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番外編 エンチラーダについて

地下鉄に鳴るアコースティックギターの響き。


ギターから聞こえる音は、それなりに大きいのだがけしてうるさく感じさせない優しい旋律だった。


それとギターと共にスピーカーから聞こえる声――。


マイクを立て、それに向かっている少年の歌声に、道を歩く誰もが足を止めている。


「今日も聴いてくれてありがとう」


少年の名はエンチラーダ。


彼はたった一人で歌とギター用の音響設備をそろえ、毎日のように地下鉄で演奏している。


その優しい歌声と(おだ)やかアコースティックギターの音は、エンチラーダのフォトジェニックなルックスもあって、観る者たちを魅了(みりょう)していた。


わざわざ仕事を早めに切り上げて、彼の演奏を聴きに来るサラリーマンやOLもいるほどだ。


この人工島テイスト·アイランドにも、当然音楽は(あふ)れている。


だが、アーティストやミュージシャンはいない。


すべて島の外から輸入してきた音楽ばかりだ。


そういう事情もあり、路上ライブという簡素な演奏会ではあるが。


生の演奏を観れるのは、エンチラーダのやっているこの地下鉄だけだった(他にも路上ライブをする人間はいることはいるのだが。長く続ける者はいない)。


島の現状もあるのだろう。


ある者は仕事で疲れた心に(いや)しを求め、またある者は貧富の差で先の見えない生活に元気をもらうために来ている。


エンチラーダにそのつもりはなかったが。


彼の音楽は、そんな人間たちの心のよりどころとなっていた。


その数はけして多くはない。


それは、エンチラーダは前もって宣伝などしないし、インターネットを使って自分の存在をアピールをしなからだ。


ただ毎日決まった時間に演奏をし、その場にいた人たちへ、気まぐれに今日は何回かに分けて演奏すると伝えるだけだった。


テイスト·アイランドにはレコード会社などない。


先にも述べたようにすべて音楽は輸入、または別の国の配信で聴くしかない。


そんな島なので、もちろん録音機材なども売っていない。


楽器も貨物船で輸入しており、演奏する人間よりも部屋のインテリアや自分のコレクションとして買う者ばかりだ。


そういう環境で、エンチラーダはスマートフォンのアプリで作曲とレコーディングしているのが現状だ。


特にレコードや音楽配信をしたいわけではないのだろう。


エンチラーダには、自分の音楽を広めたいという気持ちはなかった。


ただ、日々の生活で感じる想いを曲に込めて歌っているだけで、彼は満足していた。


実際に聴いてくれる人間がいるからだと思われるが。


エンチラーダにとって音楽とは、すなわちライブであった。


それも大会場でやるようなものではなく、客の一人ひとりの反応がわかる小規模なスタイル。


彼の作る曲が物悲しい曲調なのに、どこか人懐っこいメロディであるのは、その人柄から来るものかもしれない。


日課である路上ライブを終え、観客たちの拍手に頭下げながら早速片付けを始めるエンチラーダ。


これから住み込みで働いているバイト先――。


メキシコ料理屋での仕事へと向かうため、一人ではかなりの量がある機材をキャリーカートに乗せている。


そして、前に置いていたギターケースに入った金銭を財布へと入れ、地下鉄を後にした。


メキシコ料理屋へと向かう途中で、幼い子供を連れた女性が彼に声をかけてくる。


「あッ、もう路上ライブは終わっちゃったんですか?」


「えッ? ライブって……。ひょっとして僕のことを知っているんですか?」


当然のようにライブのことを訊いて来た女性に、エンチラーダは質問を返した。


そんな光景が面白かったのか。


女性と一緒にいた子供が笑いながらエンチラーダに言う。


「知ってるよ。電車に乗る前にちょっと見たもん」


「そうなんだ。ありがとね」


ライブを観てくれた礼を言い、子供の頭を優しく()でるエンチラーダ。


微笑むエンチラーダを見て子供が照れていると、母親と思われる女性が彼に訊ねた。


次はいつ路上ライブをやるのか。


やるとしたら午前か午後なのか。


演奏時間はどのくらいなのかと、丁寧ながらも早口で身を乗り出してくる。


エンチラーダはそんな女性にも礼を返し、毎日決まった時間に地下鉄で演奏していることを伝えた。


「でしたら、明日もやるんですね! 絶対に観に行きます!」


「ぼくもぼくもッ!」


嬉しそうに声を張り上げた母親に続いて、子供も手を挙げ、その場でピョンピョン跳ねていた。


エンチラーダは、そんな二人に手を振りながらその場を去っていく。


この後に、近くのメキシコ料理屋でバイトがあると言いながら。


「遅いぞ、エンチラーダ」


「ごめんなさいッ!」


住み込みで働いているメキシコ料理屋の店長が、時間に遅れたエンチラーダに注意した。


エンチラーダは声を張り上げて謝りながらエプロンを身につける。


「別に謝らなくていいぞ。遅れたぶんは時給からキッチリ引いとくから」


「うぅ……鬼……」


エンチラーダは泣きそうな顔でオーダーを見て、カウンター内へと入る。


これから店長と共に注文された料理を作るためだ。


メキシコ料理といえば、タコスやナチョスを思い浮かべることが多いかもしれない。


だがメキシコ料理といっても幅が広く、アステカ族やマヤ族など先住民族の食文化に加え、スペインの食文化も交じっている。


特徴といえば、なんといってもスパイスを多用すること。


とうもろこしの粉などを使ったトルティーヤや、唐辛子などのスパイスをたっぷり加えたサルサ、ライムなどのかんきつ類をしぼった酸味のあるスープ、豆と肉を煮込んだシチューなどが代表的なものだ。


エンチラーダが働いているこの店の看板メニューは、そのスープやシチューである。


その客の評価に、店長としては複雑なところがあるようだが。


食べにくる人間が皆そういうのだからしょうがない。


「ポソレお待たせしました!」


料理をテーブルへと運ぶエンチラーダ。


店長は無愛想でも、それとは対照的に彼は笑顔を店内に振り撒く。


エンチラーダは幸せだった。


けして贅沢ができる生活ではなかったが。


彼は好きな音楽を演奏し、数こそ少ないがそれを聴いてくれる人たちがいる。


店での仕事も――料理を作るのも接客も楽しんでやっている。


そんなささやかな幸福を奪うのは、いつも彼の血の繋がった人間だ。


「いらっしゃいませ――ッ!?」


「なんだよその(ツラ)は? わざわざ兄貴が会いに来たってのによぉ」


エンチラーダがいつものように働いていると、彼の前に兄を名乗る人間が現れた。

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