名前負け
春の昼下がり。
まだ薄い陽射しが縁側の奥まで届くころ、近所の小百合さんが、畑帰りの土の匂いをまとってリリ子さんの家を訪ねてきた。
庭先の沈丁花が、ほんのりと香る。
「まぁまぁ、小百合さん、あがってあがって。お茶淹れるわ」
庭に面した六畳間は、いつも通りタマが寝椅子を陣取っている。
小百合さんが来たと分かると、ぴくりと耳を動かし、青い目を細めて「にゃ」と一声。
まるで招き猫のように。
「タマちゃん、今日もお利口ねぇ」
小百合さんは笑って、持ってきた大根を縁側に置いた。
「少しだけよ。畑の帰りだから汚い恰好でごめんね」
お湯の沸く音が、台所から小さく聞こえる。
リリ子さんは急須にお湯を注ぎ、盆に乗せた湯呑みを二つ持って戻ってきた。
座布団を引き寄せ、二人は向かい合って腰を下ろす。
「こないだも思ったけどさ」
小百合さんが、湯呑みを片手にぽつりと言った。
「リリ子さん、名前負けって言うけど、それって私限定よ。リリ子さん美人だしリリ子が似合ってる」
リリ子さんは、あらと目を丸くして答える。
「あら、そうかしら」
「そうよ、今の人ってわたしたちの年代でもリリアン・ギッシュってそんなに・・・大抵の人が知らないと思うのよ。リリ子って名前を洒落ているって感じ流だけよ」と小百合さんがお湯呑みを吹きながら言う。
それを聞いてリリ子さんも
「そうね。リリ子って名前が変わってるって言われることが多かったわね。最近は若い子の反応はね。あれ?おばあさんだって感じね」と言った。
小百合さんは湯呑みを置くと、肩をすくめて笑った。
「でしょ。わたしなんて、老いも若きも知ってる名前なのよ。誰が聞いてもあの小百合だって」
二人は顔を見合わせて吹き出した。
縁側の向こうで、タマが尻尾をゆっくり揺らしている。
二人の声を、どこか面白がって聞いているかのようだ。
「わたしたち、名前負けしてるよね」
「うん、してるわ」
「名前に釣り合う生き方なんて、最初から無理よね」
「ほんと、わたしなんて家に閉じこもってばっかりだったのに、タマが戻って来たらやっと人に会おうって思えたくらいで」
笑いの中に、少しだけ滲む悔しさと、互いを慰め合うようなぬくもりがあった。
小百合さんが手のひらで湯呑みを撫でる。
畑仕事の跡が残る爪。女優のように人前に出る指ではない。
それでも、小百合という名前をもらって、ずっと名乗ってきた。
良いことも、嫌なこともあった。
「リリ子さん、うちの畑の小母さんたちがね、若い頃、言ってたのよ。『小百合ちゃんは将来女優になるんじゃないか』って。ほら、映画館でニュース見て、そう思ったんだろうけど。無理無理、カメラの前でなんか笑えないもの」
「わたしだってそうよ。子供のころ、親戚に『お前はリリアン・ギッシュらしくしろ』揶揄われた」
リリ子さんは、湯呑みを置くとタマの頭をちょんと撫でた。
タマは「にゃ」とだけ鳴いて、すぐに目を閉じる。
「結局さ、人は名前の通りには生きられないんだよね」
小百合さんがふうっと息をつくと、リリ子さんは首を傾げる。
「そうかしら?わたし思うんだけど、名前は借り物かもしれないけど、役に立つときもあるわよ」
「役に立つ?」
「うん。ほら、名前が立派だからこそ、何もないわたしをちょっとでも大きく見せてくれるでしょ? 『リリ子さん』って呼ばれるだけで、なんか元気になれるのよ」
「へぇ、そういうもの?」
「小百合さんだって、みんなあなたの名前口にするとき、ちょっと華やぐもの」
「うそばっかり」
でも、小百合さんの顔には小さな笑みが戻っていた。
縁側の外では、近所の子供たちの声がかすかに聞こえる。
遠くの畑からは、耕運機の音がうなるように響く。
リリ子さんは小さく笑いながら、タマの頭を撫でる手を止めた。
「名前負けだって言われても、いいじゃない。わたしの名前は父が夢見てつけてくれたのよ。小百合さんの名前は、ご両親がきっと綺麗な花みたいにって願ったんでしょ?」
「そうねぇ、母が言ってたわ。小さな百合の花みたいに、清らかにって。まぁ、育ってみたら泥だらけだけど」
二人はまた笑い合った。
台所の時計が、ぽん、と時を打つ。
「じゃあさ、名前負け仲間としてさ、改めて仲良くしましょう」
小百合さんが手のひらを伸ばすと、リリ子さんもそっと自分の手を重ねた。
「いいわね。わたしたち、名前負けしてるって笑い合える仲間がいるだけで、ちょっと得した気がするわ」
「じゃあ次は、畑の帰りにまた寄るわ。タマちゃんにも会いたいし」
「にゃー」とタマが鳴いた。
タイミングの良さに二人は笑った。
陽射しは少し傾き、縁側に長い影を落としていた。
名前負けだろうが、誰かの笑い種だろうが、構いやしない。
二人の笑い声とタマの喉のゴロゴロが、小さな家を包んでいた。
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