#177
立ち上がることなく、ただ目の前にいる相手を見上げるバニラに、レカースイラーは近づいていく。
慌てることなく、ゆっくりと歩を進めるその様子は、まるで棚から本でも取るかのような優雅さだ。
「クソッ!」
向かって来るレカースイラーを見たバニラは、すぐに立ち上がった。
だが、彼の頭の中は疑問で渦巻いていた。
バニラには、どうしてレカースイラーに自分の技が通じないのかがわからないのだ。
ここへ――屋上に来て数回接触してみてわかる。
レカースイラーは一般人よりは当然腕力はあるのだが。
これまでバニラが戦ってきた相手よりも、確実に力もスピードもない。
それなのに何故?
戦闘中の疑念は身体の動きに影響が出る。
バニラは思考を停止させ、震える足を動かす。
「うおぉぉぉッ!」
策もなくただ一心不乱にマチャから教わった技を繰り出す。
上段、中段、下段と、身体にしみ込ませた蹴り技を連続で放ち、レカースイラーの動きを止めようとする。
「いい動きだ。だが、若いな」
しかし、それら力強い蹴り技はすべて空を切った。
レカースイラーの身体に当たることはなく、そのうえ相手は距離を縮めてくる。
バニラは手を出す。
腕を伸ばすことのできない至近距離で、肘打ちや膝を使ってレカースイラーを遠ざけようとする。
そのとき、バニラは恐怖を感じていた。
これまでスラムでナイフを持った相手や、スパイシー·インクら拳銃を構えた相手にも覚えることのなかった恐怖感が彼を支配しようとしてくる。
たった一人の初老の男に何を怖がっているのだと、バニラは生まれて初めて湧き出る感情を振り払うかのように攻撃を繰り出していた。
「型が崩れたな。隙だらけになったぞ」
レカースイラーはボソッと呟くと、まるでマシンガンのように動いていた手足をすり抜けて、バニラの懐へと入る。
そして、バニラを下半身から浮かすようにその身体を掴み、両腕で円を描くような動きと共に後方に大きく投げ飛ばす。
宙を弧を描いて飛んでいくバニラの姿は、まるで放り投げられた球体のようだった。
「ガハッ!?」
破壊音と共にバニラは再び仏像や鎧武者の甲冑へと叩きつけられた。
先ほどと同じように粉々になった芸術品と倒れたが。
バニラは見上げることも起き上がろうとせずに、星空が浮かぶ空を睨みつけている。
「なんでだ……なんでだよッ!」
倒れながら叫ぶ。
傷ついた獣が己を奮い立たせるように声を張り上げる。
だがレカースイラーの立場からすれば、それはただの負け犬の遠吠えにしか見えなかった。
「もう終わりだな。楽しみにしていたのだが、所詮はこの程度……」
レカースイラーは、そう言いながら倒れたバニラへと近づいて来る。
バニラは敵の姿を見て震えていた。
怖い、怖い。
何をしても通じないレカースイラーが怖い。
バニラは向かって来る敵を見ながらも、立ち上がることができなくなっていた。
しかし、恐怖で身を固めていたバニラの耳に突然大声が聞こえてくる。
「なにやってんだよッ! 早く立てバニラッ!」
彼が声がするほうを見ると、そこには黒髪のロングヘアの少女――ダークレートが立っていた。




