第6話
○登場人物
四宮菜奈・しのみやなな(誰からも好印象を受ける表面を繕いながら生きている)
豊永一弥・とよながかずや(完璧な外見を併せ持って女性からの強い支持も持つ)
四宮貞男・しのみやさだお(菜奈の父、病院の副委員長で人望が厚い)
四宮菜子・しのみやなこ(菜奈の母、家族思いで思いやりが強い)
林田千鶴・はやしだちづる(菜奈の友達、劣等生で人を信じて疑わない)
唐木田千治・からきだせんじ(先輩刑事、事件をしつこく追い続ける)
牛嶋大悟・うしじまだいご(後輩刑事、唐木田とともに事件に迫る)
お前はどうして生きてるんだ。
生きてることが恥ずかしくはないのか。
愛する人一人の生命を奪っておいて、よくのうのうと生きてられるな。
お前は悪魔だ。大切な人間の生命すら記憶から排除するような人間だ。
そんな奴、この世にいる意味なんかない。
視界に入ると瞳が腐る。身体に触れると菌がうつる。
生きる意味がないのなら居なくなればいい。
だから、私たちがお前を排除してやる。
あの日から復讐は始まったんだ。
全てはあの時から動き出していたんだ。
私はお前を失くす覚悟を決めた。
愛する人のために。ただ、そのために。
時間は長く掛かったけれど、その時が来た。
ついに、ついに、私たちの願いが叶う時が来た。
どれだけの努力と我慢を重ねてきたか分からない。
でも、それが実を結び報われる。
全てが終わったら、あなたと結ばれたい。
あなたの髪に触りたい。
あなたの温度を感じたい。
あなたの手のひらの大きさを確かめたい。
あなたの胸の厚みに委ねたい。
あなたの背中に身をあずけたい。
あなたの瞳に強く見つめられたい。
あなたの匂いを嗅ぎたい。
あなたの肌をこの手でなぞりたい。
今まで耐えてきた分、あなたをたくさん欲しい。
「一昨日の夜、安里市立病院が入院していた患者に誤った薬を投与して死亡させる事件
が起こりました。亡くなったのは内浜そよさん、70歳。病院側の説明によると、内浜さ
んを担当していた医師が本来投与するべきものとは違う薬を指示してしまい、容態が急変
したとのことです。内浜さんは一昨日の昼にこの病院に入院したばかりで、疑問に思った
家族が病院に医療ミスを指摘したところ、病院側がこれを認めて謝罪しました。安里市立
病院では6月に薬物混入による連続殺人事件が起こったばかりでした」ブラウン管を通し
て伝わる全国放送のアナウンサーの言葉が菜奈の心内を奮わせた。二泊三日のバドミント
ン部の長野合宿の最終日の朝、部員全員が朝食を食べるために集まっていた食堂に流れて
きたニュースにそこは騒然となった。小さい頃から通ってきた地元の病院が二度ならず三
度までも思わしくない報道にのったのだから当然だ。あの病院何やってんの、もう行けな
いよぉ、潰れるんじゃないの、長野に来ててよかった、と他人事の言葉がいくつも飛んで
いく。その中で、四宮菜奈だけはテレビの画面から固まったように視線をはずさなかった。
湧き上がる感情を押さえ込むのがやっとだった。
「菜奈、これって大丈夫かな」千鶴が気にかけてきた。気遣って、あえて本質には入り
こまないようにしている。言いたいのは、貞男が大丈夫かということだろう。
「昨日の夜ね、家に電話したときにママに言われたんだ。明日帰ったら大事な話がある、
って」電話口の菜子の神妙な様子で何を言いたいかは分かった。
「ねぇ、それって・・・・・・」
「パパが関わってる、ってことだと思う」菜奈はテレビ画面から視線を外さずに言った。
千鶴はそれから何も話しかけてこなかった。どんな言葉をかけていいか分からず、菜奈の
手をそっと握ってくる。いらない優しさだったが、菜奈も言葉はなしにそのままでいた。
「私も君のことは高く買っているのだけどね、今回は事が事だ。周りからもそれ相応の
処分がなければ納得してもらえないだろう。処分については追って報告する。それまでは
自宅謹慎だ」院長からの言葉を貞男は何度も頭の中で繰り返していく。これだけの大事を
起こしてしまったのだから、と辞意も伝える覚悟だった。医師として、患者の生命を個人
のミスで奪ってしまったのだから当然だと思った。なのに、出来なかった。菜子と菜奈、
家族との温かい生活を思い起こすとどうしても自制が働いてしまい。患者の命を失くして
おきながら、自分の家庭を壊すことをためらってしまった。情けなかったが、今ある嫁と
娘との生活を留めたかった。
内浜そよへの投与薬を間違えた実感はなかった。確かに正しい薬品名を書いたはずだ。
でも、現実は違う薬品名が記載されていた。字も間違いなく自分のものだ。だから、自分
が誤って書いてしまったということだ。それでも、現実は受け入れがたかった。どうして
俺はあんなミスをしてしまったんだ。あんな間違いをするような人間じゃないはずなのに。
周囲の反応は冷ややかなものだった。医者にも看護婦にも今回の件を謝罪して回ったが、
誰もがどんな言葉をかければいいんだろうかと模索したまま何も言うことはしなかった。
全員が心の中では自分のことを罵っていることだろう。
何よりも忘れられないのは被害者家族への謝罪の場だ。内浜そよが亡くなった後、親族
から「こんなのおかしい」と医療ミスを指摘された。病院側はどうする対応がいいのかと
考えたが、親族は的確な回答がない場合は警察に調べてもらうと言ってきたので現実を話
すことに決めた。院長とともに被害者家族へ医療ミスを含めた全てを報告すると、親族は
怒りをあらわにして暴言に近い言葉を並べた。仕方ない、それだけのことをしてしまった
のだから。こちらがどんなに頭を下げても許されはしないんだ。結局、親族は訴訟も辞さ
ないという含みをして帰っていった。親族たちの顔は今も頭から離れない。きっと、この
先も離れることはないだろう。この罪を一生携えていかなければならないのだから。
貞男はベッドに座ったまま、深く溜め息をついた。部屋の窓から外を見てみる、見える
のは平凡な街の景色だ。それでも何度と見返す、今は何もする気にはなれなかった。昨日
帰宅してから、ほとんどこの自分の部屋に居つづけている。自分の部屋なのに、こんなに
いることが珍しかった。これといった趣味もないので自室に篭ることもない。いつも大概
はリビングで家族といる。休日も家族サービスに徹している。それが一番の心の安らぎに
なるからだ。自分はそんな家族にも酷いことをしてしまった。昨日は菜子は気を遣って特
に何も聞いてはこなかったが本心は分からない。自分の結婚した相手が人を死なせてしま
った現実をどう受け止めているのか。
コンコン、ドアをノックする音が聞こえた。「ぅん」と適当に返事をする。インターホ
ンの音が微かに聞こえていたので来客かもしれない。
「刑事さんがお話を聞きたいって来てるんだけど」刑事、という単語に貞男は敏感に反
応した。逮捕という言葉が頭にちらつく。まさか、そんなことはないだろうと思い直す。
しかし、自分のしたことは結果的に殺人となるのでは。嫌な思いが離れず、急に緊張感が
増してきた。「あぁ、通してくれ」
「失礼させていただきます」部屋の中へと入ってきた2人の刑事には見覚えがあった。
片方は白髪の老いた刑事、もう片方は黒髪の若い刑事。2人とも会った記憶はある。そう
いう表情をしたのかもしれない。刑事の方から「お久しぶりになりますかな」と言ってき
た。薬物混入事件の時に病院の方で、と老いた刑事が付け足すとようやく思い出すことが
できた。以前の連続殺人事件の際に病院で事情聴取を受けた刑事だ。
特に大きな反応はせず、軽い会釈だけをした。刑事は再び自分の名前を名乗った。老い
た方が唐木田千治、若い方が牛嶋大悟。
話し始めたのは唐木田だった。「いやぁ、まさかこんな形でまたお会いするとは思って
ませんでしたよ。病院の方にも少し話を聞きましたけど、あなたは中々優秀な医者だと皆
さんおっしゃってました」
反応をしないと、何かを察したように唐木田は一つ頷いて続きを始める。「いくつか、
お聞きしたいことがあります」
「今回の件に関しまして、まだ何かお話されてないことなんかはありますか」
「いえ、全てこれまで話したままです」
「内浜さんに投与するはずの薬をカルテに誤記した、と」
「はい」
「こんな聞き方はあれですが、どうして今回に限ってそんなミスを」
「分かりません。自分では正しく記述したはずなんですが・・・・・・間違っていたと
いうことでしょう」
「そうですか。では、話を変えます。以前の薬物混入による連続殺人事件の時のことで
すが、あなたは佐藤太吉の事件の時は病院の副院長室にいたとなっていますが具体的には
何をしていたんでしょうか」
急な話の転換に貞男は当日の夜のことを思い返す。「その日は・・・・・・多分、地域
住民との説明会に関する資料を作成していたと思います」
「へぇ、副院長はそんなことまでやってるんですか」
「管理職はいろいろやる事があるんです。医者としての仕事だけでなく、病院をどうや
って盛り立てていくかということも考えていかないといけません」
「ほぉ、そいつは大変ですな」貞男の話に、唐木田はつくづく万年現場の刑事を選んで
よかったなと思った。「次にですが、野戸平蔵の事件の時については仕事には入ってなか
ったことになってますね」
「その日は夜まで仕事をして家に帰りました」
「寄り道はせずに」
「はい」
「帰宅してから外出した、ということは」
「なかったはずです」
「・・・・・・そうですか、分かりました」
「あの、これは何を聞かれてるんでしょうか」今回の医療ミスについてなら分かるが、
なぜ今になってあの連続殺人事件のことについて聞かれるのか、貞男は不審に思っていた。
「いや、大したことじゃありません。私が個人的に聞きたかっただけですので、お気に
せずに」これ以上はいいだろうと思い、唐木田と牛嶋は今日のところは引き上げることに
した。「では、これで失礼させてもらいます」
四宮家を後にすると、唐木田は首をひねった。「これといったもんは出んかったなぁ」
牛嶋もその意見に同感だった。「そうですね。何か新しい展開があるかな、なんて淡い
期待を持ってたんですけど」
「そううまくはいかんか」
「でも、これで諦めるわけにはいきません」
「そらそうや。こんぐらいでヘコたれてたまるか」四宮貞男が連続殺人事件の真犯人。
今回の事件により、2人はそう新説をたてた。確かに、病院内部の人間ならば薬品を入手
することも素人に比べれば断然可能だ。証拠を見つけるのは難しいが、アリバイを崩すこ
とができればそこを突くことが出来る。「四宮貞男の周辺、徹底的に調べるぞ」
「任務の遂行、ご苦労様でした。あなたが頭のいい人間でよかった。約束の通り、写真
や書類はあなたに返してあげます。ただ、一応言っておきますが、今回の一件に関して何
人たりにも他言は無用です。第三者に知られることがあった時点で、あなたがどうなるか
は優秀なその頭で考えてもらえれば分かると思いますけど」楽山が病院での仕事を終えて
帰宅すると、このメールが受信されていた。文面のとおりに郵便受けには脅しに使われた
写真や人工妊娠中絶同意書の入った封筒が入っていた。これで、これで忌まわしい膜から
解放される。四宮副院長には悪いことをしたが、やはり自分に勝るものはなかった。今回
のことは自分の中にだけ押し込めておけばいい。それで全てが終わるのなら。
いつもなら穏やかな空気に包まれるはずの食卓が重い空気に包まれていた。菜奈が夜に
帰宅すると、そこには今まで通りの温かな四宮家はなかった。淀んだ、何か別の家にでも
いるような感覚だ。荷物だけ置くと、貞男と向かい合うように菜子と菜奈はテーブルに腰
かけた。貞男は髪型も乱れていて、髭も伸びたままになっている。気力というものが抜け
落ちたような父親の姿だった。
―そう、その顔が見たかったんだよ。
「菜奈もテレビを見て知ってると思うけれど、一昨日の夜に病院で高齢の患者が亡くな
ったんだ。急に容態が急変しておかしいと思ったが、誤った薬を投与させてしまっていた
ことに気づいた」貞男の声は元気のないものだった。「カルテを見て愕然とした。やって
はならないことをやってしまった、と」
菜奈は疑いの目で貞男を見る。「やってしまった・・・・・・って」
「俺の担当患者だった」貞男は上に視線を向け、また伏せた。「俺が死なせてしまった
んだ」
大きな反応は示さなかった。代わりに、息遣いの不自然さで心の動揺を表した。右隣の
菜子は下を向いたままだった。そこまでの驚きがないことからすると、もう話を聞いてあ
ったのだろう。菜奈は忙しなく視線をキョロキョロさせた。心内の不定さを見せるように
しながら、両親の様子を観察していく。貞男も菜子も俯いたまま、死んだような目をして
いる。重苦しい空気の中で掛け時計のカチカチと鳴る音がいつもの何倍もはっきりと耳に
響いてきた。
「パパは・・・・・・」最初に口を開いたのは菜奈だった。「パパはどうなっちゃうの」
貞男は視線を上げ、菜奈と目が合うとまた伏せた。「分からない。とりあえず、昨日か
らは謹慎になっている」
「いつ戻れるの」
「分からない。もう戻れないかもしれない。院長は俺にいいようにしてやりたいと言っ
てくれたが、正直どうなるか保障はない。人の命を奪ってしまったんだから、免職も仕方
ないはずだ。遺族から訴訟を起こされるかもしれない。どの道、かなり厳しいことになる
と思う」貞男は申し訳なさそうに一つ一つの言葉を言っていく。今、どれだけ無残な境遇
にいるのだろうか。
「そんな・・・・・・」
「本当にすまない。謝ったぐらいでは許されないのは分かっているが」そう貞男は菜奈
に頭を下げた。菜奈は何も言わずに頭を伏せる。
「ねぇ、菜奈」ここまで何も言わなかった菜子が突然口を開く。「もしかしたら、今回
の事でお父さんは今の市立病院を辞めることになるかもしれない。それに、菜奈も学校と
かで周りからいろいろある事ない事を言われたりするかもしれない。これはまだお父さん
の事がどうなるか決まらないと分からないけれど、どこか他のところに引越しをするかも
しれない」
「嫌だよ。そんなの絶対嫌だ」菜奈は首を大きく振って言う。「まだ何も分かんないん
でしょ。そんなこと言わないで」
「もしかしたら、だから」強調して菜子は言った。
「私、病院にお願いするよ。だって、パパが辞めないといけないなんておかしいもん。
そりゃ、パパがやったのはいけないことだと思うけど。でも、それでも、それ以上にパパ
はたくさんの人達の病気を治してきてるんだよ。なのに、今回の一回だけで辞めさせられ
るなんてあんまりじゃんか」菜奈は強い瞳で貞男に訴えかける。
「菜奈・・・・・・」
「パパはすっごく良いお医者さんだよ。私、これまでずっと見てきてるから分かるよ。
そんな、みんなに責められなきゃいけないなんて変だよ」
「菜奈・・・・・・ありがとう」愛する家族からの言葉は何より身に沁みた。どんな特
効薬より効き目は抜群だった。
「大丈夫。私はパパの味方だから」菜奈は貞男の両手をとって笑顔を見せる。隣で見て
いた菜子は12歳の娘に大きな頼もしさを覚えた。この子がいればどんなことがあっても
大丈夫、そう思わせてくれた。
「どうしたの」その言葉に振り向いた瞬間、千鶴は大きく驚いた。ボーッとしてる間に
豊永の顔が自分の顔のすぐ近くに来ていたから。ドキドキする心臓はあまりに素直だった。
「さっきから心ここにあらずな感じだけど」確かに今日は考え事をすることが多かった。
菜奈の家にあんなことが起こり、他人事ではなかった。
「もしかして、俺とじゃつまんないかな」
「うぅん、違うの。全然そんなんじゃないから」千鶴は強く首を振って否定した。ダメ
だな自分、とつくづく思う。自分のせいで豊永を不安にさせてしまっている。
今日は豊永一弥の方から誘われた。合宿の時に送ったメールから心の距離が縮まり、一
緒に会いたいと言われたのだ。千鶴にしたら、まさかと思う展開の連続で戸惑いが勝って
しまうのも仕方なかった。どうして自分なんかに、と未だに不思議は頭を離れようとして
くれない。菜奈は励ましてくれるが、どうにもそう思わずにはいられなかった。自分と豊
永じゃ釣り合わない、そんなことは重々承知している。こんなデートのようなことまです
る関係なんて周りにバレようものなら何を言われるか怖くなってしまう。それでも、豊永
がこうして自分を誘ってくれている現実が嬉しかった。この夢のような一時が味わえるの
なら、と思えてしまう。
「何を考え事してたの」
「うん、友達のことなんだけど」
「どうかした」
「・・・・・・ごめん、言えないんだ」貞男の事については菜奈から口止めされていた。
いくら豊永といえど、親友のあまりにもプライバシーなことを口走ることは出来ない。
「そうか、分かった」
「本当にごめんね」
「いいよ。デリケートだもんね、そういうの」
「ごめん」
「謝ってばっかじゃん、さっきから」
「ごめん」あっ、と千鶴が言うと豊永はフフッと笑った。それを見て、千鶴も思わず笑
ってしまった。
「折角だからさ、今日は楽しもうか」豊永は千鶴の手をとって歩き出す。
「うん」大きな喜色に包まれ、千鶴は笑みを浮かべた。
「ねぇ、パパはどうなっちゃうの」数日ぶりにやってきた安里市立病院は空気が違って
いた。いる人間、やってる仕事に変化はないが、自分に接する人間の態度がどこか重々し
さを感じた。福笑いをはじめ、これまで仲良くしてきたナースステーションの看護婦たち
も今回の件に関しては軽い口は挟めない雰囲気だった。
「さすがに今回の事については何も言えないわ。上が決めることだし。もちろん、副院
長には残ってもらいたいとみんな思ってるわ」下越が口を開いた。それが素直で無難な意
見だろう。
「みんなパパのこと良い医者だって言ってたじゃん。どうして、力になってくれないの。
これじゃ、みんなに悪者扱いされてるみたいだよ」菜奈は涙目で全員に訴えかける。それ
は少なからずそこにいる人間たちの良心を揺らした。今までお世話になってきた貞男が窮
地に追い込まれているのに対し、自分たちはこのまま関わらないように遠くから見守るだ
けでいいのかと。
「そんな、悪者だなんて思ってなんかないわ。少し落ち着いて、菜奈ちゃん」気が荒く
なっている菜奈をなだめようと下越は懸命にする。
「こんなの落ち着けるわけない。みんながそんな情けのない人たちだと思わなかった。
なんで、困ってる時に手を差し伸べてくれないの。仲間も助けようとしない人たちに他人
の命なんか助けられるわけないよ」捨て台詞のように大声で吐き、菜奈はその場を去って
いった。そこにいる看護婦たちには菜奈の言葉が痛いほど刺さった。こういう大事には背
を向けて、ただ病院側の決定を飲み込もうと受け身になっていた自分たちは恥じるべきも
のだったのかもしれないと。あんなに小さい女の子にそれを諭され、大人たちは何も言う
ことが出来なかった。
その菜奈の言葉を誰よりも痛感していたのが用事でここに来ていた楽山だった。まさか、
あの子があんなに声を荒げるなんて。自分はとんでもない事をしてしまったんだ、と強く
思わされた。何も関係のない、あんなに見本にするべき家庭を壊してしまった。洒落にな
らない。許されるはずもない。だからといって、今から自分がやりましたなどと言えるは
ずもない。俺はただこのことを誰一人にも言わずに墓場まで持っていくことしかできない。
計り知れない重圧を背負いながら。
輝く満月は心を奮わせる。10年前のあの日もこんな輝かしい満月だった。あの時の母
親の優しすぎる笑顔が今も頭にこびりついている。そして、あの憎むべき人間の顔が浮か
んでくる。この記憶から抹消してやりたいのに離れようとしない。自分の中に絶対忘れる
ものか、という思いが共存しているからだろう。いつか必ず復讐をしてやる、母親の無念
を俺が晴らしてやるんだ、そう決めてから自分の人生は大きく変わった。この復讐のため
にほとんどの精神を費やしてきた。気が遠くなるような長い時間だった。それでもこうし
てこれたのは全てが恋先のおかげだった。彼女が支えだった。彼女の想いが支えだった。
彼女の想いを叶えるためになら何にでもなれた。
携帯が鳴ったのはその時だった。着信が誰からかはすぐに分かる。
「もしもし、私」その高い声に心は洗われる。自分の好きな、よく通る可愛げのある声
は昔から変わらない。
「どうした」
「旅行、明後日から行くことになったから」その言葉の意味するものは分かりえた。
「あぁ、分かった」
少しの間が空いた。「大丈夫・・・・・・・だよね」
「何が」
「うぅん、単なる最終確認」
「あぁ、問題ないよ」
「そうか」また少しの間が空く。「ねぇ、絶対成功させようね」
「当然だ」
「全部終わったら一緒になれるんだもんね」
「あぁ、やっとだ」
「うん、やっとだよ」これまでの長かった時間を噛みしめるような言葉だった。2人だ
けにしか分からない、この10年というあまりにも長い時間。多くを我慢し、多くを犠牲
にし、ただ一つの目的のために奔走した時間。
電波はそこで途絶えた。その瞬間、急に実感めいたものが湧いてくる。あと3日で全て
が終わる、と思うと強い意志が胸に芽生えてきた。これで過去は終わり、未来が始まる。
2人の新しい未来が始まるんだ。
「わぁ、キレイ」目の前に広がる新緑に菜奈は大きく両手を広げて息を吸い込む。都会
に比べると風も強く、陽射しも綺麗で温かく夏の時期にはもってこいの場所だ。「パパも
ママもおいでよ」
娘の久しぶりの本物の笑顔に両親も自然と笑顔が生まれる。「待って、すぐに行くから」
四宮家の毎年恒例の富士への家族旅行は予定を大きく前倒しした。例年なら8月の下旬
あたりになり、菜子と菜奈が五泊ほど滞在する間に貞男が休暇を取れる間だけ来るという
流れの中、今年はお盆の前にこうして来ることになった。貞男がああいう事になり、家族
で家にいる時間が怠慢になりはじめたからだ。毎日家にこもりきりになってしまった貞男
のために、と早めからここに来ることを決めた。運よく別荘側も空きがあったので、長期
で予約をして今日訪れることにした。
「ホントにキレイねぇ、お父さん」
「あぁ、そうだな」貞男にもようやく穏やかな顔が見えた。
「パパが最初から来るなんて久しぶりだよね」
「そうね、初めてじゃないかしら」
「そうだったかな」
「そうだそうだ、いっつも私とママで家族分の大きい荷物を持ってくるんだよ。パパは
後から自分の一泊か二泊分の着替えだけ持ってくればいいんだもん」
「あぁ、そういえばそうかもしれないな」
「今年はお父さんにもたくさん荷物持ってもらわないとね」
「そうそう、これまでの分たくさんだからね」
「そんなには持てないよ」家族に温かな笑みが戻る。一家団らんといえる時間がやっと
訪れた気がした。
「さて、さっそく買い出しに行かないとね」
「みんなで行こうよ。散歩がてらに」
「そうね、みんなで行きましょうか」
「ママ、夜ごはんはカレーだよ」
「はいはい、分かってますよ」しょうがない子ね、と菜子はつぶやいた。この時間が長
く続けば、と心から思った。それが大きく崩れる時がすぐ近くに来ていることなど知りも
せずに。
翌日の朝8時、パジャマからラフな格好へ着替えた菜奈は貞男と散歩へ出掛けた。菜子
が朝食の用意をしている間に朝方の富士を2人で散歩するのが毎年の恒例だ。遊歩道や道
になってないようなところも練り歩きながら富士山を近くに眺めたり、森林浴をしながら
散策を楽しむ。これが何ともいえず気持ちのいいものだ。
「パパ、元気出してね」散歩も終盤に差し掛かった頃、菜奈はポツリとつぶやくように
言った。
「んっ」
「気にしないで、っていうのは違うかもしんないけど。でも、パパはパパの仕事を一生
懸命やってるんだから」
「あぁ、ありがとうな」娘の言葉はなによりも力になる。病院の同僚から菜奈が看護婦
たちへ大声で自分のことを訴えかけてくれたというメールが来た。本当に父親思いの良い
娘だな、と改めて実感した。こんなに素敵な娘に対して自分は障害になってしまっている
と思うとやりきれない気持ちになり、同時にこのままではいけないんだという強い意識も
持たせてもらえた。「いろいろ迷惑かけると思うけど、ごめんな」
医療ミスをした内浜そよの親族から安里市立病院へ正式に訴訟を行うことが決まった。
こうなってしまっては、自分の居場所はあそこにないも同然だろう。新しい病院を探さな
ければいけない。いや、こんな医者を雇ってくれるところなどあるのだろうか。開業とい
うことも視野に入れないといけないのかもしれない。ならば、そんな大金をどうすればい
いのか。まだまだ、考えることは山のようにあった。
「私とママのことはいいよ。パパのやりたいようにやって。私たちはそれに着いていく
から」菜奈は笑顔を見せて言った。「この前は嫌だって言ったけど、引越しもしょうがな
いよね。パパが医者を続けられるところならどこでもいいよ」
「菜奈・・・・・・ホントにすまんな」涙が出そうになるほど嬉しい言葉だった。これ
だけの事件を起こし、恨まれても当然なのに菜子も菜奈も自分を怪訝にはしなかった。こ
の数日、家族というものの有りがたみをこれでもかと味わってきた。本当に素晴らしい家
族に恵まれたと思う。献身的に支えてくれる妻に何があろうとも信じてくれる娘、何物に
も変えられない宝物だ。この2人さえいてくれれば頑張れる。またやり直せる。
「あっ、パパ、リスがいたっ」菜奈がなにやら樹海の方を指して言っている。
「ごめん、見てなかった」辺りを見回すがリスらしきものは見えなかった。考え事をし
ていて見逃してしまったらしい。
「あっちだよ。今、走ってった」そう言い、菜奈は樹海の方へと入っていく。
「おい、危ないぞ」貞男も菜奈の後を追い、樹海へと足を踏み入れる。
「おかしいな。確かにいたのに」菜奈はリスが走っていったと思われる方向へどんどん
進んでいく。
「菜奈、リスはもういいよ。戻ろう」貞男が諭すが菜奈は一向に元の道へと戻る気配が
ない。
「大丈夫、絶対いるから」そう言うと、戻るどころか樹海の奥の方へと歩を速めていく。
「おい、菜奈。もう戻らないとまずいぞ」貞男の言葉に耳を貸すこともせず、菜奈はた
だただ歩き続ける。リスなんか関係ないように無数の木々や葉の散らばる樹海の中へひた
すら突き進んでいく。
「菜奈、いい加減にしなさい。リスなら今度また見ればいいだろ。このままじゃ、2人
とも迷ってしまうぞ」強めの言葉で叱るように言い放ったが、そんな言葉など聞こえてい
ないように菜奈は歩を止めない。何かに取り憑かれてるようにザッザッと落ち葉を踏みつ
けながら前に歩いていく。後ろを振り向いてみる。もう元の歩いてきた正規の道は見当た
らないほど遠くに来てしまっていた。明らかにこのままでは危ない。
「菜奈、いいから戻るんだ」言葉を聞きいれようとしない菜奈を力ずくで振り向かせよ
うとすると、逆に思いきり掴みかかられた。体が宙に浮き、軽くなる。気づくと、落ち葉
の上に投げ飛ばされていた。叩きつけられ、少しの痛みが生じる。何が起こったんだと体
を向き直すと、目の前にあるはずのないものがあった。そんなはずはない、と目をつむり
開いてみると同じものがそこにあった。倒された貞男に向けられていたものは拳銃だった。
それを手にしているのは他ではない菜奈だ。あまりにも信じられない光景に言葉が何も出
てこない。
菜奈は不敵な笑みを浮かべ、首を傾ける。「様が無いな、四宮貞男」
目の前で何が起こっているのか、貞男にはさっぱりだった。理解をしろと言っても無理
だろう。
「分からないよねぇ。そりゃそうだ。愛する娘に銃を向けられて納得する奴の方がどう
かしてる」菜奈はフッと笑い、下唇を舌で舐める。
何だ。何なんだ、これは。悪い夢でも見てるのか。でも・・・・・・間違いなくこれは
現実だ。「どういうことなんだ、一体」
「どういうこと? おかしなこと言うね。あんたが今見てるまんまだよ」
見てるまま、俺は樹海の中で倒されて娘に拳銃を向けられている。「何なんだ、それは。
おもちゃか何かか」
「おもちゃ、か。まぁ、そう思いたいのは分かるけどね」菜奈は持っていた拳銃のシリ
ンダーをスイングアウトし、裏側を見せる。カートリッジらしきものがきちんと装填され
ていた。「悪いけど、全部実弾だから」
貞男は体が固まったように動けなかった。あの菜奈がまるで別人のようにいる姿が全く
飲み込むことができなかった。「どうして・・・・・・どうしてなんだ」
「どうして? 自分の胸に聞いてみなよ」シリンダーを本体に戻し、ハンマーを起こす。
あとは引き金を引き絞れば銃弾が発車される。「忘れたなんて言わせない。私は、私たち
はずっとあの日の傷を背負いながら生きてきたんだから」
今までに目にしたことのない菜奈の鋭い眼光に睨みつけられ、貞男は精神的に追い込ま
れていく。額からはいつからか汗が滲んでいた。「傷? 傷って何だ」
貞男の言葉に菜奈は絶句したような表情を浮かべた。歯を軋ませ、怒りを募らせていく。
左手を握りしめ、拳銃を握る右手に力が込められる。「ふざけるな。私たちがどんな思い
で今まで生きてきたと思ってるんだ」
貞男には菜奈の言葉の意味が理解できなかった。今回の医療ミスの事を言ってるのかと
思ったが、もっと何か以前の出来事を言っている気がした。「私たち、ってどういうこと
だ。菜子も一緒ってことなのか」
菜奈はもはや唖然となっていた。いくらなんでも、こんな答えが返ってくるなんて思い
もしなかった。「何も・・・・・・何も覚えてないんだな。こんな奴のためにどうして私
たちが苦しまないといけないんだ」
「菜子と菜奈に俺が悪いことをしてしまったのか? 何があったのか教えてくれないか」
「教えてやるよ、いくらでも」菜奈は振り向き、無数の木々に向けて言う。「ねぇ」
何を言ってるのかと思ったが、わずかに見えるほど遠くの木の陰から人影が動いた。そ
れはザッザッと落ち葉を踏みつけながら近づいてくる。貞男に緊張感が走る。やがて、そ
の人物の体や顔がはっきりと眺められるようになった。幼い少年だ。菜奈と同じくらいの
年齢に見受けられる。少年は菜奈の隣で立ち止まり、同じように鋭くこちらを睨みつけて
きた。身長は高く、顔立ちもとても整っている。
ただ、貞男にその少年の記憶はなかった。一度目にしたら忘れないであろう雰囲気の顔
だが、全くもって知らない。「君は誰だ」
貞男の言葉に少年と菜奈は顔を見合わせる。2人が知り合いであるのは間違いないよう
だ。「何も覚えてないみたいだよ、この人」
「そうか・・・・・・いい身分だな」少年が初めて口を開いた。その年齢からすれば珍
しいくらいに低い声だった。何かを諦めたような瞳といい、妙な落ち着き方は不気味なほ
どだ。「なら、思い出させてやればいい」
少年は貞男に近づき、身をかがめて同じ視線になる。少年は死んだような瞳をしていた。
人生に疲れきったような、人間の最期のような瞳でこちらを強く見つめてくる。金縛りに
あったように、その瞳に釘付けにさせられた。「俺の名前を教えてやるよ」
「豊永一弥だ」その名前は貞男に衝撃を与えた。自分がどうして今こんな状態になって
いるのかを把握するには充分だった。過去の記憶から抹消した、二度と思い出すはずのな
かった名前。
「何で、どうして、何で、どうして」身体は震えだし、呻くような声を漏らしながら頭
を抱え込む。忌まわしき過去が蘇り、心を蝕んでいく。呼吸は乱れ、現実からの逃避をは
じめていく。
「ようやく思い出したようだな」眼前で壊れだす貞男を目にし、ようやく気を落ち着け
ることができた。そうだ、もっと苦しめ。俺がこれまで味わってきた分、存分に苦しんで
みろ。
「あぁあ、可哀相に」後ろから近づいてきた菜奈が豊永と同じように身をかがめる。2
人は檻の中の動物でも眺めるようにこちらを見ている。「まぁ、一人だけ何も知らずにの
うのうと生きてきた報いだけど」
貞男は何も言葉を発することが出来なかった。いきなり目の前に現れた豊永一弥、その
豊永と娘の菜奈がお互いを知り合っている。その現実はどう頭を働かせようと理解不能に
しかならない。
「あらら、本当に何も分からないんだね」菜奈は左手を豊永の右手にからめる。その手
を頬にもっていき、愛おしそうに摩った。「自分の娘は頭も性格もいい、口の挟みようも
ない出来た子供だと思ってんでしょ。そんなもん、嘘に決まってんのにさ。真実を知らず
に綺麗なものだけ見て育とうなんて都合のいい考え方だね」
「真実なんて汚くて見苦しいだけだ。お前だってそうだ。お前は誰より汚らしい、見苦
しい。お前の作り出した真実にどれだけ苦しめられてきたか」豊永の言葉は震えるように
なっていた。貞男を睨みつける眼差しはより鋭くなっている。怒りが込みあげてくる豊永
の体を宥めようと菜奈が抱きしめる。そして、唇に強く口づけた。
貞男は目の前で起こる光景に気が振れそうだった。愛する娘の豹変ぶりを受け止められ
ず、鼓動は早まるばかりになる。止めろ、止めてくれ、とキスを続ける豊永と菜奈に言い
たかったが言葉が口から出てこない。夢なら本気で覚めてくれ、そう願うしかなかった。
「私たち、愛し合ってるんだ」唇を離した菜奈は貞男を一瞥し、口角を上げて言った。
「これが真実なんだよ」
貞男はもはや何もすることができなかった。何の抵抗もできず、ただ目の前で起こって
いく事物を飲み込めないままに記憶に刻むしかない。涙目になり、荒くなる呼吸で不定に
息を吸っていく。
「その顔が見たかったんだよ」菜奈は瞳を見開き、不気味な笑みを浮かべながら貞男の
側で言い捨てる。「気持ち悪いんだよ、お前」
貞男の心は凶器で壊されたように砕かれた。詳しいことは理解できなかったが、愛する
娘に裏切られたことは分かりえた。衝撃に耐えられず、涙が流れてくる。
「お前のせいだ」菜奈は見開いた目で貞男を睨みつける。感情を吐き出すように何度も
その言葉を浴びせたおした。「お前のせいだ」
「お前のせいで私たちの人生は台無しだ」菜奈は左手を握りしめ、今すぐにでも貞男を
殴ってやりたい衝動をなんとか抑える。立ち上がり、豊永と視線を合わせると拳銃を手渡
して去っていく。
貞男はただ去っていく菜奈の後ろ姿を追うことしかできなかった。やがて、菜奈はここ
まで歩いてきた道へと消えていった。何か繋がっていた線がプツリと途切れた。豊永の方
へと視線を向ける。彼は静かな瞳でこちらを見ていた。「どうして・・・・・・どうして、
こんなことを」
「どうして? 理由は分かるだろ」豊永は視線を外すことなく言い捨てる。「あの日か
ら、お前のことを忘れたことは一度もない。お前に復讐するために、ただそれだけのため
に俺は生きてきたんだ」
「そして、それは今日果たされる」豊永は右手に持っていた拳銃を貞男に向ける。「こ
の日を待ち続けてきた。菜奈とともにだ」
「何でだ。何で、菜奈が」
「菜奈は俺の味方だ。あの日からずっとな。そして、お前は敵なんだ。俺の敵であるお
前は、菜奈の敵だ」そう言うと、拳銃を貞男のこめかみに構える。「お前はこの世で最も
信じていた菜奈に裏切られた。当然だ。お前は俺の最も信じていた人を奪ったんだから。
この罪は生命を引き換えにすることでしか償うことは許されない」
貞男は何も言わなかった。その代わりに精悍ともいうべき目を豊永に向けていた。
「裁きを受けろ」豊永は引き金をグッと引ききった。銃弾の放たれた音は新しい世界へ
向けた祝砲のように聞こえた。
きらきらひかる おそらのほしよ
まばたきしては みんなをみてる
きらきらひかる おそらのほしよ
きらきらひかる おそらのほしよ
みんなのうたが とどくといいな
きらきらひかる おそらのほしよ
騒ぐ胸のあたりを掴むと、体の中に「きらきら星」を流した。きっと今頃、あなたもど
こかで流してくれてるのだろうと思い瞳を閉じた。
―私たちの願いは叶えられた。




