転職を余儀なくされる
七月七日。あの建物で小規模な七夕のイベントが行われた。工事の柵は取っ払われ、臨時に開いた割には大いに来客があった。主催はもちろん花咲里父であり、山田・戸内や聖来達はスタッフとして、短冊飾りや出店に汗を流した。戸内は相変わらず変な被り物をしていたが。その参加した栗栖さんもにこやかに七夕のイベントを見つめた。
それから数日して。
地方の在来線の駅を降りて徒歩一分もかからない所にあるマンションの一階。空きテナントの掲示はすでになくなっていた。そこのドアが開きっぱなしになっており、荷物を出し入れする若者達の姿があった。
「山田さん、今での全部です」
「ありがとう。じゃ、休憩にしようか……あれ」
室内にうずたかく積まれた段ボール。聖来が業者のトラックの中に、もう何もないことを確認して言った。山田は財布を取り出して、近くのコンビニに使い走りを頼もうとしたが、その言いつけをしようとした相手がおらず、辺りを見回した。
「どうした幸喜。のんびりしている暇はないぞ」
紙パックのジュースのストローから口を離して、戸内が入って来た。梅雨明けをし、すっかり暑さが急上昇中だと言うのに、詰襟の長袖のままだった。現に若人達の装いはすっかりと夏そのものであった。若者達が勤しんで協力しているというのに、自らの従者がどこぞに行って帰って来た。山田がすることと言えば、その輩をグーパンチして迎えることだった。
「痛いじゃないか。何をする」
「お前を探してたんだってーの。もう一回出てってみんなの分のジュース買って来い」
千円札を戸内の目の前に突き出す。
「いや、それならすでに買って来ている」
ジュースが入ったビニル袋を、山田の目の前に突き出す。戸内は気を利かせていたのだった。さすがは山田の付き人。主人の心中を察していたのだった。どうにもスムーズでないコミュニケーションではあるが。
そのやり取りを唐檜が、グフフと言わんばかりの好奇な目で見ている。
「なら、早く言え!」
「何をそうカリカリしている。カルシウムが足りないんじゃないか? そうカルシウムと言えば牛乳と言うが、実は日本人の大腸は欧米人のそれにに比べて……」
「どれにしようっかな。杏奈、どれにする? 鈴音さんも」
「俺にはー?」
聖来は、戸内から手渡されたビニル袋から取出し、作ったばかりの棚にペットボトルを並べた。力仕事専門で首にタオルを巻いている反町が奥から出て来た。各々好みの飲料を手にする。もちろん、山田はネクターだった。
「私の話をだな。ま、いい」
こんな所で、彼らが何をしているかというと。
「それにしても、山田さんチャレンジャーですよね、自分で塾開こうなんて。しかも夏季講習前に」
高樅の指示、というよりも境界からの指示が伝えられ、その準備をしていたのである。臨機応変かつ迅速性に乏しい山田は、夢が多感な子供達とまず接触しておいた方がいいとのお達しがあったのである。そのせいか、前の職場を辞めるのが異常なくらいスムーズだった。恐らくは高樅やその他境界関係者の力によるというのは、容易に察せられた。なぜなら、前職は唐突に強制解雇的なものに近かったからである。
「次の職に関しては心配ないよ。急に辞めてもらうわけだから」
とは、クリーニング店の社長の辞令に際しての言葉であり、その直後に高樅から呼び出しをくらい、勅令を賜ることになったのだ。
「三カ月やそこらで研修先が変わるなどめったにないぞ。でも、まあ、妥当だな。大人達のは白いのと戸内がなんとかするだろ」
その高樅から言われた。前例稀有な一部に入れられてしまったが、夏の雪を引き合いに出されてしまっては、受け入れざるを得なかった。
そんな回想をしつつも、山田は室内に積まれた段ボールの山を見やる。パテーションやら本棚やらそこに入れる教材・参考書やらが中に入っている。
「まあね。栗栖さんがやる気になってて、塾長をするからって。それに便乗したって言うかな。栗栖さん元教師だし。いろいろなノウハウ持っているから、僕もね、挑戦しようかと」
唐檜や反町もいる手前、当たり障りのない説明口調になってしまう。が、嘘ではなかった。辞令を交付され、「これはまた大変なことになったぞ」と頭を抱えていたところに、どこから聞きつけたのか、栗栖さんが名乗りを上げたため、渡りに船とばかりに協力を仰いだのだった。その栗栖さんはチラシづくりやら、折り込み広告に入れるために新聞社に連絡を取るやらを率先してやってくれていた。
「山田さん、資金不足になったら、いつでもおっしゃってくださいね、援助いたします」
すっかり花咲里は元気を取り戻しており、現実的な問題を山田の間に叩きつけた。
「始める前から、そんな資金運送のこと、考えたくないんだけど」
「そうでしたね。そうです! もし、潰れたら、新しい就職先を紹介して差し上げます」
まるで話しを聞いていなかった。というよりもこっちが本当に言いたいことらしかった。山田は良いように追い込まれたのだった。嫌な予感に苛まれつつ、
「それはどこかな……?」
恐る恐る会話を切らないようにする。
「もちろん、私の夫という永久就職です。花咲里家のしきたりを一から、そう新人研修させて差し上げます」
元気になったどころの騒ぎではなかった。花咲里は豹変までしていたと言っていいくらいである。それは、戸内と聖来が
「彼女はきっとヤンデレになるな」
「たぶん。その気質は十分にあるかと」
冗談ではなく言っている所からも窺えるというのもだった。どうやら、一連の件を経て、山田は聖来のお気に入りになったようである。
「幸喜はフラグを立てるのが早いな」
「まったく、山田さんのどこがいいんだか」
戸内が分析をし、聖来が空いたペットボトルを力いっぱい握りしめた。
――君もそうだろ
とは心の中で思っていたとはしても、決して口には出来ないと、戸内は聖来を見ていて思った。
「まあ、まだオープンしてないんだから、何とも言えないね」
そんな曖昧な答え方で、山田は誤魔化すしかできなかった。聖来は、彼の横に立ち、脇を強く抓んだ。
「痛! 何すんの、聖来ちゃん」
「私は何もしてませんよ」
「いや、今抓ったよね? ね、皆も見たよね?」
誰一人山田に同意を示す者はおらず、そしらぬ方を見て各々の飲み物を喉に通していた。
「そんなあ」
嘆く山田に、
「幸喜。私も協力するんだ。失敗は許されんぞ」
戸内が業務再開を促す。しかし、それを聞いて高校諸君は驚きの眼を向けた。
「え? 戸内も塾務めんの?」
「先生、占いは?」
「母さんが、新しい客紹介するとか言ってたのに」
「資金が足りないようでしたら、お父さんに言ってみますが」
聖来、唐檜、反町、花咲里が矢継ぎ早に戸内に迫る。が、一向に動じることはなく、彼は平然と答えた。
「いや、時間講師扱いだ。占いは続ける。こんなとこに、バイト講師がすぐ来るとは思えんしな。私が華麗に勉学のいろはというものを……」
それを聞いて、唐檜と反町はほっとし(彼のおかげで悩みが解消されたと思っているから、占いを辞めるのは惜しくてしようがなかったから)、花咲里は「そうなんですね」と事実確認をしたのみの反応で、聖来だけが彼に突っ込まざるをなかった。なぜなら、彼の人となりを否が応でも知っていたからである。
「絶対、着ぐるみとか被り物とかしないでくださいね」
「なぜだ? 子供達の心をつかむにはキャラクターから入るのが良いに決まっているだろ。まさに私にうってつけではないか」
共通言語が通じない、宇宙人を見ているような視線で―そもそも異界の人物なのだから、それはある意味で当然と言えば、当然なのだが―戸内をジト目した。
「山田さん、こいつ採用しない方がいいですよ」
「人手がネ……そうでなければ、追放するんだけど」
ホトホトといった感じで、山田はタオルをこめかみに当てて、ネクターに口を付ける。
「何と言う言い草だ、幸喜。だいたいだな……」
「ああ、うっせい。ネクターがまずくなる」
丁々発止である。
「キッター!」
唐檜が絶叫した。唐突なそれに一同目が点になる。
「アイディア浮かんだ。これは行ける。うーん、どうして夏コミ落ちたんだろ。これなら絶対売れること間違いないのに」
頭を抱え悶絶する唐檜に、「ほら、さっさと訊いて」みたいな視線と寡黙を一身に注がれた山田が
「で、何の?」
と尋ねるしかなかった。
「もちろん漫画です。山田さんと先生のラ・マンな衝突の日々」
そこにいた一同が「やはりそれか」といった嘆息をした。ちなみに、花咲里は聖来と反町経由で唐檜と親しくなり、唐檜から「親交開始記念に」のイラストと漫画を渡された。しばらく難しい顔をして、眉間にしわを寄せ、それらに目を通した後、無言でそれらを返品したことがあった。
「いや、訳分からんて」
誰もツッコまないので、致し方なく山田がそうしては見るものの、
「そのタイトルはー!」
「人の話は聞こうね」
まるで聞いていなかった。
「ずばり!『金木犀の闇』。これは行ける。早速……」
一瞬だけ、花咲里の眉がピクリと上ずった。
「杏奈さーん、仕事まだあるからねー」
「なあ、幸喜。彼女は・・・・・何なんだ?」
卒倒していた上に、あの現場にもいなかったにもかかわらず、何をどう思考したのかは測りしがたいが、そのようなタイトルに至ったのを、戸内は驚きを隠せない。と言っても彼の表情がミリ単位でも驚きのものになることはなかったが。
「知らないはずなんだけどな、ほらクリエイターの直観とかってやつじゃね?」
「随分エキセントリックだしな」
「お前が言うなよ」
そうして、全員がジュースを飲み干し、休憩が終了。仕事再開となる。段ボールを開け仲の者を取出し、組み立てなければならないものはそうして、並べなければならないものもそうして。役割分担で暑い午後の時が過ぎていく。
そこへ。
「山田君、今晩、入塾相談の予約が入ったから室内を完成させてください」
栗栖さんが現れたかと思えば、
「山田君、仕事依頼だ。以前行ったとこの奥さんが、君に来て欲しいって言ってんだ。明日にでも行ってくれるか」
テナントの前に軽トラが止まって、クリーニング店の社長がひょっこり登場。その上、
「鈴音、もう山田君には言ったのか?」
花咲里父まで参上する始末。
「何この勢揃いパターン」
まるで祭りの賑わいかのような光景に、山田は目が点になっている。
けれども、やらなければならい業務はまだまだ山積しているのだ。
「山田さん、これはどこに持って行けばいいですか?」
「山田さん、なんで先生ともっと絡んでくれないんですかー?」
「山田さん、今晩お食事でもいかがですか?」
反町から、唐檜から、花咲里鈴音から止むことのない質問が、山田を慌てふためかせる。さらには、
「幸喜、やはりミノタウロスのコスチュームなんだが……」
ここに来て余計なことをしでかそうとする戸内をどう制するかの頭痛まで起きそうになる。
「山田さん、偉く人気者ですね」
「いや……良いように使われているだけで」
皮肉とも労いとも、あるいは両方を含んでいるとも言えるような聖来の一言に、山田はホトホトといった具合に肩を落とした。
「「「山田君!」」」「「「山田さん!」」」
一斉に名を呼ばれ、山田はもう一度頼りない笑みを浮かべ、後ろ頭を掻いた。
山田幸喜の新人研修は、夏の太陽のように熱く、まだまだ終わりそうにない。