愛する理由、愛される理由
続きます。
私の部屋の入り口からする声。
聞き慣れた二つの声は、私とお隣さんの間にあったどうしようもなく暗く、重苦しい空気を吹き飛ばすほど大きな声と、重苦しい空気の代わりに部屋の中に差し込む光のような優しい、とても優しい声だった。
私とお隣さんはその声の方を向いた。
そこには私の可愛い弟と私が捨てた真一がいた。
「どう、して。」
言葉が続かない。
何を言っていいのか分からない。
どんな言葉をかければいいのか見当もつかない。
だって私は独りになったのだ。
お腹の子供も、多分直ぐに私の元から離れてしまう運命だった。
私の手が震える。
手だけじゃない。
体全体が、喜びと恐怖で震え上がる。
怒られる
罵倒される
私が捨てた元カレは私に対して復讐できるチャンスだろうし、私が裏切った弟は私を罵倒できるチャンスだろう。
怖くて堪らなかった。
今までの人生で一番怖かった。
私が震えていると、お隣さんが私の体を優しく抱きしめる。
「ちょっとアンタ!ここは病室だよ?大声出したいならカラオケにでも行って騒いできな!」
「ご、ごめんなさい!俺、姉ちゃんの弟なんです!だから居させて下さい!」
弟はお隣さんに対して直角に頭を下げて謝罪をした。
お隣さんはそれを見てから少ししてフン、と鼻息を上げる。
「………まぁ、弟ならいいか。来るのが遅過ぎるけどね。……で?そっちのアンタは?」
お隣さんは弟の横にいる真一へと目を向ける。
「あ、俺ですか?俺……俺、俺、俺。……俺って今、時雨にとって何なんだ?」
「うぇっ!?兄ちゃん、なんでオレに聞くんだよ……!え、でも確かに今兄ちゃんって姉ちゃんのカレシじゃないよね?………兄ちゃんってなに?」
「俺という存在は誰なのか。うぬぅ、分からん。………すみません、取り敢えず、ただの見舞い人です。」
「見舞い人?にしては手ぶらだね。……出直して来なシャバゾウ。」
「うす、分かりました!……あの、参考までに聞いたいんですけどぉ………妊婦さん、妊婦後さん?……あ、お母さんへの差し入れってどういうものが良いかとかって、分かったりします?」
「いいから行け!気持ちが篭っていれば何でもいいんだよ!ほら行った行った!」
「あい!サーセン!行きます!」
真一は部屋に入る事はせずに、何処かへと走っていった。
弟はそのまま私の病室へと入り、少し頭を下げて私のベッドの横に立つ。
お隣さんは私のベッドの反対側にある椅子に座って足を組み、弟のことを睨むように見て黙っている。
弟はお隣さんの反対側に立ち、そのままお隣さんと私に向かって目線を向ける。
「あの、今からお話をしようと思うんですけど……」
「勝手にすれば良いさ。」
「いや、あの……退室してくれたりは」
「アンタ馬鹿かい?……あのね、アタシは赤の他人さ。アンタが弟って言うのなら確かに、姉弟の会話の邪魔なんてしないよ。……でもね、アタシは怒ってるんだ。」
「……オレにですか。」
「………フン、少しは気合いの入ったガキみたいだね。さっきのシャバゾウよりはマシな顔つきだ。でも違う。アタシが怒っているのはその小娘も含めたアンタ等家族に対してさ。」
「………姉ちゃんに対しても、ですか。」
「そうだよ。……いいかい?子供ってのは母親にとって命よりも何よりも、他に変わりなんて無いくらい命懸けで守り通す宝物さ。それをアンタ等の親は血の繋がりが無いなんていうくだらない理由で捨てたんだ。」
「………。」
「………。」
「小娘から弟のアンタの話は聞いたよ。親父に殴りかかったそうじゃないか。……そこは認める。でもね、ツッパリ気取るなら殺してでも姉を助けるくらいはツッパリな。泣き入れて部屋に戻るなんてのはこの上なくダサくて女々しいガキのする事だ。」
お隣さんは弟に対して本気で怒っているように見えた。
「………アネキが好きなんだろう?家族なんだろう?守りたいんだろう?だったらクソ親父の言いつけなんて無視して助けに行くんだよ。」
「オレ……。オレ、姉ちゃんを守りたくて。でも、父さんの言う事を聞かないと、母さんも怒られて……。」
「……よっぽど酷いクソ親父だね。うちの馬鹿亭主の方が百倍マシな男だ。」
弟が泣き出してしまう。
大声をあげて泣き叫ぶような泣き方ではなく、声を殺して涙が溢れないように片腕で顔を隠す泣き方だった。
昔から弟は、悔しい時や悲しい時にこの仕草をしていた。
(そうか、悔しいと思ってくれているんだね……。ごめんね、ありがとうね……。)
弟が私の為に涙を流してくれている。
それはもう二度と来ない未来だと思っていた。
「………それにね、アンタ。」
「………はい。」
「アタシはね、アンタにも怒っているんだよ。」
「……はい。」
「辛い過去だっただろうよ。思い出したくも無い事だっただろうよ。………そんな嫌な思いをして今まで生きてきたアンタは偉いよ。でもね、アンタは大馬鹿者だよ。」
「…………。」
「どうして自分の子供を諦めるんだい?どんな過去があったとしても、自分の命を捨てなかったアンタは偉い人間さ。それなのにアンタは赤ん坊の命を諦めない代わりに、赤ん坊を育てる権利と義務を捨てようとしてだんだよ?」
「でも、私には……出来ませんよ。お金も力も、何も無いんです。」
「………どんな事をしてでも。何があっても。死ぬ程辛い目にあっても死なずに生きる。赤ん坊と二人でね。……その為ならなんでも出来ると、どうして自分を信じてあげない?」
お隣さんは怒りながら、だけど慰めるように優しく、私を叱った。
「体を売って生きる事も出来る。水商売の世界は大変だよ?でも出来る。普通に働く事は子育てと両立させる事は難しいよ?でも出来る。世の中にどれだけシングルマザーがいると思っているんだい?こんな言い方をしたくないけどね………世の中にはアンタよりも悲惨な母親は星の数ほどいるんだよ?」
自分がこの世で一番不幸だ。
そんな風に思っているつもりは無かった。
でも心の何処かでそう思っていたのかもしれない。
「今は行政も進化していてねぇ。アタシ等が子供の頃の親世代なんて……そりゃあもう酷かったもんさ。旦那は浮気して帰って来ても洗い物一つしないで寝る。掃除も洗濯も料理も、全部母親がしたのさ。それが耐えられなくて別れる。……でも、大した助けなんて無かった。」
「………。」
「今は違う。アタシよりも若い母親世代のシングルマザーは、色々な助けを受ける権利を持ってる。それだけじゃない。人と人との繋がりも、絶対にアンタの助けになる。」
「………。」
「…………オイ、シャバゾウ。さっさと出てこい。」
お隣さんがそう言って、部屋の入り口付近を睨みつける。
「…………バレてたっすか。」
「舐めんじゃないよシャバゾウ?アンタみたいなシャバゾウ如き、見えなくても気配で分かるさ。」
「ヤベェ何者だよこのオバさん」
「誰がオバサンだクソガキ!アタシはまだ32だよ!」
「え、じゃあもう殆どオバサンじゃ」
「黙りな!50まではおねえさんだよ!……ほらそこのツッパリ!部屋を出るよ、着いてきな!」
「え、あ、ハイ!」
お隣さんは弟を呼びつけて部屋を出て行く。
部屋を出る時。
俺はお隣さん、とやらに小声で話しかけられる。
「何を買ってきたのか知らないけどね………ここに来たなら漢見せな。ふざけた事をしたと分かったらアタシがアンタのタマを潰す。」
「…………そうっすね。」
「あ?」
「そん時は2つ、一気に頼んます。姐さん。」
「…………ハッ!上等だ、棒も千切り捨ててやるから感謝しな。」
「…………ウス。」
さて
世間話でもしますか。
次回は会話オンリーです。
直ぐに書いて投稿します。




