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山田さんの新人研修  作者: 金子よしふみ
第五章 夏の金木犀

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追いかける

「ちょ……」

 聖来は教室の入り口で立ち止まってしまった。教室内には見知った、さっきまであんなに生き生きと騒ぎ合っていたクラスメートたちが床に突っ伏していた。笹飾りはぐちゃぐちゃになり、短冊の文字は水で滲んだようになっていた。

「杏奈!」

 窓際の壁を背にもたれかかれるようにへたり込んでいる唐檜の肩をゆする。しかし、返答はなく力ない身体が揺れる。

「あれを見てみろ」

 教室に張って来た戸内が窓外を指さす。立ち上がって見たそこには、宙に浮かぶ黒獏がいた。

「あれは花咲里さんだな。幸喜もいるな。追いついたか」

 校庭に視線を下ろす。聖来はまたも駆け出そうと身を反転させた。

「待て」

 その肩を戸内が掴む。

「何よ。急いでんの。早くしないと」

「その通りだ。だから行くぞ」

 戸内は聖来を引っ張り自分の前方で気を付けさせた。窓を開ける。

「え?」

「では、レッツ・ら・ゴー」

 戸内は聖来を小脇に抱えると、サッシに足をかけた。

「いや、何してんの? 無理だから、それ!」

「いや、行けるんだな、これが」

 との一言とともにジャンプ敢行。命綱のないバンジージャンプを聖来は体験することになり、彼女の絶叫がこだました。

 聖来の目には、ものすごい勢いで近づいてくる地面。

「ぶつかる、ぶつかる」

 仏像が泣き叫ぶ。

「まったく、しゃべると舌を噛んでしまうぞ」

「けど、死んじゃうって」

「大丈V」

 地面まで一メートルほどの所で方向転換。地面と水平な飛行に変わり、その勢いのまま山田の横に。小脇から降ろされ、聖来は肩で息をしている。

「何してんだよ。てか聖来ちゃん、なんでそれ?」

「いや、手っ取り早いと思って。これは私のグッズで……」

 絶叫を聞いて仏像の被り手が聖来だと分かっていた山田。その質問に、動悸激しい聖来は即答できずに戸内が変わろうとしたのだが、

「なことやってる場合じゃないてーの」

「だから急いできたのだろ。それにほら」

 戸内はどう入手したのか、山田の靴を持っていてそれを渡した。スリッパだとなにぶん動きづらい。すでに戸内は靴を履き変えていた。山田も無言で慣れた靴に履き替えた。そして、二人は臨戦態勢に入る。

「花咲里さん……」

 落ち着いた聖来は花咲里を見る。そのクラスメートの虚ろな瞳には、自分が映っていないだろうと、聖来には容易に察せられた。被り物がアレだからというのが、目を逸らされた理由でないと聖来は真に願ったが。

 強風が地面に叩きつけられると、次の瞬間には黒獏が地鳴りを響かせる勢いで着地した。睨み合う山田と黒獏。一戦が始まろうとした。

 かと思いきや、獏はその伸びた鼻なのか口吻で、花咲里の身をひょいと抱き掲げると、背中に乗せた。

 ニヤリと不気味な笑みを作って、またしても強風を山田達に吹きつけながら、空へ飛んで行ってしまった。

「速えよ」

 獏の姿は数秒で小さくなっていった。

「仕方ない」

 戸内が首元の詰襟を緩めた。

「蒸着とか言わないでくださいね」

 仏像が先んじて手を打つ。

「そうではない。では」

 戸内がバック転をした。すると

「は? はーッ?」

 安心立命の境地に達しているはずの仏像が、眼前の光景に心を乱された声を発した。

 なぜなら、

「幸喜、乗れ」

 声は戸内だが、姿が

「トナカイ……?」

 だった。雄々しい角を冠の、筋骨隆々とした一頭のトナカイがそこに現れた。

「間に合うんだろうな」

「間に合わせる」

 山田は何のためらいも驚きもなく、トナカイな戸内にまたがり、

「聖来ちゃんはここにいて。よし、行くぞ」

 空中を獏が向かった方へ飛んで行った。

「人がトナカイに……いや、人じゃないって言ってたけど、本当に人じゃなかった……」

 校庭に一人残され、ポツンと佇む聖来。辺りは薄紫色の世界。聖来は我に返ると、ポケットから笛を取り出し吹いた。

 瞬間にして、白獏が目の前に現れた。

「何してんのよ」

「いやほら、お供えしてあったから。しかし、それはこっちのセリフでもあるな。なんだ? その被り物は」

「しょうがないじゃない。ないと倒れるって戸内が言うから」

 白獏は饅頭を今まさに口に入れようとしていた姿勢で登場したのだった。

「で、何の用だ?」

「その戸内なんだけど、戸内が、人が、いや人じゃないんだけど、戸内がトナカイになって。山田さんがまたがって、飛んで行って」

「何だ、知らなかったのか?」

 白獏は饅頭を口に放り込むと、数回噛んだだけで呑み込んでしまった。

「そこまで話してなかったか。けどまあ、あいつは名前で言ってるだろ」

「は? どういう……もしかして、トナカイだから戸内快って名前にしてたってこと? あいつ、寒」

 思案もそこそこに回答が導き出された。さっきまでの驚嘆は、一気にくだらな過ぎて笑いすら起きないモードに下降していた。

「で、それだけか?」

 白獏はまだ手に残る饅頭を更に食べようとしていた。はたと聖来は何事かを発見したように白獏の手を握る。獏は、それを迷惑そうに振り払おうとする。

「なんなんだ?」

「これ、どこから持って来たの?」

「どこって……河川敷にある古い建物の敷地にある小さな祠の前から」

「そこ! そこに私を連れて行って」

「は? なんで?」

「クラスメートが黒獏と一緒にそこに行ったと思うの。彼女を追って山田さんも。たぶんそこだから」

「侍従の名前は出てこないんだな。まあいい。確かにこいつは一大事だからな」

「どういうこと?」

「街全体が奴のこしらえた空間で昏倒し夢を見る。それもあいつが好みそうなもんを強制的にな。それを奴は食らい尽くす」

「食らい尽くすって」

「そうして、下手をしたら、この街の住人はもう夢を見ることは出来なくなる」

「そんな……」

「だから、あの新米が是が非でも奴を制しなければならんのだがな。あいつはまったく。急ぐか。乗れ」

 白獏は残り数個の饅頭を一気に頬張り腹ばいになると、聖来を鼻又は口吻で抱え、背中に乗せた。

「でもなんで、そこなんだ?」

「金木犀の香りがしたの。さっきそのお饅頭から。周りがこんなになる前にも金木犀の香りがしたから」

「分かった」

「でも、違ってたら……」

「イタリアーノ五個で手を打とう。それでどこへでも飛んで行ってやる」

「ありがとう」

 聖来は白獏の頭を撫でた。

「じゃ、行くぞ」

「うん、お願い」

 聖来を背負った白いバクも先行する者を追いかけて飛んだ。


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