しいだろう。

 

 それと比べると村上春樹作品の「悲惨な事があっても気にせず、自分の幸せを求めよう」という態度は非文学的で、エンターテイメント的だ。

 

 この問題を山上被告の件と絡めて考えてみよう。そもそも山上被告の悲惨な生い立ちと、そこから殺人に至らざるを得ないような人生の過程は、村上の小説のどこにも入る余地がない。


 村上の小説の主人公は常にそれなりに金があり、仕事があり、女がいて、何となく倦怠しているが満足もしているというアンニュイな存在となっている。

 

 村上が現実の悲惨な事件をみても、それをエッセンスとして、趣味として取り入れるとしても、彼がそういう問題と本格的に取り組む事はない。…いや、もしかすると村上春樹本人は本当はそういう問題と取り組もうとしているのかもしれない。オウムサリン事件に関する村上のルポルタージュはそれを示しているのかもしれない。

 

 だが、村上春樹がそうした問題と本格的に取り組み、思想的に戦う事は決してできない。

 

 これは世代的な問題と考えると、村上が横目に見ていた政治闘争に日米安保の問題があった。当時の学生はこの問題に真剣に取り組み、それは政府そのものを揺るがそうとする行為だったが、失敗に終わった。

 

 村上春樹が現れる頃にちょうどこの国からは政治的緊張が消えたのだった。日本文学は戦後文学があり、その後の大江健三郎や中上健次までは跡が辿れるが、村上春樹や村上龍に取って代わった時、文学は限りなくエンターテイメントに近いものとなった。

 

 いってみれはここ五十年くらいは文学は空白期間だった。それは、この社会から政治的緊張が消え、経済が成長して日本人は富裕になったので、自分達の全能感に酔いしれ、自分達を縛る必然を忘れた時代だった。このような時代に、人間の限界を描き出そうとする文学が低迷するのは当然だろう。

 

 私が山上被告の事件が興味深いと考えているのはそのような意味においてだ。要するに、日本社会は劣化し、経済的にも衰退している。経済格差が現れ、今や各人は自由競争の中でそれぞれの幸福を求められると綺麗事ばかり言っているわけにはいかない。

 

 もう生まれた時から、大きなハードルができており、ある人間は死ぬまでそのハードルを乗り越える事ができない。ここには明確な理不尽がある。厳しい社会的現実がある。

 

 だが、良くも悪くも、厳しい社会的現実と個人の自由(魂)が激しく戦う事によって、むしろその個人の生は意味あるものとして輝くのである。キリストやソクラテスが犯罪者であり、司馬遷が宮刑を受けた事は、彼らの存在を際立たせる一つの外的事実だった。

 

 そうした意味において、この社会は大きな必然を生みつつある。それは山上被告のような厳しい人生が量産されるという事でもある。だが、それ故にむしろ、人間の自由とは何かを問う事が可能となるだろう。

 

 というのは村上春樹が描いてきた、あるいは人々が漠然と思い描いているような自由はシステムによって認可された自由であり、本物の自由ではないからだ。本物の自由は、本物の束縛、本物の必然が生まれる時に同時に生まれる。

 

 この社会はそのような厳しい現実を生みつつある。山上被告の事件も、そうした現実の一つだろう。このような社会においては、村上春樹がスルーした問題がむしろ非常に重要なものとなってくる。それは犠牲者を無視して、自分ひとりが幸福を目指していいのか、という問題だ。

 

 仮にそれを肯定する人間がいたとして、しかしそれは恐ろしく弱い論理でしかない。というのは、彼はたまたまそれを肯定する立場に生まれたに過ぎないからだ。こうした人間には自分がいかに恵まれているのかがわからない。

 

 問題は幸福を求める事が、ただ自由であり、可能であるという話ではなくなっているという事だ。私が自由や幸福への批判を書くと、やんわりとした批判のコメントが届く事が何度かあったが、それはそうした人々にとってこの自由や幸福の可能性こそが、そうした人々を含めた、今を生きる我々の宗教の本質に他ならないからだと私は考えている。

 

 この宗教はその始まりとしては「自我」の崇拝から来ている。誰しもが自我を絶対的なものと眺め、他人を踏み台にしつつも自我を神のようなものに変化させたいと願っている。自由や幸福を求めるとは、自我が自己を絶対的に高める道筋に他ならない。

 

 この自我の通る道がエンターテイメント作品の物語なのだが、これを縛る社会的現実が現れてきている今、もう一度この自我そのものの限界について考えてみる必要があるだろう。自我は絶対的なものと自己を是認する事によって社会的に現れてくる。

 

 しかしその自我は社会との関係の中で、摩擦の中で、あまりにも平凡で相対的な存在になっていく。自我を神にしようと、人々を従えようと彼が社会に出ていく、その行為によってむしろ自我はすり減り、凡庸な存在になっていく。

 

 このような過程において自我は特別な存在ではなくなっていくのだが、しかし、現代の我々のような一人称的な思考方法では、この自我の非ー特別性を描く事は難しい。

 

 村上春樹の小説が常に一人称的であるのが象徴的だが、本当の文学はこの一人称が終わるところから始まるのではないか。私はそんな風に考えている。


 というのは、この一人称的な、村上的な自己を特別視する自我が社会の中で解体されていくのがこれからの新しい物語となるのではないかと、私は考えているからだ。



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― 新着の感想 ―
そういう軽薄な個人の現実こそが現代のリアルであるなら、それを描くことこそがアクチュアリティのある文学ですよね。 確かに近代文学の偉大さというものはありますけど、「大きな物語の時代は終わった」といわれ…
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