選んだ道
続きます。
春風が私の頬を撫でる。
桜の花びらが宙に舞う季節の中。
私は校内を昇降口に向かって歩く。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと、自分のペースで進んでいく。
ドンッ、と肩がぶつかる。
「あ!すみませー……え、あ」
男の子が驚いた表情で私を見て、言葉を止める。
「馬鹿っ!アンタ何やってるの!……すみません、お怪我はありませ………ん、か?」
女の子は男の子の頭を叩く。
「……いえ。大丈夫です、ありがとうね。」
男の子は何度も謝る。
女の子もそれに追順して謝る。
私は勢いを受け止める事ができず、よろけてしまったのだ。
そして私は立ちあがろうとする。
二人は私が立ち上がろうとするのを手伝ってくれる。
優しい子たちだと思った。
仲が良いように見えたけど、幼馴染とかなのかもしれない。
きっと周りが見えない程、喜んでいたのだろう。
彼らは多分、今年に入学をした新入生。
見た事がない顔だし、制服に着られている感じがした。
それにその表情はとても明るい。
きっとまだ何も分からない綺麗な状態で、純粋に進学を喜んでいるからだ。
少し羨ましい、と思う。
無邪気にはしゃぐその姿が私にはとても美しく思えた。
昇降口で靴を脱ぐ為に屈む。
久々の登校だ。
自分の靴箱がどこにあるのかを思い出すのに時間がかかる。
確か……上から四番目の右から三番目。
でも、今日くらいは仕舞わなくて良いかも。
私は靴を綺麗に玄関口に並べる。
そして奥へと進んでいく。
校舎の中を歩きながら見回していく。
思えば私は、今まで一度も校舎の中をまじまじと見る事は無かった。
この機会にじっくりと観察をしてみる。
掲示板に貼ってある連絡事項の書かれた用紙、学生の書いた防犯ポスター、部活動の紹介の為のパンフレットの一部。
ここには青春の一部を飾ってあった、という事を初めて知った。
知る事ができて良かった、と私はこの時間に感謝をする。
職員室へ向かう。
職員室には大勢の先生がいる。
その中で、私は担任の先生に話をしに行く。
数分間の会話を終え私は先生に対して会話の礼を、職員室を出る時に退室の礼を限界ギリギリまで頭を下げて行う。
職員室での用事を終えた私は昇降口へ戻る。
昇降口を出る際に一度だけ校舎の方を見て、少しして歩き出す。
校門に向かって歩いていると、私は部活棟へと辿り着く。
久しぶりの学校で道に迷ったのか、それとも無意識にここに来てしまったのか、理由は分からないけど私の前には『学校生活の大半を過ごした』女子テニス部の部室があった。
部活が楽しかった日々を思い出す。
この記憶はかけがえのない宝物だ。
涙が溢れそうになる程綺麗な宝物。
だけど、今は少し寂しい雰囲気だった。
今の女子テニス部は部員数がかなり少ないようで、以前のような活気は感じなかった。
私はコートの方を一度だけ見る。
そして目を瞑り、元来た道を戻る。
校門へと歩みを向け為に。
校門の前で、私は足を止める。
振り返る。そして校舎の上を見る。
そこにはフェンスに囲まれた屋上があり、今は立ち入り禁止となっている私の思い出の場所でもあった。
数秒間、私は屋上を見つめる。
そして私は自分の足元に目を向ける。
コンクリートの窪みで引かれた線。
それは学校の敷地外と敷地内を分ける線。
ここを一歩でも外に入れば、そこは学校の手の及ばない無法地帯になる。
ここを一歩でも中に入れば、そこは学校に守られた聖地となる。
そんな場所がここ。
私はそんな場所の、一歩中にいる。
そしてわたしはその線を一歩外に踏み出さなければならない。
嫌だなぁ
超えたくないなぁ
でも超えなくてはならない。
私は外に出なければならない。
何度も超えたこの一線は、とても重い物に見える。
登下校中も、部活の際も、意識する事無く私は超えてきたのに。
今はこの一線を越える事に恐怖すら感じている。
でも、いつまでも躊躇している事は出来ない。
私は学校の外に出た。
私は自宅へと向かう。
通りすがりの人達は私を見て、そして目を逸らす。
私は自分の進路だけを意識して歩く。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。
私の存在を証明するかのように、しっかりと。
数分も歩くと自宅が見えてくる。
私の前には人がいる。
近所に住む主婦の人達だ。
主婦の人達はヒソヒソと隠し話をしている。
私はその人達と目が合い、頭を下げて通り過ぎようとする。
でも主婦の人達は頭を少し下げ、私が通り過ぎるより先にそれぞれの家に入っていく。
私はその姿を目で追う。
でもその行動に意味は無いと気づき、目線を前に向ける。
私は自宅への足を再び進める。
階段の前に立つ。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。
今度は確実に一歩ずつ安全を確かめるように、しっかりと登っていく。
玄関のドアを開けようとして、私は鍵を上着のポケットから取り出す。
かなり昔の薄汚れたキーホルダーがついたその鍵を、私は鍵穴に差し込み回す。
自宅のドアを開ける。
「ただいまー。」
私はそう言って部屋の奥に向けて帰宅の挨拶をする。
だけど返事は無い、多分出かけているのだと思う。
そして玄関に入った瞬間。
とてつもなく凶悪な臭いが辺りに広がる。
生ゴミとアルコール臭の混じった臭い、タバコと香水の混じった臭い、カビと埃の腐敗した臭い。
私は少しだけ顔を歪める。
だがもう慣れてしまっているので大して気にも止めず、私は換気のために窓のある奥へと進む。
窓には黒カビと埃が積もっている。
取っ手と鍵の金属部分は錆び切ってしまっている。
でも触らないと開けられない。
それにもう錆程度、なんとも思わない。
ガラガラガラッという金属とプラスチックが擦れる音が響き渡る。
そして同時に隣の方向から怒鳴り声が聞こえる。
「ちょっと!窓を開けるなって、いつも言ってるだろう!?」
隣に住むこの女性は、いつもベランダでタバコを吸う人で、私はゴミの臭いのお叱りを会うたびに言われている。
でもゴミの臭いを撒き散らしているのは私なので、私は謝るしかない。
「すみません……。直ぐに閉めますね。」
そう言って閉めようとする。
「お待ち!どうせ窓を閉めても臭いがする事に変わりは無いんだよ!ゴミを捨てないか!」
「すみません……直ぐにゴミ捨てをしますね。」
私はゴミをゴミ捨て場に持って行く為に家の中に戻ろうとする。
「だからお待ちよ!どうして最近の子は人の話を聞かないんだい!?」
お隣さんはまた、私を呼び止める。
「すみません……でも、ゴミを捨てないと」
「今日はゴミの日じゃないよ!……アンタ、ゴミ捨ての曜日表を渡したのに読んでないのかい?」
そう言われて私は、頂いた曜日表が貼ってある筈の壁の方を向いて確認をする。
だがそこに曜日表は無く、画鋲で空いた穴があるだけだった。
多分、画鋲と一緒にゴミの中に埋まっているのだろう。
「……すみません。曜日表を無くしたみたいです。」
「………曜日表を無くすってどういう……ああっ!もう良い分かったよ!新しいのあげるから、それ貼っときな!無くすんじゃないよ!」
そう言ってお隣さんは家の奥へと戻っていく。
多分私にくれるという曜日表を取りに行ったのだろう。
私は取りに行ってくれている間、家に戻って待っているのも悪いと思い、そのままそこでお隣さんを待った。
数分後、お隣さんは帰ってきた。
「はいよ!もう無くすんじゃないよ!」
「すみません。………いつもありがとうございます。」
「そう思うなら少しはしっかりして欲しいもんだね。」
そう言ってお隣さんはタバコに火を点ける。
だがその手を止める。
そして私を睨みつける。
「………。」
「………。」
「………。」
「………あ、あの、何か?」
「…………戻りな。」
「え、あの」
「いいから戻りな。」
「でも」
「………いいから」
お隣さんは大きく息を吸う。
「いいから黙って部屋に入って寝てなッ!」
お隣さんは大声でそう怒鳴り散らすと部屋の中に戻ってしまう。
私はまだお礼を言い足りなかったが、お隣さんのいう通り、家の中に入ってゴミの上で座りながら寝た。
それからほんの少しだけ経った頃。
私は玄関のチャイムの音で目を覚ます。
『おいっ!開けな!起きてるのか!開けな!』
ドンドン!と強く何度も扉を叩く音が聞こえる。
妙に焦ったようなそのお隣さんの声を聞き、私は何事かと思い扉を開ける。
「な、なんですか?どうしました、火事ですか?」
「アンタ!………良かった!生きてたのかい!」
そう言ってお隣さんは私の顔を抱きしめる。
「生きて、た……?一体なんの話ですか?」
言葉の意味がわからなかった。
「このバカガキが!妊婦なら妊婦と何故言わないんだい!?」
そう言ってお隣さんは怒鳴る。
「あのゴミ山に住んでいる人間なんて関わりたくもなかったさ!それでも制服を来た妊婦なんて見たら放っておけないだろう!」
ゴミ山。
多分、リビングに積んである袋の事だ。
………あれ、なんか
「親は何処にいるんだい!?それとアンタの旦那は!こんな誰が見ても分かる臨月のお腹!身重だって分かるだろうに!」
「………親、はいませ、ん。結婚、もして、ない、です、あ、」
視界が回る。
「ちょっとアンタ!しっかりしな!オイバカ亭主!ちょっとこっち来い!!起きろ!!今すぐ来なきゃ離婚だバカ亭主!!」
「………んだぁ?うっせぇなぁ……うおっ!?おい、それ」
「早く救急車呼びな!!」
「わ、分かった!」
あ、あ、あ、どし、よ、い、いい、いしき、もたな
「気をしっかり持ちな!!」
誰かの声が聞こえる。
誰かが私の体を支える。
私の手から、足から、首から、力が抜ける。
私の目の前が真っ暗になる。
私の体が沈んでいく。
誰かに私が沈められる。
続きます。




