30 魔女の誕生
魔女と呼ばれるようになった女は大昔、マリという名を持っていた――
マリは早くに父を亡くしたが、母と二人、レイダルグ帝国内の田舎の村で細々と生きてきた。
近くの誰かのところに嫁いで、年老いた母の面倒を見ながら慎ましく生涯を送る。
無垢な少女は、そんな未来を思い描いていた。
「お母さーん。お昼を持ってきたよー」
「マリもここで一緒に食べるのかい?」
「うん。守護獣を見てたいもん」
母は平民では珍しく、複数の魔法の属性を持ち、闇魔法も扱えた。その能力を領主に買われ、守護獣の世話係をしていた。
おかげで、母一人子一人でもなんとかやってこられた。
「ここは、モヤモヤが還っていくから安心する。守護獣って本当にすごいんだわ」
「そうかい……」
マリは聡明な子で、不思議な力があった。悲しみを拭えぬまま死んでしまった人間や、肉体を喪ったことを受け入れられぬ生き物たちの存在を感じることができたのだ。
だからこそ、生き物たちの安らかな眠りを願う心優しい少女に育っていたし、マリは闇の力を正しく受け入れてきた。
「マリも闇の属性を受け継いだのね。きっとお母さんよりも強いんだと思う。それで苦しい時もあるかもしれないけれど、その力は必ず誰かの役に立つわ」
「うん。私、お母さんみたいな人になるの!」
「おやまあ」
母の胸に飛び込む。温もりに包まれ、マリは幸せだった。母から愛情を注がれた少女は、健やかに成長する。
だが、彼女が十六歳の時、事件は起きた。母が世話をしていたルブラン・サクレが死んだのだ。
「なぜ守護獣が死ぬのだ! お前がヘマをしたんだろう!」
「申し訳ございません」
その守護獣は、現領主の五代前からこの地方に住んでいた。
二百年を迎え、ルブラン・サクレとしての身体を手離しただけなのだが、短い命を生きる人々に真実はわからない。
「母さんが悪いわけじゃないんです! 守護獣だって寿命があるのです!」
か細い身体を盾にして、懸命に母を庇う。
マリだけは守護獣が生を終え、肉体から離れただけであることに気づいていた。
「なんだ、この小汚ない娘は! どけ!」
縋りつくマリを、領主は足蹴にする。
「娘はルブラン・サクレの世話に一切関わっておりません。ご無礼は何卒お見逃しください」
この地の領主は、自分たちが皇族より強い絆でルブラン・サクレと結ばれた一族だと自負してきた。先祖代々守護獣に護られる、特別な家柄だと教えられていたのである。
「わが家系は、皇族以外で唯一守護獣と共に生きることを許されたのだ! しかも、その加護は一代限りではなく、子々孫々まで享受できるはずだったのに! お前一人の命で償える罪ではないぞ!?」
互いに庇い合い、娘の前に出てきた母の頬を、領主の剣の鞘が打ち付けた。
「母さん!」
「うっ。お願いです。どうか娘だけは……」
母は痛みを堪え、必死に懇願を続けるも、領主の耳には届かない。
「母親は守護獣を殺した罪で、今すぐ処刑しろ! わしに楯突いたその娘は、地下牢に繋いでおけ!」
マリの目の前で母親は殺された。母からは残される娘を心配する気配はしたが、その魂はこの世にとどまることなく還っていった――
(どうして……。母さんは何も悪い事なんてしていないのに……)
人に親切にし嘘も吐かず、風雨をしのいで眠り、食べていくためにただ、自分に与えられた仕事をまっとうしていただけ。
ぼんやりと、母との日々を思い出す。日の光が届かぬ闇は、マリの心に寄り添ってくれた。
しかし、幽閉されたマリの周囲を、罪人と死者の思念が渦巻き、彼女の心は日増しに蝕まれてゆく。
(あんなにも親しくしていたのに、誰一人助けてくれなかった……)
恨みが募る。貴族も村人も守護獣も憎いと思った。無知故に母を殺した貴族。母の魔法を頼ることもあったくせに、ただ見殺しにした人々。そして――
(守護獣さえいなければ母さんは……)
あんなにも大好きだったルブラン・サクレにまで、怨念を抱く。
地下に閉じ込められた彼女は、どす黒い感情に囚われ堕ちていった。
(あたしが望む世界を作れたなら……)
食事を受け付けなくなった身体は、みるみる衰弱していった。
弱りきった身体は自由を失ったが、魂は自由。マリは周囲に蠢く闇と混ざりあう。
それは、幼い頃モヤモヤと呼んでいたモノたちだった。
(どの貴族よりも偉くなって、皆、跪かせてやる……。守護獣? 不要だな……。あたしに寄り添ってくれたのは、この闇だけ……)
既に自分の身体は死んでいることにも気づかず、マリは世界を彷徨う。
死の香りを辿るうち、病に犯され死を迎えようとしている若い娘を見つけた。
その娘が意識を手放す瞬間、マリは身体に滑り込む。
その娘は子爵家の生まれで、ペットに真っ白な毛並みの犬を飼っていた。
「――獣臭い……。そいつをどこかにやって……」
肉体を得て目覚めたマリは、ルブラン・サクレを小さくしたような獣が、自分の側にいることに耐えれない。
意識を取り戻した娘が、かわいがっていたペットを突然手放すと言い出し、子爵家の人々は戸惑ったが、生死の境から生還した娘の言うことを受け入れた。
(あたしが望んだとおりになる)
綺麗な寝間着に、甲斐甲斐しい看病。美味しい物を好きなだけ食べられた。
皆にチヤホヤされる生活――マリは初めての経験に恍惚となる。
(これがもっと上の身分の人間なら? お姫様なら?)
だが、そもそも弱っていた娘の身体。手に入れたが、その生活は長く続かない。
賢い人間だったからこそ、マリはこんな暮らしを続けるための計画を練りはじめる。
(うす暗い世界で這いずるのは、二度と御免だ。あたしには、もっと相応しい場所がある)
それからマリは、主にレイダルグ帝国とシャンダール王国内の人間を、切らすことなく依り代とするようになった。
手始めに、年老いた権力者の身体に入り、都合のいい世界を整えだす。貴族島の建設や守護獣の平民地での管理制度の確立は面倒だったが、理想の国を作るためと思い我慢した。
(加齢臭がするじゃない。最悪。ジジイはもう沢山。やっぱり若い娘がいいね)
病気の娘の身体に入るより、若く健康的で美しい方がいい。さらに、身分が高い娘の身体に入るため、商人となり貴族に婚約の腕輪を売りつけたりもした。
(そろそろ、帝国に復讐しようかね)
婚約腕輪が貴族に浸透すると、比較的自由に身体を選べるようになった。
憎い獣を下に追いやり、偉そうな貴族を美貌でろう絡する。事は順調に運んでいた。
そろそろ次の身体に入り込もうと考えていた時、シャンダール王国の次期王と目される、王子マティスの婚約者がルシールに決まった。
(いよいよ私が王太子妃だよ)
三百年をかけ、彼女の思い描いた世界は間もなく完成しようとしていた――
だが、ルシールを見たマリは気分が悪くなる。
(全属性持ちか? あの獣と同じ魔力を放っていやがる)
同じ侯爵令嬢でも、選ばれなかったメレーヌは好ましかった。観察していると、てんかんの発作を起こすようで、身体を乗っ取れるチャンスは必ず訪れそうだった。
(獣臭い黒髪は地べたがお似合いだ。あんたじゃなく、私が王子の妃に――いや、この国の王妃になる)
そして、マリはメレーヌの身体に入り、マティスのメレーヌへの気持ちを利用し、ルシールを貴族島から突き落としたのだ。
これまでずっと念入りに準備をし、のしあがって来た。国の頂はもうすぐそこにあったはずなのに……。
(またババアの身体に入ることになるなんて! クソクソクソクソクソ!)
マティスの母――王妃の首に輝くネックレスには、妖しげな紋様が浮かんでいた――