花咲里の吐露 その2
この民俗博物館は花咲里鈴音の思い出の場所だった。子供の頃、父に連れられてよく来たものだった。施設の内外で行われる体験会――土器づくりや勾玉づくりなど――に参加したり、林の木々の観察もしたりした。何度来ても飽きることはなかった。そして秋の穏やかな昼下がりの林の中の散歩。金木犀が香る中での時間は彼女にとって宝物のような長さだった。
けれども、それも彼女が小学校五年生の時になくなってしまう。県や市から援助を受けてはいるものの、いや受けているが故に集客数が少なく収益が上がらないこの施設の有効性について疑義が上がり、やむなく閉鎖に追い込まれたのだった。父の仕事が急激に忙しくなったのはそんな時だった。
そんな思い出が止めどもなく溢れて来た。諸行無常。学校で習った言葉。たしかにいつしかなくなってしまうのかもしれない。思い出の場所も。ここが自分の思い出と変わってしまうかもしれない。けれど、それは自分の知らない、誰かがくわえる手であろうと。だが、それは違った。そこを壊すのが、他でもない、その思い出を作った父であった。そのことに、花咲里鈴音はいたたまれなさと悲しさを堪えることができなかったのだ。
その時だった。背後に気配を感じた。涙を拭き、そこを見る。見たこともない黒い生物が、四足で立っていた。花咲里は驚きと未知なるものがいる恐怖で、逃げなければならないと分かっていた。けれど、身体が動かすことができなかった。
――怖がることはない
恐らくその生物の声だろう。口が動いていたから。しかし、それは実際に口から発せられているというよりも、花咲里の頭の中に直接語りかけている、まるでテレパシーのようであった。
――お前が今思っていること、叶えてやろうか
「あなたは、何?」
――獏だ。人間なら聞いたことがあるだろ。夢を食らってんだ。だが、夢を食らいに渡り歩くってのもな、面倒なんだ。だから、俺の言う通りのことをしてくれたら、お前が思っていること叶えてやるよ。
「私は……」
――ここを守りたいってか。工事なんてなくなればいいってか
黒獏が、自分の心中を見透かしたように言うものだから、花咲里は言葉を失った。
――俺はどっちだっていいんだ。お前次第だ
「……それは……私にできることなの?」
黒獏は、その言葉にニヤリと口角を上げた。
――ああ、とてつもなく簡単だ。ま、手始めに最も手っ取り早いのにしてみるか。そうすれば、俺の力を確かめることもできるだろ?
近くまで来るように促され、手を出すように言われた。それに従う。手渡されたものがあった。液体の入った小瓶だった。
――それをお前の学校の一番太い幹の木にかけろ。
「どうなるの?」
――夢を吸い取り、無駄な希望を抱かなくても済む
花咲里は小瓶を見つめる。
「でも、それは……」
――もし気が改まって止めるってなったら、海にでも投げろ。そうすれば効果はなくなる
花咲里の言葉を遮り、彼女の目の前から黒獏は雲散霧消した。
「それである晩、校庭の桜にその液体をかけたのよ。それが一番太い幹だったから。そしたら、散ったはずの桜の花が咲いて、しかもそれが青い色で。さすがに気味が悪くなって走って帰ったけどね」
花咲里鈴音の動機と事の成り行きが顕わになった。
「それって……」
「ああ、幸喜が片付けた一件だな」
二人は、彼女の話しに聞き入っていた。
「次の日学校に行くと、反町が遅刻してきて、聞いてみたら病院行ってたって。でもその表情から、反町は夢をあきらめたって思ったの。直感的に思ったのよ。黒獏の言うとおりになったって。それが反町に現れたんだって」
「なるほど。青い桜の件と反町の件は、そういう風に……」
戸内が顎に手を当てながら事件の関連性について納得していると、聖来が
「でも、なんで涙までしたこの木や祠を自分の手で壊そうと?」
納得していない様子で問うた。
「言ったでしょ。守るためだった。おしゃべりはここまでよ。もう夢なんてつまらない、沢山よ。消えてしまえばいいの。消えるのは花咲里家そのもの、その歴史も由緒も家柄も何もかも、そう。それこそ一睡の夢だったように消えるのよ。だから、私が壊すの」
「花咲里さん」
「そう、私も消える。それが今の私の夢」
聖来には分からなかった。自分を消すことが夢だと言うことが。それを言ったクラスメートの気持ちが。聖来はそんなことを思ったことがない。夢とはそういうものだろうか。それを夢と呼んでいいのだろうか。けれども、そう断言するクラスメートがいる。それは彼女にしか分からない、これまでの経験や、あるいは未来像から導き出された言葉でもある。だから、聖来は否定をすることも、肯定をすることもできず、ただ戸惑い、言葉を失くした。