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第4話


○登場人物

  四宮菜奈・しのみやなな(誰からも好印象を受ける表面を繕いながら生きている)

  豊永一弥・とよながかずや(完璧な外見を併せ持って女性からの強い支持も持つ)

  四宮貞男・しのみやさだお(菜奈の父、病院の副委員長で人望が厚い)

  四宮菜子・しのみやなこ(菜奈の母、家族思いで思いやりが強い)

  林田千鶴・はやしだちづる(菜奈の友達、劣等生で人を信じて疑わない)

  唐木田千治・からきだせんじ(先輩刑事、事件をしつこく追い続ける)

  牛嶋大悟・うしじまだいご(後輩刑事、唐木田とともに事件に迫る)




 真実は嘘に塗り替えられる。

 この世には無数の嘘がはびこっている。

 嘘が真実を追い抜き、我物顔で社会の中に潜んでいる。

 嘘をつく人間がいる。嘘を思いつくが消す人間がいる。嘘をつかない人間もいる。

 真実を隠す人間がいる。真実を隠さない人間がいる。真実を知らない人間もいる。


 人は嘘をつき、嘘をつかれる。

 自分の嘘はバレてないと思い、つかれている嘘には気づかない。

 人は真実を隠し、真実を隠される。

 自分の真実は隠しとおし、隠されている真実には気づかない。

 結局、自分の都合でしか生きていない。


 人は嘘をつく事が好きで、嘘をつかれるのが嫌いだ。

 矛盾の連鎖、それがまた新しい嘘を生んでいく。

 人は真実を隠したがり、真実を隠されるのが嫌いだ。

 矛盾の連鎖、それがまた新しい嘘を生んでいく。

 所詮、自分の都合でしか生きていない。


 嘘と真実の境界線は人それぞれだ。

 嘘が己の大多数を占める者もいるし、逆もあるだろう。

 嘘のような真実もあるし、真実のような嘘もある。

 他人から見れば、その境界線は曖昧でしかない。

 本人にしか分からない。嘘と真実なんて、そんな不安定な境目でしかない。


 私の嘘を知っている人間は一人しかいない。

 私の真実を知っている人間も一人しかいない。

 それでいい、それだけでいい。

 一人だけが私を知っていてくれていればいい。

 だから、あなたの嘘と真実も私だけに・・・・・・。


 「ごめんね、なんか着いて来てもらっちゃって」右隣を歩く千鶴はやけに浮き足立って

いた。声も浮いてるし、顔もほころんでいる。

 「いいよ、私も見てみたいから」千鶴の王子様、と言うと彼女は怒ったようにした。実

際に怒ってないのは分かる。ただ、からかわれて恥ずかしさの行き先をそうしただけだ。

彼女はとても分かりやすい。それが長所であって、欠点でもある。純粋と表現すれば聞こ

えはいいが、正直付け込むのは簡単だ。最近の連続事件で人を疑うこともし始めたが、私

を疑うようなことはない。全幅の信頼を置いている。それが仇になるとも知らず。最初か

ら疑っていればよかったと嘆いても後のまつりでしかないのに。

 今日は千鶴と遊ぶ約束をしていた。期末試験も終わり、1学期も答案返却日と終業式を

残すのみとなっていた。中学から始まった試験は面倒くさいものではあったが、こうした

試験休みがあるのは悪くない。部活も休みになった休養日を有意義に過ごそうと試験の時

から計画を立てていた。とはいえ、ウィンドウショッピングで店を回ったり、ファミレス

で食事をして喋ったり、少ない小遣いでやりくりする中学生の定番的コースを忠実にこな

したメニューに落ち着いただけだが。

 ファミレスでは談笑が常だったが、この日はここ最近で起こった事件の話になった。こ

こ一ヶ月ないほどで、あれだけの事件が身近に起こった。そういえば、近頃あまり心から

笑えてないという話からポジティブな話をしようと提案があがった。すると、千鶴が「実

を言うと」と話をはじめた。彼女の話は好きな人ができた、というものだった。菜奈はそ

の話に飛びつく。あくまで、興味のあるフリだ。彼女の好みは分かっている。顔立ちのい

い細身の男、要はミーハーだ。好きな芸能人はアイドルの名前が挙がっていく。自分の顔

を鏡で見てみろ、とアドバイスしてあげたい。憧れは勝手だが、身分不相応という言葉も

知っておいてくれればと思う。

 菜奈は千鶴のまるで彼氏へのノロケのような話を聞いてあげた。無論、付き合っている

わけもないし、付き合える見込みもないし、相手は千鶴の存在すら把握していない。それ

なのに、ここまでのめり込んで自分のもののように話せるのは一種の才能かと誤ってしま

いそうになるほどだった。よくも一方的な想いでこんなにも話を膨らませるな、と。相手

に行き着くまでに想像で相手を都合よく創り上げてしまい、しまいに想像とのギャップを

感じたりするのだろう。幸せなものだ。

 千鶴の話を散々に聞かされた後、菜奈はその人を見てみたいと言った。千鶴のハートを

射止めた王子様を私も見たいと言うと、彼女はまんざらでもない様子でしょうがないなぁ

と了承した。別にお前のもんじゃないだろう、とは心の中だけに留めておいた。彼女の気

分がいいようにしておく。錯覚をする女の惨めさを教えるのは今じゃなくていい。

 行き先は安里市立第四中学校、第一中学校からは徒歩で30分の距離にある。築年数の

差で四中の校舎は一中よりも新しかった。色合いも単調じゃなく、こうした差を目にする

と負けたような思い違いが生じてしまう。敷地内に入るのは簡単だった。私服だったのが

逆に幸いとなり、試験休み中に生徒がふらりと立ち寄ったような印象を与えていたようだ。

 目当ての相手は運動場にいた。サッカー部で1年生ながら期待のエース、長身で顔立ち

もいいというありふれた王子様だった。運動場を囲むネットの裏には練習を見守る女子が

数人いた。菜奈たちと同じようにしてここまで入って来たようだ。彼女たちの狙いも一緒

であり、千鶴が以前にここへ忍び込んだ時にもこういった女子たちがいたらしい。

 「菜奈、あれっ、あれだよ」そう千鶴が指した方を見てみると、それらしい人物は一発

で分かった。周りのごく一般的な中坊とは醸しだすものが違っていて、それは体つきにも

発する気のようなものにも表れている。なるほど、見た目なら10人の8人か9人は心を

奪われるものだろうと感じれた。千鶴レベルの心ならあっさりと持っていくはずだ。

 「確かに。格好いいね」

 「でしょう。ホントに非の打ちどころがないのよぉ」千鶴の目は完全に奪われていた。

その視線の先で、男はこちらを気にする様子もなく練習に集中している。こうやって女子

に見られることには慣れてるようだった。

 そのまま、何をするでもない基礎的な運動を2時間見続けた。練習終わり、ネットの裏

にいた女子が名前を呼びかけると男はこちらを見て笑って手を振った。それだけで、千鶴

を含めた女子たちは収穫を得たような喜色に包まれていた。芸能人とファンのような関係

に映った。身近な分、より現実的なのがまた効果的になるのだろう。

 男の名前は豊永一弥、四中にすごいイケメンがいるという噂は流れ流れて千鶴の耳にも

伝わった。恋に大きく興味を抱く年頃の女子たちには恰好の話題になり、千鶴もその通り

に行動を起こした。四中までその噂を吟味しようと出向き、即そこで恋におちたらしい。

既に何人かが彼に告白したが、まだ誰のものにもなってないようで、それがまた薄っぺら

な女どもの心を泳がせていた。

 「どう? 豊永くんの感想」千鶴の瞳が輝いていた。野暮ったい黒メガネを通して見る

と濁って映るのが面白い。

 「言ったじゃんか、格好いいって」どうせ、こう言って欲しいんだろう。四宮菜奈から

そう言ってもらうことで自分の目は節穴じゃないと思いたかったのだろう。

 「好きになっちゃいそう?」

 「そんなことしないよ。千鶴の王子様でしょ」そう菜奈が微笑むと、千鶴も微笑んだ。


 警察署の一室で牛嶋はビデオ映像を眺めていた。再生し、早送りし、首を傾げる連続、

それしかなかった。何度見ても新たな成果はなかった。ないと分かりながら見て、ない事

に打ちのめされるだけだった。頭をボサボサに掻き、帰ろうと立ち上がると後ろに唐木田

の姿があった。「どうしたんですか、こんな時間まで」

 「いや、ちょっと忘れ物をしてな。そしたら、お前の荷物がまだ置いてあったから気に

なってな」夜の22時40分、この日の仕事はとっくに終わっていた。「お前こそ、何を

こんな時間まで見てたんや」

 「市立病院での連続殺人事件のですよ。病院の監視カメラの映像を見返してたんですけ

れどね。何も出てきやしません」事件当日の安里市立病院の監視カメラの映像は事件当初

から数えきれないほどの回数を見てきた。そして、そこがこの事件を鍵を握るポイントの

一つでもあった。一つ目の佐藤太吉の事件の日は21時2分、二つ目の野戸平蔵の事件の

日は25時20分。いずれも、犯行時刻と思われる時間帯に監視カメラの映像が途切れて

いたのだ。病院に設置されていた、出入り口、新生児室、地下室の監視カメラのうちの計

5箇所の出入り口の映像が遮断されていた。犯人が通過する姿を見られないためにやった

のは間違いないはずだ。5箇所のカメラを停止させたのはどこを通ったのかすら特定させ

ずに推理を難航させるためだろう。これによって、大きな手掛かりになるはずだった映像

が期待はずれになってしまった。しかし、これまで同様に腑に落ちないところもあった。

5つのカメラがほぼ同じ時間に遮断された事を考えると、手動で電源を切られたとは思え

ない。5人の犯人がいてそれぞれのカメラを切った、という説は可能性が低い上にあまり

にもリスクが高いといえる。新生児室と地下室の電源は生きていたので同時に故障したと

も考えにくい。「一体、どうやって犯人は監視カメラの電源を止められたのかが全くつか

めないんですよ」

 「あぁ、それのことか。まだ気になってたんか」唐木田は後頭部をポリポリと掻き、息

をつく。解けなかった謎の糸は刑事にとって汚点といえた。そんなことは気にしていたら

体がもたないといえど、刑事としてのプライドに引っかかってしまうのは仕様がない。長

く経験を積み、多くの現場を重ねてきてるからこそ尚更だ。

 「やはり、ハッカーと考えるのは過ぎるんでしょうか」これが犯行をこなすには最もス

ムーズな行為だった。ハッキングによって5つのカメラを遮断する事が可能なら、誰かに

見つかる危険を伴わずに映像を切ることができる。ただ、それは現実感がなくつじつまが

合わなかった。蔵川親子にそんな技術があったのか、ということだ。学校の成績は褒めら

れたものではない京介に警備の仕事だけで過ごしてきた築介、あの2人にそれほどの知識

があったとはお世辞にも思えない。蔵川の家にはパソコン本体もないし、そういった関連

の本なども一切ない。どう蔵川親子を高くみても、ハッカーであるとは考えられない。

 「まぁ、その線は無理やろな。あの親子にそんな素質はない」実際に蔵川親子に取り調

べをしても2人はパソコンをしたこともないと言った。嘘ではないだろう。白を切ってる

ようにも見えなかった。あの2人は本当にパソコンのパの字も知らない。

 「だとしたら、一体どうやって・・・・・・」そこがどうしても謎で最後まで解く事が

出来なかった。この事件には別の解答がある気がしてならない。不快な部分がいくつも残

されている。このまま、あの親子に刑罰を科していいのだろうか。現場の証拠品や当日の

アリバイは確かにそう示しているが、何か違うんじゃないだろうか。胸につかえるものが

拭いきれず、厄介にそこに居続けている。

 「あの親子が犯人じゃないかもしれんとは俺も思ってる。刑事の勘でしかないけどな。

けどな、あの親子以外の証拠は全くない。それじゃ、上は聞く耳も持たん。蔵川親子は犯

人として裁判の判決を受けなきゃならん。理不尽やろうが、今までもそんな事件はいくら

でもある。先輩刑事として諦めろとは言えんけど、これ以上に劇的な進展はないやろう」

もしかしたら、あの2人は犯人ではないかもしれない。でも、法律国家で生きてるからに

は己の気持ちだけではどうにもならないこともある。他に真犯人がいたとしても、ここま

で完璧に犯行をしてやらかす人間がここから手を滑らしたと証拠をホイとこちらに零すよ

うなことはない。悔しいのは唐木田も牛嶋も同じだった。


 「菜奈、今年もお盆の過ぎあたりに行くからよろしくね」朝食の途中、菜子がそう切り

出してきた。何の事を言っているのかはすぐに分かった。四宮家では毎年お盆の頃に富士

の別荘に旅行に行くのが恒例行事になっている。貞男は病院に無理をいっても1泊か2泊

ぐらいの休暇がせいぜいなので、菜子と菜奈の2人はゆっくりと5日から7日ほどは宿泊

していくのが毎年の事になった。別荘とはいってもレンタルだが、3人が1週間滞在する

なら充分だ。

 「やったぁ。楽しみぃ」菜奈は両手を上げて小学生のように喜びを表した。家族旅行を

これだけ楽しみにしてくれれば連れていく側も喜びに満ちる。人形をあやすように可愛が

っていた頃に比べれば容姿もだんだんと整ってくるが、精神的にはあの頃と変わらず家族

を大事にしているというアピールだ。それにより、両親は娘を変わらぬ愛情で包み込む。

娘がどれだけ変わっているとも疑わずに。「パパ、休みもらえるの?」

 「どうだろうな、なるべく休めるように掛け合ってみるよ」夏になると学生は休みにな

り、お盆には会社も休みになって病院は混雑する。そこが過ぎれば幾分か楽にはなるが、

副院長というポストもあって僅かなら休日は取れる。まぁ、今年に関していえば問題はな

いだろう。あの連続殺人事件で市立病院を敬遠する人も多いはずだ。例年に比べれば、そ

う難しくなく休暇はもらえる。

 「その前に菜奈は合宿があるのよね」

 「うん、来月の頭かな」菜奈の所属しているバドミントン部の合宿が毎年長野であり、

菜奈や千鶴も参加することになっていた。合宿といっても、強豪と呼べるチームではない

ので割と仲良し旅行のような感覚で行っているらしい。

 「いいわねぇ、菜奈はたくさん旅行に行けて」

 「いいでしょ〜。その代わり、家族旅行は最高に楽しくしようね」菜奈の言葉に両親は

にっこりと笑みを浮かべた。

―お気楽様、どんなに素晴らしい旅行になるとも知らずに。


 「菜奈っ、ニュース、ニュース」期末テストの答案返却日、数日ぶりに1年2組の自分

の座席にいると千鶴が教室に入ってくるなりに目を輝かせて来た。「四中とウチのサッカ

ー部が練習試合するんだって」

 その言葉で彼女の主張したい事は把握した。例の想いを寄せている豊永一弥を見に行け

る口実ができた、ということだろう。「へぇ、よかったじゃん。どこでやるの」

 「ウチの学校で。5日後の水曜日だって」

 「ふぅん」

 「ふぅん、って。見に行くんでしょ、菜奈も」

 これだから自分が見えない人間は嫌だ。他人の意思など関係なく自分と同じ意識なのだ

と思い込む。「見に行かないよ。部活でしょ、第一」

 「あっ、そうかぁ。しまった〜」

 「ウチで試合やるんでしょ。サボって見に行ってたらバレるよ」

 「えぇっ、どうすればいいの〜」

 こいつは天国と地獄がずいぶんと近くにあるんだな。そんなに行き来してたら疲れるだ

ろうに。その無駄な労力をもっと有効に活用すればいいのに。「手紙でも書いてみれば。

渡すぐらいの時間なら練習抜けられるんじゃないかな」

 「手紙・・・・・・って、何書けばいいのよ」

 「あなたのことが好きです。好きで好きで夜も眠れません。あなたさえいれば、何もい

りません。私の王子様、って」

 「そんなの書けるわけないでしょ。絶対、嫌われちゃうじゃん」

 分かってんじゃんか、嫌われるって。だったら、高望みしなけりゃいいのに。「せっか

くのチャンスなんでしょ。アプローチしてみようよ。私も協力するからさ」

 「でもなぁ、私なんか全然ダメだし」

 出たよ、ネガティブ。あれだけ盛り上がっておいて、いざ現実味を帯びてくると背中を

向ける。典型的な根無し女だ。「恋してる自分に臆病にならないの。どうなろうとも一生

懸命にやることに意味があると思うよ。それで自信になるし、自分のことが好きになれる

から。応援するからやってみようよ」

 「菜奈・・・・・・」

 「大丈夫。かわいいよ、千鶴は」そう言って、千鶴の頭を撫でてあげた。彼女は菜奈の

言葉に強く感動していく。嘘っぱちの言葉なのに。相変わらず簡単な奴だ。

 それから千鶴と手紙の文面を練っていった。その間、菜奈は教室をくるりと見回した。

野竿との事件から時間が経ち、ようやく周囲の目も薄れてきた。とはいえ、事件を知って

いる人間の自分を見る目は変わらないだろう。これまでは良いクラスメイトという認識を

していたのが自分より人間として価値の劣る女という見方になっているはずだ。一度植え

つけられた印象はそうそうたやすく変わるものではない。おそらく、この学校を卒業する

まではそれが続くだろう。

―そう思っておけばいい。物事を上辺でしか捉えられない愚かさにも気づかないまま。


 「そう。また今年も旅行に行くのね。いいわねぇ」放課後に病院に顔を出すと下越がい

たので家族旅行の話をした。

 「そういうことなんで、パパにお休みあげてくれると嬉しいなぁ」

 「そんなこと言われてもねぇ。私の一存で決められないから」なぁんだぁと菜奈が頬を

ふくらますと、子供みたいと下越が笑った。もう何年も変わらない光景だった。市立病院

のスタッフ全員がこうして菜奈を妹や娘のように見ていた。全て菜奈が数年間かけて蓄積

させてきた成果だった。小学生になる前後あたりからここに入り浸るようになり、やがて

父親のような医者になりたいという希望を掲げて多くの医学の勉強に励んできた。病院の

スタッフの誰もが菜奈の夢を応援し、彼女からのありとあらゆる質問に丁寧に答えていた。

それにより、菜奈は普通の12歳では知る由もないレベルの医学の知識を手に入れること

が出来た。安里市立病院にいることで、病院の仕組みや構造や時間割から患者への接し方

など実践的な内容も多く知りえた。はっきり言って、即戦力として働く自信すらあるほど

だった。

 「いいなぁ、別荘なんて行ったことないよ。金持ちは違うねぇ」横入りしてきた福笑い

程度ならあっさり抜いてやれる。こんな体たらくに負けるなら死んだ方がマシだ。

 「金持ちじゃないし。年に一度の贅沢だから」

 「そうかねぇ。まぁ、お土産は期待してるよ」そう福笑いは病棟の方へ歩いていった。

まぁ、体たらくには体たらくなりの価値はある。おしゃべりは口を滑らせやすいから下越

あたりには聞いても答えてもらえないような裏事情もすんなり聞ける。その情報でこっち

がどれだけ残忍なことをしているとも知らずに。

 「菜奈ちゃん、また旅行かい」振り向くと、内科医の楽山がいた。30代前半ながら安

里市立病院のエースといえる存在だ。仕事に対して真面目で積極性があり、話すとユーモ

ラスな面もあって同僚や患者からの人望も厚い。実力もあるが嫌味がなく、貞男も楽山の

ことを褒めていた。

 「うん、今年も行ってきます」菜奈も彼によくしてもらってきた。頼ってきたし、楽山

からも可愛がられてきた。もちろん、どこかに突くべき盲点があるかと疑いながら。結果

は良好だった。男なんて底をほじれば粗が出てくるものだ。

 「そうか、正直あの時期に人手を取られるのは辛いんだけどね。でも、年に一度の贅沢

ならしょうがない。俺も小さい頃は父親が長期休暇の時に旅行に連れてってもらってたし、

楽しんでおいで」

 「無問題。エースがいるんだから安泰でしょ」楽山が周囲からエースとからかわれてる

のを含んだ上での言葉を返した。

 「何言ってんのかな、未来のエースが」菜奈が周囲から安里市立病院の未来のエースと

からかわれてるのを含んだ上での言葉を逆に返された。菜奈自身がこのまま勉強を続けて

将来は父親のいる病院で働きたいと言っているからだ。その場に合わせて適当に言ったの

に全員がそれを信じている。貞男も菜子もそれが彼女の夢だと思っている。そんなちんけ

な夢を持つつもりなんか到底ない。私の夢はただ一つ、愛する人と永遠に結ばれる事。そ

のためにこれまで努力を重ね、ようやくそれが形になろうとしている。私の願いに邪魔を

する奴は誰であろうと許さない。どんな報いで以っても罰してみせる。後悔なんてしない、

多くの感情はとっくの昔に捨ててきた。怖いものがあるとするなら、それはこの愛が成就

しない事。今の私が私でいられるのは全て愛のため。この想いが実らないのなら生きてる

意味なんかない。

―私が私であるために、この計画を成し遂げてみせる。


 夏の暑さが体温にへびりつくように蒸していく。こんな時に根性やら気合いやら言って

いる奴らの無駄な熱さは嫌いだ。そんな自分に青春を映して酔いしれてる奴らの勘違いは

もっと嫌いだ。

 学校は終業式も過ぎ、夏休みに入っていた。それを待っていたように日照りの強い毎日

が続き、憂鬱に思えた。同時に一つずつ近づいてくる運命の時に身の引き締まる感覚も起

こっていく。

 夏休みになっても部活のために学校に来る日々が続く。バドミントン部は大抵が中庭で

の活動になっている。体育館はバレー部とバスケ部、柔道場や剣道場もそれぞれの部が使

っているので、これらの部の活動の休養日でなければ屋内の施設が回ってこない。こうい

ったマイナーな部活はメジャーな部活には勝てない。部員数も違うし、本人達の熱気も違

うのだから仕方ない。逆にこっちが体育館を占有している方が立場がない。マイナーは小

さくそれなりにやっていればいい。元からそのつもりでここに入部したわけだし。オリエ

ンテーションで各部活動を回った時にここなら大して入れ込まなくてもいいだろうと判断

して決めた。千鶴は練習がきつくないところがいいと言っていたから、彼女に合わせると

いう口実でバドミントン部にした。上下関係を押しつけられるような全力投球の運動部は

うざったいし、教室でせせこましくやるような陰気な文化部もパスだった。

 「じゃあ、10分休憩」部長のその言葉を待っていた千鶴が行動を起こした。練習中も

終始そわそわしていたのは、この時のためだった。一中と四中のサッカー部の練習試合は

校舎の向こうにある運動場で行われている。本当は最初から見学したかったが、部活を放

っては行けなかったのでこの休憩時間に賭けていた。

 小走りで運動場に向かうと、試合はすでに終わっていた。5対2、四中が勝っていた。

選手はと探すと、ユニフォーム姿のメンバーがまさに校舎に戻ろうとこちらに向かってき

ている。その中に豊永一弥もいた。土にまみれた選手たちの中で彼だけはそれが様になっ

ている。「千鶴、来てるよ」

 「どうしよう、私ダメだ」ここまで来て、彼女の腰は完全に引けていた。

 「ダメだ、じゃない。手紙渡さないと」

 「菜奈、渡してきて」すがるように見つめられた瞳は泳いでいる。

 「私じゃ意味ないでしょ。自分で渡さないと」そうこうしているうちに四中の集団はど

んどん近づいていた。千鶴はもう諦めた様子だった。このまま、四中の選手たちが過ぎて

いくのを眺めるだけでいいように。

 「為せば成る、為さねば成らぬ」そのとき、菜奈はそう後ろから千鶴を突き飛ばした。

押された彼女はちょうどやってきた選手たちの目の前に飛び出す形になった。この事態を

どうしよう、と下を向く千鶴。何事が起きたんだ、と立ち止まる四中の集団。時間にして

みたら数秒だろうが時が止まったような感覚が生じた。千鶴が菜奈の方を向くと、握り拳

を作って「がんばれ」と口を動かした。それで意を決したのか、千鶴は下を向いたままで

手に持っていた手紙を何も言わず豊永に差し出した。

 突然の事だったが、こういった展開には慣れてるのか豊永は事態を理解した様子だった。

出されている千鶴の手紙をそっと抜き取り、うつむいたまま顔を向けていない彼女へ笑顔

を見せた。「ありがとう」

 豊永はそのまま校舎に入っていき、他の選手たちも千鶴をちらりと見ながら彼に続いて

いった。千鶴は誰もいなくなったのを確認すると、その場にペタリと座り込んだ。真夏の

日光で熱くなっているはずの地面など関係なしに大きく息をつく。「菜奈ぁ」

 「ごめん、ごめん」菜奈は彼女の元へ駆け寄り、ギュッと抱きしめた。緊張で汗が引い

たのか、身体はそれほど温かくなかった。「ああするしかなかったんだよ、手紙渡すため

には」

 「ホントに心臓飛び出るかと思った」ジャージの体操服の胸のところを押さえて、菜奈

に体重を預けてきた。その細身の体をしっかり受け止めて、彼女の戦利をいくらでも称え

ていった。

 「結果よかったじゃん、これで千鶴の想いは伝わるんだから」

 「きっとフラれるよぉ。あんなふうに渡しちゃったし」

 下を向いたままで手紙を渡したのをマイナスポイントだと思っているようだ。むしろ、

プラスのはずだろう。その顔を見せた方がマイナスなんだから。「そんなことないから。

ちゃんと読んでくれてるよ」

―奈落へ沈むカウントダウン、開始。


 楽山が自宅に帰ったのは夜の22時を過ぎていた。玄関扉を開けた時に広がる真っ暗闇

の世界はいつも気分が萎える。一人暮らしを始めてから10年、毎回こんな空しい思いに

さらされる。リビングの床に適当に荷物を置くと、3人掛けソファに寝転がる。

 医者の仕事は結構に辛い。同時に何人もの患者を受け持ち、中には生死に関わるものも

ある。精神面もやられるし、体力勝負でもある。医師不足にともない、仕事の負担も増え

てきて頭がこんがらがりそうになってくる。たまに、全て投げ出してやりたい気にもなる。

安里市立病院ではエースと呼ばれ、周囲からの期待も大きい。それは素直に嬉しいことで

はあるが、自分だって一人の人間だ。調子のいい日も悪い日もある。それでも、毎日同じ

ように仕事をこなしていかなければならない。

 ふとテーブルの上に置かれた額縁を眺める。そこには両親や祖父母と撮った家族写真が

飾られていた。全員の笑顔が輝いて見える。家族はいいものだ、一人暮らしを続けてそう

思えるようになってきた。帰りを待っていてくれる人がいれば、この空しい気持ちも違う

のだろう。奥さんや子供がいる家ならば、帰ってくるのが楽しみになるのだろう。

 そう思い、溜め息をついた。現状を考えれば、そうせざるをえなかった。家族はおろか

結婚に結びつきそうな縁もない。この職業は不規則なだけに恋愛が難しい。残業はざらに

あるし、急な呼び出しもある。相手にはつまらないと感じさせてしまうことが多いはずだ。

自分は家族を持てるのだろうか、そう思い悩む。浮かんだのはお手本のような存在だった。

四宮副院長、彼は絵に描いたような温暖な家庭を築いている。娘の菜奈と接していること

で、それは如実に伝わってくる。夫婦仲もよく、あんなに可愛らしい娘が育ち、その子が

父親の仕事場に週に何度と遊びに来て、その父親の姿を見て医者になりたいと志している。

こんなに嬉しいことがあるだろうか。きっと、父親からしてみれば涙が出るような理想的

な家庭のはずだ。これ以上に何もいらない、現状が維持できれば何も望むことはないと。

一体どうすればそんなに素晴らしい親になれるのか、と一度本人に訊ねてみたことがある。

「俺にもよく分からないよ。俺なんか家にいないことが多いんだから、本当に妻と菜奈が

しっかりしているということだよ。恵まれているだけなんだ、俺は」こう言っていたが、

謙遜しているのだろう。家を空けていることが多い父親にあれだけ愛情を持ってくれてい

るのだから、彼自身に相当な魅力があるのだろう。自分には何が足りないのだろうか、そ

う悩んでも一向に答えは出てこなかった。

 気を取り直して風呂にでも入ろうかと思うと、電話機に留守番電話が入ってるのを示す

赤いランプが点灯していた。珍しいなと思いながら、親からだろうと再生を始める。20

時23分の着信とはじまった伝言は無音の状態が続いた。何事かと気に掛かるが、それは

数十秒にわたっていく。

 「オマエノヒミツ、シッテルゾ。パソコン、ミテミロ」

 その言葉だけを残し、伝言は途切れた。声は細工がしてあり、性別も年齢も認識できな

かった。単なる嫌がらせだろうか。なら、誰が、何のために。気味が悪くてしかたなかっ

たが、おざなりにもできなくて自宅用のパソコンを開いた。その内容に楽山は雷にうたれ

るような衝撃を受ける。

 メールは「汚点」というタイトルのもと、「2007年、その医者はかねてから通い続

けていた風俗店の当時23歳の女性と本人同意のもとで店外で密接な関係をもつようにな

り、数回の避妊器具なしの性交渉を重ねる。女性が避妊薬を飲んでいるから大丈夫と言っ

たからだ。だが、それは嘘だった。女は男のことを真剣に愛してしまっていた。自分を風

俗嬢としてしか見ていなかった男に妊娠という事実を突きつければ関係は進展すると女は

考えた。結果、医者は女性を妊娠させてしまった。こんな事態など予想もしていなかった

男は狂いたくなるほどに怒り散らした。自らの子を身ごもった女に対し、罠だ、詐欺だ、

と喚いた。男は中絶と関係の解消を強く迫り、女も同意した。別れ際、男は女に手切れ金

として300万円を手渡した」と事細かに書かれていた。メールには女性の写真とともに

人工妊娠中絶同意書の画像まで添付されていた。

 マウスを握る楽山の右手は大きく震えている。全てが彼の事実だからだ。何故だ。どう

して、このことが。頭の中は様々な思考が乱れ飛び、彼の心を蝕んでいく。自分の名誉を

傷つける過去を知っている人間がいる。誰だ。一体、誰なんだ。そうか、あの女だ。手切

れ金では物足りず、また俺から金を奪ってやろうと脅しにかかっているに違いない。そう

していると、部屋に電話の鳴る音が響いてきた。


 受話器の向こうの楽山は呼び出し音のコールの8回目に出た。こちらが黙っていると、

向こうも不審げに黙っている。沈黙の時間が続いていくが、楽山は切る様子はなかった。

いたずら電話ではないと分かっているようだ。こちらの切り出しを待っている。「見て

もらえたかな、メールは」

 「誰だ」演劇のセリフのような口調だった。自分をなんとか強くいさせようと無理やり

意気がっているが、そうでもしていないとそこに居られないのだろう。

 「誰だ、お前は」

 「いいから、メールは見たのかと聞いてるんだ」

 「ふざけるな、あんなもので俺をどうしようっていうんだ」

 「まぁ、そう焦らないでください。こっちもあれを公表したいっていうわけじゃありま

せん。あんなの、ただ大っぴらにしたところでこちらに何のメリットもない。だが、先生

のことを利用する材料としては十分だ。あなたにはこちらの言うことを聞いてもらいます。

いいですね」

 「いい気になるな。貴様、どこのどいつだ」

 「おやおや、先生はなにか勘違いしている。そちらの方が圧倒的に不利な状況にいると

いうことを忘れないでもらいたい。こちらのさじ加減一つで先生をどうにでもできるんで

すよ」

 「・・・・・・くそっ」楽山の顔が見えないのが残念だ。きっと、悔しがっていること

だろう。

 「こちらの言うこと、聞いてもらえますね」

 「何だ。何をすればいい」抵抗は諦めたようだ。それでいい、それが正しい。

 計画を告げると楽山はひどく動揺した。「馬鹿なことを言うな。そんなことが出来るわ

けがないだろう」

 「やらないのなら構いません。さっきのメールを不特定多数の人間に行き届くよう送信

するのみです」確かに疑いたくなるような計画だが、それに見合うだけの餌はある。

 「汚いぞ、そんなことが許されると思ってるのか」だんだんと楽山の声は荒げていくの

が分かった。こっちのペース、ということだろう。

 「汚い? おかしなことを言う。汚いのは女性を妊娠させておきながら子供をおろさせ

た、あなたの行為だ。そんな汚らわしい手で数多くの患者の身体に触れている事に罪悪感

を感じませんか。あなたに治されてる人たちは可哀相だ」

 楽山は鼻息をつくだけで言い返してはこなかった。これでもう奴はこちらの意のままだ。

 「心配することはありません。計画の実行の手順は全てこちらで考えてあります。先生

はただ言われた通りに動けばいいだけだ」それから計画にまつわる詳細を告げていった。

受話器の向こう側の楽山は言われるがままにメモを取っていく。「言っておくが、誰かに

チクるような低脳な考えを持っているようなら止めた方がいい。警察が動き出した時点で

あなたの命はなくなる。これは脅しじゃあない。命と名誉を保ちたいのなら、素直に従う

べきだ。なぁに、手順のまま動けば失敗することはない。あとは先生次第だ。健闘を祈っ

ているよ」全て伝え終えると、釘を刺して電話を切った。こちらを疑ってはいたが、思い

のままに操ることができた。医者とて人間、弱みを突けばどうにでもしてやれる。

―ここからが本番だ。復讐の火は赤く燃えたぎっていく。



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