正体
午後十時を少し回った時のことである。
山田が門番になるのは、聖来が寝た後ということになったので、それまではリビングで過ごすことになった。
「山田さん!」
聖来が慌しくリビングに入って来た。風呂上りのため、蒸気が甘い香りを漂わせている。まだ乾いていないしっとりとした髪にはバスタオルが乗せられている。
「ど、どうしたの?」
そういう状況での鼓動の速まりを悟られないように、山田は聖来をソファに座らせる。
「今さっき物音が外からした気がするんです」
浴室からリビングへ来る間に玄関の外で聞こえたらしい。
「分かった。見て来るから聖来ちゃんはここでじっとしてて」
聖来の頭をポンと軽く叩いて、山田は外へ出て行った。一人リビングにいる聖来は、悪寒と胸騒ぎが止まらない。落ち着こうと、ハーブティでも淹れようかと立ち上がった時、外を歩く音がした。
「山田さん?」
背筋をひんやりとしたものが昇っていく。風呂上がりだというのに、すっかりと身体の芯まで冷える感じがする。小さいながらもある庭へ出るサッシに近づいてみたものの、猫や犬が迷い込んだ様子もない。が、いつもと違う雰囲気に、恐怖が連鎖し、身体を覆うとしていた。
ガサ
再びの音は、足音だと鮮明に分かるものだった。
「山田さん!」
聖来はいたたまれなさを加速源にして一気に外へ出た。電柱の外灯が規則正しく並び、道路を照らしていた。その一本、聖来の家と隣の家との間にある電柱の灯りを避けるように影があった。それは聖来を発見したようにして一つ身動きをした。
「い、」
声が出ない。影は近づいて来る。
「い、い、」
尚も影が近づく。聖来は影を見た。山田よりも高い身長。しかも四足で歩いている。となれば、聖来の思考が
――獏……なのかな……?
という解を導き出したとて、何の不思議もなかった。けれども、影は四足にもかかわらず、身の丈が高い。獏のような獣とは違っているように見える。聖来には、もはや何なのかさえ分からない。それがなおさらの恐怖を、そして寒さを催させていた。
「い、……山田さーん!」
その声が合図だったかのように、影の背後から駆ける一つの姿が。
「聖来ちゃん」
山田は言うと、跳躍一つ、その影の頭部らしき部分を右手でガシッとつかむと、加速と重力に従って地面へダイブ。影の顔はコンクリートへ。プロレス技でいう所のフェイスクラッシャーだ。
「聖来ちゃん、大丈夫?」
一先ず影が制せられたのを見て、聖来は地面へへたり込んでしまっていた。その傍で肩に手を乗せる。
「だ、大丈夫です」
とは言うものの、山田の背広を掴む手が震えていた。
「家に戻ろう」
「でも、あれ……」
「ああ、あれなら」
そう言って山田が視線を送るものだから、聖来も影を見てみる。ゆっくりと身を起こす。もしかしたらまた襲われるかも知れない。けれども、
「大丈夫。あいつはストーカーじゃないから。てか、あいつが聖来ちゃんをビビらせてたのは事実みたいだけど」
まるで馬が歩くかのような音が近づいて来た。灯が明瞭にその姿を提示する。
「痛いじゃないか、幸喜」
二人の前で止まった。まるでバリトンのような低音の良質な声だった。聖来は見た。上半身は人間。下半身は馬。半身半獣の生き物。ギリシャ神話におけるケンタウロスである。
「山田さん……」
聖来は、奇怪な生き物の登場に、今にも泣きそうな声である。獏に引き続きこんなものまで見たら、しかもそれに追い回されていたと知れば、十七歳の少女が気弱になるのも無理はない。
「こいつは、僕らの仲間だから」
「はい?」
それまでの動悸が一瞬にして平坦になった。
「まずは家に戻ろう。湯冷めしちゃうよ?」
無言で聖来は頷いて、そして立ち上がった。山田に手を引かれ、家に。ケンタウロスも二人に続く。玄関を開け、
「お前、まだそんな格好でいるのか?」
山田が怒り半分、あきれ半分な口調でそれに問う。
「確かに。家が汚れてしまうな」
イケボのケンタウロスは腰に手を当てると、その手を足へ下ろしていった。馬の脚の皮膚が捲れる。聖来は痛々しそうに目を閉じてしまった。が、
ジーッ
聞き慣れた音がした。確認のため目を開けて見る。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
低音が尋ねてきた。しかも、その捲れたと思っていた皮膚はチャックがついていた。それを開けた音だったのだ。どおりで聞き慣れているわけである。が、
「ちょっとこんな所で何してるんですか?」
上半身が人間、しかも肌色である。それがチャックを開け、下半身を露出すると言うことは、
「何を想像している。これはボディスーツだ。ちゃんと服は着ている」
事情説明をしながら、馬の下半身を脱ぎ捨てた。
「幸喜、背中のチャック下ろしてくれ」
面倒そうに無言でそうする山田。確かに肌色の纏いを全身脱ぐと、そこには詰襟の上着と黒の細身なスラックスを穿いた男性だった。整髪料で固めたヘアと細目が、長身にプラスしてとっつきにくさを感じさせる。
「よし、じゃあ、入るか」
「おい、待てよ」
バリトンが何の悪びれもなく松林家の敷居を跨ごうとするのを、山田が声で止める。
「聖来ちゃんに言うことはないのかよ?」
その言い方は聖来にとってはいつもの山田ではなかった。獏と対峙した時と普段との中間地点にいるような声色と声調だった。
「そうだな。礼を欠くのは私の本意ではない」
「お前すでに礼を欠いていることしてるだろ」
という山田を無視して低音が一礼をする。
「お邪魔します」
「じゃねえだろ」
と言って、礼を上げた低音にハイキックをぶち込んでから、胸倉を掴む山田。
「何をそういらだっている。挨拶をしただろ」
「そうじゃなくて、聖来ちゃんは怖がってたんだぞ。ちゃんと謝れって言ってんだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
などと男共が惜しげもなく声を発するものだから、
「ちょっと止めてよ。せめて玄関閉めてからにして」
聖来は慌てて玄関を閉めた。
すると、
「何々? 騒がしいけど」
と言いがなら、唐檜杏奈が二階から顔を覗かせた。玄関には男二名。一方が胸倉を掴み、一方は悪びれもせず平静でいる。その間には風呂上りのスウェット姿の女子。
「ありだな」
漫画作者にとっては大好物的なシチュエーションだったのだが、
「ちょっと、杏奈も止めてよ」
との家主の声にそそくさと階段を降りる。
「あれ?」
唐檜の声色が変わった。落ち着いているというか、なんでこんな状況が今起きなければならないのだろうか、といった疑問に思っている言い方だった。
「先生」
聖来や山田にとっては、思わぬ単語を続けて聞いた。だから、聖来が
「杏奈、何言ってんの?」
といぶかしげに級友に言うのも無理はない。
「いや、それはこっちのセリフだけど」
「ちょっと、どういうことよ。杏奈、この人のこと知ってんの?」
「もち。だって、こないだ話した、よく当たる占い師の先生だよ。この人」
予想の斜め上以外に向かいようがない言葉を聞いて、山田も聖来も脳内での言語処理が遅々として進まなかったが、ようやくそれが終わったのか、同時に
「「へ?」」
と間の抜けた語。
「だから、あたしが行ったって言ったじゃんー。今度は一緒に行こうって言ってた占い師さんだよ。知り合いだったんだ?」
山田も聖来も二度三度唐檜杏奈を、それから低音の顔を見やってから、
「「はあ~~っ?」」
二人して解せない絶叫を発した。