先輩の場所に行けない日々は続いていた。
初めて佐藤先生に説教をされたあの日。
私の中の価値観は揺らいでいた。
今までの自分は、一体どれだけの人を傷つけていたのだろう?
真一の事を罵倒した私は、真一の事をどれだけ理解していたのだろう?どれだけ理解しようとしていたのだろう?
多分、理解しようと思っていなかった。
嫌い
その一言で真一の全てを語って、知った気になっていた。
何が正しいんだろう?
先生の言葉は今でも聞かされている。
人を傷つけるな
人を見下すな
人を敬って接する事を学べ
それらの言葉は私に深く刺さる。
傷つけている事なんて知らなかった。
テニスが弱いのも練習についていけないのも、努力をしない人達が悪い。
でもそれはそうやって見下していた相手に対して『傷つくような酷い言葉』をかけていい理由にはならない。
見下す事が悪い事だなんて知らなかった。
努力をする事は良い事で、良い事をする私は『努力をしない悪い人達』を見下しても良い権利があると思っていた。
人を敬う事を私もしなくてはいけないと、私は知らなかった。
私は人に褒められる事を望んでいた、人に尊敬される事を望んでいた、凄い人なのだと思われる事を望んでいた。
だけど他の人を敵視して、褒める事も尊敬する事もしなかった。
皆を馬鹿にして生きていた。
大切な事を教わっている。
それが分かる。
だって佐藤先生の言葉は私の心に残るから。
私はその日も『大切な心の授業』を受けていた。
午後の19時だった。
私は皆より遅く登校して、遅く下校をする。
最初の時だけはお父さんが送迎をしてくれたけど、その次からはお父さんの仕事があって、私は今までのように徒歩で登下校をしていた。
学校から出て、家へと向かう途中に通る駅での事だった。
空は雲で覆われていて、一雨降りそうな天気。
駅を通る人達は帰宅ラッシュのせいで大勢いて、私はその間をすり抜けて歩いていた。
私駅の中を通って反対側へ向かおうとしていた。
でも足が止まった。
大きな体格で、遊ばせているけど整った髪型。
程よく焼けた小麦色の健康的な肌。
道ゆく人々が二度見するくらい整った顔立ち。
そして私を見つめる眼。
「やぁ、時雨。」
そこには光一先輩がいた。
私の体は強張って動かない。
どうしてかは分からない、だけど一歩も動けない。
私の彼氏で、私を支えてくれて、私を愛してくれる最愛の恋人。
だけど私の中で何かが叫ぶ。
危険だよ
逃げて
気をつけて
近づいちゃダメ
何かが私にそう言っている。
でも体が動かない。
そう考えている内に、先輩は私の方へ向かって歩いてくる。
いつもカッコいい先輩の筈なのに、何故か今は怖い、という感情でいっぱいだった。
先輩は私の目の前まで来て、私の体を抱きしめる。
「心配したよ。……暫く部活に来ないからさ。」
「先………輩………。」
体が動かない。
足を動かして先輩から離れようとしても、足は震えるだけでその場からは動いてくれない。
私が体を先輩から遠ざけようとしても、体は先輩に抱きしめられたまま動かない。
先輩がほんの少しだけ抱きしめる力を緩める。
私はその弾みで先輩から離れようとしたけど、先輩はそれ以上力を緩めない。
その緩みで出来た隙間は、抱きしめられた状態でも先輩と目線を合わせられる距離だった。
私と光一先輩の目線が合う。
吸い込まれそうな瞳。
甘い香りがしそうな優しさの微笑み。
だけど
どうして怖いの?
私の体は強張りを強める。
まるで何か怖いモノから体を守るように。
「最近、生徒指導室に行っているんだって?」
「は、い。」
「大方、時雨の事を理解できない無能が騒いだせいだろう?………いいよ。そんな場所で時間を無駄にしなくても。」
「無、、、駄、、、、?」
「無駄だよ。いいかい?時雨の素晴らしさを理解できない奴らと一緒にいる事なんて無いんだよ。時雨は俺と一緒に上を目指しているんだから。それに生徒指導室を使う教師はあの佐藤だろ?あいつは時雨みたいな可愛い女の子を狙う変態なんだ。俺は時雨が心配なんだ。」
「……そんな、事」
「どうして?俺はこんなにも時雨の事を心配しているのに。俺は時雨を愛しているんだ。元カレや佐藤みたいに時雨を馬鹿にしたり、コケにしたりしないよ?俺だけは時雨を大事にするよ?いつも頑張っている時雨を応援しているよ?時雨だけが大切なんだよ?」
「わ、、た、し、、、だ、、け」
「そうだよ。その通りだよ。俺だけは時雨の味方だ。他の底辺の連中が時雨に何をした?時雨を迫害して、馬鹿にして、時雨の努力を認めなかっただろう?」
「…………ダメ、」
「ん?」
「………先輩、、ダメ、」
「駄目って……何が?」
「馬鹿に、、しちゃ、ダメ、なんです、、、皆、私と同じ、、、、人間、なんで、す、だから」
先輩は私の事を肯定してくれる。
でも、違う。
見下しても良い事は無いの。
私だけが特別じゃ駄目なの。
私も皆も努力しているから、だから
「可哀想に!俺の可愛い時雨………君は騙されているんだ!良いかい?君と俺のように、勉強もスポーツも努力して、成功して、周りにそれを教えてあげている存在が、どうして周りのゴミと同じだなんていうふざけた評価を受けなければいけないんだい?」
「せん、ぱい、、、なに、を」
「時雨。俺の、俺だけの可愛い時雨。他の物なんて見なくて良い。他のゴミなんて見なくて良い。これ以上頑張らなくても良いんだ。君は今より辛い事なんてしなくて良いんだ。周りに合わせる努力なんてするな。周りに気を使うなんて無駄な事はするな。時雨を切り捨てた奴らの事なんて気にするな。大丈夫、俺だけは時雨を捨てないよ。」
「ち、ちが、う、の、先輩。きい、て」
「大丈夫だよ時雨。俺と一緒にいれば何も心配いらないよ。何も不安な事なんてないよ。時雨は何も間違えていない。時雨は俺と一緒に幸せになる事を選んだんだだろう?俺を捨てるの?時雨が俺を選んだのに?時雨が元カレを捨てたのに?それなのにあんな不良教師にくだらない戯言を言われただけで、元カレと同じように俺を捨てるの?時雨は酷い人間なの?」
「、、、い、いや、」
嫌だ
捨てたくない
真一と同じように
嫌だ!
もう間違えたくない!
私は幸せになりたい!
「捨てないよね?俺は時雨を愛してる。時雨も俺を愛してるよね?真一みたいに捨てないよね?俺と一緒に来てくれるよね?何があっても間違えないよね?」
「わたし、、は、、」
そうだ。
私は間違えない。
もうこれ以上、捨てる事なんてしない。
駄目だ。
やられて嫌な事はしちゃ駄目だ。
真一にしたように、捨てて傷つけるなんてもうしちゃ駄目なんだ。
「一緒に行こう?時雨、俺と一緒に生きていこう?大丈夫何も心配要らないよ。時雨は何も間違えてないよ。だからこの先、ずっと幸せが続くよ。ついて来て?」
頭がフラフラする。
忘れちゃいけない事。
間違えちゃいけない事。
してはいけない事。
学んだ、学んだんだ。
私は………あれ?
誰から学んだ?
あれ?
でも、私は大切な心を
あれ?
あれ?
なんで?
……………分かんない、なんで?
心のどこかで誰かが叫ぶ。
逃げて
駄目だよ
気づいて
ーー先生だよ
ーーちゃダメだよ
ーーしてはいけないよ
忘れないで
ダメ
だめ
駄目
「時雨。大切な時雨。考えるのは辛いだろう?悩むのはくるしいだろう?嫌な事はしたくないだろう?大丈夫だよ。俺といれば時雨はいつまでもずっと、幸せでいられるよ。だから来て?」
叫びが小さくなっていく。
ーーて
ーーよ
ーーて
ーーーーだよ
ーー
ーー
ー
………
「もう大丈夫だよ。……もう辛い事は無いよ。…………もう戻れないよ。………………もう引き返せないよ。…………もうどこにも帰れないよ。……………もう終われるよ。お疲れ様、俺の可愛い時雨。」
私の体が先輩に抱き抱えられる。
先輩は何処かへそのまま向かう。
車
怖い
人がいっぱい
怖い
電車
怖い
駅
怖い
人
怖い
人
人、人、人
人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
「いや………!怖い…………!」
私は先輩の体に抱き抱えられたまま、先輩に抱き着く。
先輩は私を見る。
そして微笑む。
「大丈夫だよ、俺が守るよ。俺は、俺だけは時雨の味方だよ。人は怖いよね。乗り物は怖いよね。いっぱい人がいるのはもっと怖いよね。知らない人は怖いよね。でも俺は怖くないよ。俺は時雨が大好きだよ。時雨も俺が大好き。時雨だけいればいい。俺だけいればいい。そうだよね?俺達だけでいいよね?」
先輩は私に優しく語りかける。
先輩の笑顔が私を守ってくれる。
先輩だけは私の味方でいてくれる。
「だけど時雨を守る為には、時雨を守れる場所へ連れて行く為には、車に乗らなきゃいけないんだ。乗れるよね?車は怖いけど、それでも俺がいれば乗れるよね?だって時雨は強いもんね?泣いちゃっても、俺さえいれば我慢できるよね?」
先輩………
「……う、、、ん、、乗、、れる、よ、、、?」
「時雨は良い子だもんね?ちゃんと俺の言う事を聞けるよね?だって時雨は俺の方が大好きだもんね?」
「…………うん、私、良い子だから、車、乗れる、よ、我慢、できるよ、大好き、だもん。」
「そうだね、良い子だね。俺と一緒にいなきゃ駄目だよ?俺がいなくても外にでちゃ駄目だよ?だって外は時雨をいじめるんだよ?良いの?いじめられちゃうよ?」
「いや……!いじめ、ないで、!………良い子にする、なんでも、言うこと、、聞く!やだ、先輩、やだ、一緒、一緒が、いい、、やだぁ…………」
私の目から涙が溢れる。
嫌だ、先輩と一緒にいたい。
先輩と一緒にいなきゃ虐められちゃう。
先輩と一緒にいないと怖い。
でも先輩の言う事は聞かなきゃ。
なんでもしなきゃ駄目だ。
駄目。
駄目な事はしちゃ駄目なの。
私の体は車に乗せられる。
私は先輩に抱き着いたまま、車で運ばれる。
車はどこまでも進んでいった。
どこまでも、どこまでも。
この街を出て。
どこまでも。