第10回・令和文芸新人賞選評(『令和文芸』令和X年6月号より)
早いもので、令和時代の新たな文芸の形を模索することを目指して始まりました『令和文芸』も10周年を迎え、同時に開始した令和文芸新人賞も第10回という節目を迎えました。出版不況の時代、新たな文芸誌をスタートするというのは出版社にとっては大きな賭けであったかとは思いますが、こうして10年間を無事に走り通すことができたのは、ひとえに令和という時代に合った、新時代の文学を拓きたいという若い書き手たちの熱意によるものが大きいでしょう。
さて今年度の新人賞ですが、昨年よりさらに応募総数が増え、実に3066作品もの応募がありました。前述しました通り、10年目という比較的新しい新人賞ながら、作品の応募総数としては大手文芸誌にも劣らぬ数にまで成長しました。私も第1回から10年間選者を務め、応募作品には全て目を通していますが、年々書き手の技量の平均値が上昇していることを感じます。中には、第1回から欠かさず応募を続けられている方もおり、そうした方は第1回の応募作と今回の応募作を見比べると、その成長ぶりには目を見張るものがあります。こうしたことが実感できるのも、第1回から選者を務めさせていただいたからこそ感じられることであり、作品を通して感じられる作者の成長と執筆にかける情熱を、作品を通して感じられることが、毎年の楽しみになってきました。
ただ、10年の節目という記念すべき回にこのようなご報告をすることは非常に心苦しいのですが、今回の第10回令和文芸新人賞は慎重に評価検討を重ねた結果、大賞は該当作なしという結果になりました。大賞以外の優秀賞は、不動明王川修羅太郎氏の「手術台のキャットウォーク」、羅刹山普賢菩薩氏の「おならプープー観音」の2作が受賞しました。
応募作品全体の質が年々向上しているというのは前述した通りですが、それにもかかわらず大賞該当作がないというのは矛盾していると感じるかもしれません。しかし、これについてはきちんとした理由があります。
ですが、その説明の前に、今年度の応募作品の傾向についてお話ししようと思います。全体として、奇を衒った、あるいは突拍子もない設定の作品の応募がかなり多く見受けられました。応募作品の大半がそのような作品だったと言っても良いでしょう。私が選者を務め始めてから10年、この傾向は年々強くなっているように感じられます。
この理由について書くことは、小説家を志す皆様は文学界で起こっている出来事に誰よりも敏感であり、それに適応しようとこういった作品を執筆されているのでしょうから、今更と思われるかもしれません。しかし、改めてまとめることで新しく見えることがあるかもしれないということで、以下に説明してゆこうと思います。
今から10年前、「令和文芸」の発行と年を同じくして、ある作品がベストセラーになりました。「2030年のせせらぎ」という作品名を知らない人は、現代にはもはやいないでしょう。作品としての完成度は、今見てみると粗削りな部分もありますが、当時は驚きをもって迎えられ、世間の話題を独占するまでに至りました。
そう、この作品の執筆者「無限の猿」は古今東西の文学作品をディープラーニングしたAIであり、それが作成した文学作品が、人間が執筆した文学作品と比べても決して劣らぬクオリティを誇っていたのです。
この事実に文学界は揺れました。AIによるものであっても、文学的価値のある作品が世の中に増えることは良いことであると肯定的にとらえる向きもありましたが、一方で、小説家など文筆を生業とする多くの人は、AIが彼らの仕事を奪う可能性に脅威を感じました。また、始まって間もないこの賞をはじめ、各社の文芸賞は「AIによって作成した応募作品を認めるか」という判断を迫られることになりました。結局、その判断は各社で別れました。この「令和文芸新人賞」では基本的にAIの作成した作品を認めず、応募作品がAIによって作成されたものかどうかの判断を、AIによる査読に任せることとしています。
その後、AIによる文芸作品は勢いを緩めることなく、むしろ年々技術向上により作品としての完成度を高めてゆきました。「無限の猿」だけでなく、それに追随して多くのAI開発者が文芸執筆AIの開発を進めました。有名どころでは「オデッセイⅣ」「オートライト」「メカ太宰治」などでしょうか。米国で人気の新人作家レイチェル・ウォン氏が、実はAIであり顔写真も画像生成AIで作られたものだったというニュースも記憶に新しいでしょう。作品が完成するまでのスピードも人間と比べるまでもなく早く、今では年間の文芸本ベストセラーのほとんどを、AIによる執筆作品が総なめしているような状況です。AIの参加を認めた文芸賞の多くでは、今では人間の受賞者はほぼ出ていません。「無限の猿」が登場した際に多くの作家が恐れたように、多くの小説家や脚本家、エッセイストなどが職を失いました。
心を持たない機械には、人間の心を動かすような心理描写などできないと高をくくっていた作家たちも、今や考えを改めざるを得なくなりました。人間が一生かかっても読破できないような量の作品をディープラーニングしたAIは、大抵の作家より巧みに言葉を操り、今は亡き大作家たちの思考パターンをなぞったかのようなプロットを作成し、大作家の魂が乗り移ったかのような筆致でそれを彩るのですから。
今では一流のAIたちが華々しい文芸の表舞台で作品を短いスパンで発表する陰で、人間の作家のほとんどは二流、あるいはそれ以下の作家として細々執筆している、あるいは廃業しているような状況です。音楽、美術などの業界も、AIの進出で似たような現状になっているようです。
そのような中で現れた、数少ない人間の作家の成功例が阿弥陀川弥勒でした。彼の持ち味は、AIには不可能だといわれる奇妙な作風です。デビュー作『コンベア』の「ベルトコンベアに挟まった泥のひとかけらに異常な愛情を注ぎ、ついにはそれに恋愛感情を抱くまでになる」というプロットは、意味不明ではありますが、阿弥陀川氏の技量によって、ただの出鱈目にはならないギリギリの一線を保っており、シュールながら読んでいて哀切を感じる部分すらあります。これ以降の作品も、奇妙ではありますが、現代のAIには真似できないであろう作風の小説を相次いで発表し、いずれも人気を博しています。
純粋な文芸作品の部門ではAIによって大半の作家が駆逐され、一般的には突拍子もないといわれるような作風の作品が人間の書いた作品で数少ない生き残りとなっている。こういった状況ですから、どうせ単純な筆力ではAIには到底かなわないのだと考え、新人賞においても真っ向から純文学的な作品に挑戦する執筆者が減少し、阿弥陀川氏に追随してAIとは競合しない作風の作品を作ろうと考えることは、論理的ではあると思います。
ですが、その一方でこうした状況にはいち選者としては危惧を感じています。AIとの競合を避けるあまり、作品を通じて人間らしい感情の働きを描写し、読者の心に訴えるという、文芸作品本来の目的から離れているような印象を受けます。たとえ作品の質がAI作品に及ばないとしても、そこから目を背けては作品執筆の意義が失われてしまう。現在の令和文芸新人賞応募作品には、AI作品の手の届かないものを作るというのが第一の目的になり、本当に作者の作りたいものがこのテーマなのかと疑いたくなるほど、奇妙な作品が多くなっています。
さらに言うとすれば、若い作者がAIと比較されることを恐れ、シュールな作風の作品が世の中に増えれば、それらの作品もいずれAIが学習し、同様の作品を作れるようになるでしょう。現代ではAIの作れない作品として仮に世に出ることができたとして、それらがいつまでもAI作品と比較されないわけではないだろう、ということも言い添えておきます。
説明が長くなりましたが、ここから優秀賞受賞2作品の講評を行いたいと思います。まず、不動明王川修羅太郎氏の「手術台のキャットウォーク」ですが、この方は第1回から応募を続け、複数回の予選通過経験を持つだけあり、筆力については応募作品の中でも随一といえるでしょう。ただ、内容に関していえば、今回の作品は必要以上に奇を衒っているように感じます。木炭とハマグリと人間の三角関係の恋愛などというのは、いかにも阿弥陀川作品の亜流といったところでしょうか。この筆力で昨年までの応募作のように直球の純文学作品で応募していたならば、大賞に選んでいたかもしれません。
続いて羅刹山普賢菩薩氏の「おならプープー観音」ですが、こちらはタイトルに反し応募作品の中では比較的論理的な構成をしていました。しかし、AI作成の小説との差別化のためか、終盤になって唐突に仏道修行をしていた主人公がズッキーニ投げをオリンピック競技として認めさせようとして、オリンピックズッキーニ念仏を発明し世界に発信しようとする展開にはさすがについていけず、もう少しどうにかならなかったのかと思います。AI小説との差別化を目指そうとしたのは理解できますが、小説としての完成度で言えば、この展開が加わったことで小説としての評価は当然落とさざるを得ません。
応募作の全体的な総評として、AIの作成した小説といかにして差別化するか、あるいは競合しない小説とするかという点に各々が苦心していたところが伺えますが、選者としては、たとえAI小説に劣る出来栄えであったとしても、人間の作った小説ですから、人間の感情をいかに表現し、他者に伝えるかという本来の文芸作品の役割に主眼を置いてほしいというのが正直な感想でした。
一昔前は文章作成AIの方が、普通の人間では考えられないような突飛なものを作り出し、人間はそれに対しておかしみを見出していたものでした。しかし、AIの完成度が飛躍的に向上したことで、いつの間にかAIの小説を書く能力がほとんどの人間を上回り、人間の方がいかにAIの作った文章との競争を回避しようかと、かえって物笑いになるような突飛な発想を盛り込もうとしているのですから、実に皮肉なものです。
それでもやはり、書き手が人間であるからには、人間らしいあり方を描くことから逃げずに真っ向から取り組んでいただきたいものだと述べて、この選評を終わらせていただこうと思います。
(編集部注:この選評は、応募作品の査読用AI「選者くん」によって自動生成されました。)