青い桜
五月下旬の夜の校庭。
女子高生、松林聖来は目が釘付けとなっていた。
散ったはずの桜が満開になり、しかもその花弁は青かった。風もないというのに舞い散っていく青い桜。
しかし、彼女の視点を固定させていたのは、それだけではなかった。
体長が五メートルほどの真っ黒な図体の四足獣が、青い花弁を咲かす木の傍にいたのだ。その生き物は、体幹はクマのようにずんぐりむっくりしており、猪のような牙がそそり、尾は牛、脚は虎のようである。何よりも特徴的なのは、鼻なのか口吻なのかが幾分伸びていて、象とはいえないものの、それを思い起こさせる風貌だった。
テレビでも図鑑でも見たことのない、その未知の生物がいきり立っていたせいで、聖来は逃げるという行為に移る前に、そんな思考さえ廻らなくなっていた。
さらに、聖来が目を見開いた。
彼女の眼前に、音もなくヒラリと空から降りて来る背中。
「山田……さん?」
スーツ姿の男を、聖来は見知っていた。
けれども、振り向いたその目つき、佇まいは普段の彼とは随分違っていた。
「聖来ちゃん、逃げて」
彼の低い声は、いつもの柔で陽気な色を消していた。
「ど……」
「いいから、早く」
戸惑うばかりの聖来を急かせる。
四足獣の瞳が鈍いながら光り、二人をにらんだ。標的を見つけ、今まさに襲い掛からんとばかりに。
「仕方ないか」
山田と呼ばれた彼は背中に聖来を隠すと、その四足獣と対峙。瞬間、それが猛然とダッシュをして来た。
「山田さん!」
聖来は恐怖を感じながらも、彼の名を強く叫んだ。
その彼は、まるで動じていなかった。右手を前方に突き出し、その掌を上下左右や丸など奇妙な動きにさせていく。それが止まる。すると、そこに青色に光る円陣が浮かんだ。そこには、これまた聖来が見たことのないような図形がちりばめられている。その陣は意思を持っているように、音もなく前方に進む。四足獣は、ためらいもなく突っ込んで来る。必然、円陣とそれが正面衝突する。聖来は思わず身を屈めた。そして恐る恐る彼の背後から様子を覗き見る。円陣とそれが拮抗してせめぎ合っている。
「聖来ちゃん、ここにいて」
彼はそう言うと、跳躍一線でそのせめぎ合いの中へ向かった。
「山田さん!」
再び聖来は彼の名を呼ぶ。彼はスーツの内側のポケットから一枚の小さな白い袋を取り出していた。四足獣へ一気に下降していく彼の手に握られたそれは瞬く間に巨大な袋に拡張していった。まさに四足獣をその中に入れるには十分な大きさとなるくらいに。
黒い獣は円陣とぶつかりながらも、山田の気配を察したように宙を仰いでから、跳んで後退した。
「ちっ」
寸での所で回避され、彼は舌打ちを一つした。円陣はすでに消失している。
二者は無言のまま数秒にらみ合っていたが、四足獣の方が息を一つ吐いた後で、霞に包まれたかのように消えてしまった。
「ふう」
袋が小さくなり、それを元の所にしまうと、彼は聖来に振り向いた。
「ちょ。山田さん?」
聖来は緊迫した場の雰囲気がまるで変わったことに安心して、彼まで駆けた。
「ちょっと待ってね」
その声色は、先ほどまでの低音ではまるでなくなっていた。普段見慣れているスーツ姿ではあるが、ネクタイはしておらず、またワイシャツの第一ボタンが外されていた。それは彼の通常な姿ではなかった。けれども話しぶりは、聖来が知っている山田幸喜の明らかに人のよさそうな柔らかな、しかしどこか頼りないようなものに戻っていた。
山田は青い花びらを散らす一本の桜の木に歩み寄った。枝並みを満悦しようとして見上げたのではない。その太い幹に手をかざす。掌と幹の間に円陣が浮かぶ。すると、今度は地面に木を囲うように、半径一メートルもない円陣が艶のない光でボウと浮かんだ。
もはや聖来には言葉はない。ただ目の前で起きている非日常な現象の連続を眺めているだけだった。それがマックスとなる。
地面の円陣から光の柱が飛び出し、木を包み込んだ。青い光が一瞬その内部に光った。それはグラデーションしながらピンク色で集束していった。
「聖来ちゃん」
彼の言葉に、聖来の視界と意識が正常に戻った。辺りに円陣もない。夜の校庭の景色があった。まるで夢を見ていたかのような時間。が、そうでないことは、山田幸喜がいることで分からされることであった。
「山田さん、一体」
「んっと……」
山田は明後日の方向に視線を送り、頬を指先で掻いている。
「そう!」
思いついたように、人差し指を立てて勇んで言い出そうとした。が、
「特撮とか言わないでくださいね」
すっかり平静さを取り戻した聖来は、これから山田がまさに言わんとしたことを一歩先行った。表情と口が銅像化した。
「あんな魔方陣みたいなのとか、光線的なこととか、妖怪的なものが出てきて、特撮とか言いませんよね。言うんだったら、カメラ班とあの化け物の着ぐるみに入っていた人を今すぐここに呼んで下さい」
「いや、その、聖来ちゃん?」
先ほど未知生物と一戦を交えた人物とは思えないほどに、オロオロとした挙動になっている。それが聖来の知っている山田幸喜であったのだが。
「どうしたんです? 呼べないんですか?」
一方、聖来はここぞとばかりに、問いの連射である。
「いや、だからね聖来ちゃん。これは何と言うかね……」
「とりあえず、話しは聞かせてもらえるんですよね」
「はい?」
「家、帰りたいんで。ここではなく移動して聞かせてくださいね」
「いや、聖来ちゃん、それは言いにくいと言うかね……」
「聞かせてくれるんですよね!」
「あ……の……」
山田の顔面すれすれまで近づいて、有無を言わせない視線を送ると、山田の返答を待たずに聖来は、彼に背を向けて歩き出していた。
「まったく。弱ったな」
頭を掻いて、山田は聖来の背中を追った。