第2話
○登場人物
四宮菜奈・しのみやなな(誰からも好印象を受ける表面を繕いながら生きている)
四宮貞男・しのみやさだお(菜奈の父、病院の副委員長で人望が厚い)
四宮菜子・しのみやなこ(菜奈の母、家族思いで思いやりが強い)
林田千鶴・はやしだちづる(菜奈の友達、劣等生で人を信じて疑わない)
唐木田千治・からきだせんじ(先輩刑事、事件をしつこく追い続ける)
牛嶋大悟・うしじまだいご(後輩刑事、唐木田とともに事件に迫る)
泣いた夜はあなたにいてほしい。
私の涙を拭いてもらいたい。
あなたの涙も拭いてあげるから。
楽しい時にもあなたにいてほしい。
私の笑顔を見てもらいたい。
あなたの笑顔も見てあげたいから。
あなたのことを見つめたい。
あなたのことを触りたい。
あなたのことを知りたい。
あなたの心を見つめたい。
あなたの優しさに触りたい。
あなたの憎しみを知りたい。
今すぐにでもあなたのところに行きたい。
今すぐにでもあなたに包まれたい。
今すぐにでもあなたと結ばれたい。
どうすればいいの。
どうすれば私とあなたは男と女に戻れるの。
どうすれば・・・・・・。
夢から覚めると、右の瞳から涙が肌を伝って枕に沁みていた。鼻をすすると、重い身体
を起こして虚ろな気分に浸っていく。
夢だった。よく見る夢だ。これまでに何度見てきたか分からない。心の奥を読み取った
ように操られた夢は現実味を帯びていて悲しい想いにさらされる。それだけ自分が意識を
してしまっているんだろう。計画が始まったことでよりそれが高まってしまってるのかも
しれない。
気を引き締めないといけない、今だからこそ。計画における一切の油断は許されない。
この時までに培ってきた努力が全て水の泡に化してしまう。求める未来へと架けられた橋
が渡れなくなってしまう。最後まで四宮菜奈としての仕事を全うしなければならない。私
たちが望んだ未来を手に入れるために。
「安里市立病院で点滴に重度の薬品が故意に注入され、患者の佐藤太吉さんと野戸平蔵
さんが死亡した事件は容疑者の蔵川築介とその息子の男子中学生が逮捕されて3日になり
ます。依然として親子は容疑を否認し続けているため、警察では引き続き詳しい原因を調
べています」朝食中、テレビの地方チャンネルのニュースから流れてきた。容疑者の逮捕
によって事件は解決かという空気の中、蔵川親子はそんな周囲の思惑を無視するように否
認を続けていた。進展のみえない事件は全国区のニュース番組から流れることはなくなり、
こうして地方局の報道機関へとランクを下げた。それでも、当然ここら一帯の世帯では続
報が気になるため、薄まった事件の詳細を追っていた。
「一体、いつになったら終わってくれることやら」そう呟きながら、貞男はテレビ画面
を全国区へ変えた。身近に起こった事件を何より気にしていたが、家族にはあまり心配は
かけたくないと自分から会話を始めることはしなかった。
「まだまだ解決しそうにないわね」菜子は緊張感を解けない毎日を過ごしている。彼女
はひどく心配性な一面を兼ね備えているため、周りもへたに重い話をしづらい。逆にそこ
を突いて、一芝居をうって驚かせたりすることもある。要は正直者なのだ。人間を信じす
ぎるのだろう。いつかそれは利用できるかもしれない、と踏んでいる。
「パパもママも不安になりすぎ。犯人捕まってるんだから、もう時間の問題でしょう」
静まりかけていた朝の食卓の雰囲気に菜奈が割って入る。たまたまテレビ画面に流れてい
たファッションのトレンドを紹介するコーナーに一つ一つ口をはさんでいく。それは40
代女性の菜子には辛うじて分かるが、男の貞男にはさっぱりという内容だった。それでも、
菜奈が気遣って話を盛り上げてくれていることは分かった。12歳の我が娘に気に掛けら
れて、それがいけないことであると2人は察した。同時に、よくできた娘に頼もしさすら
感じた。
安里市立第一中学校では事件に対する対応にやきもきしているのが事実だった。保護者
からは「おたくの学校は安全なのか」「ウチの子供は大丈夫なのか」といった連日の抗議
じみた電話に困っていた。かといって、犯行を認めていない蔵川京介へ具体的な対応策も
とれないのが現実だ。彼が犯人である場合、そうでない場合の両側を考えつつ、あやふや
な態度を示して時間を稼いでいる。そうした曖昧さを続ける機関を報道で目にしてきたが、
実際にその立場になってみると本当に何もできやしないんだなと痛感させられる。中には
厳しい意見が届くこともあり、それが生徒からの時もある。学校側の現状を知り、皮肉っ
たようにいじめてくる心のないやつもいる。はるか年下の青い人間にそんなことを言われ、
怒りを覚えるが毅然としていなければならない。上からも下からも圧力をかけられ、学校
というものは脆いものなんだなと胸を痛ませられるばかりだった。
1年2組、野竿はこのクラスの担任になったことを後悔していた。春に新入生の学級を
任された時、まさかこんな大事に巻き込まれることになるなんて予測のしようがなかった。
1組でよかったのに。3組でもよかったのに。どうして、よりによって自分のクラスから
連続殺人事件の容疑者が出るんだ。最初は何かの間違いだと思った。でも、時間が経つに
つれて現実味を帯びてくる。周囲から押し寄せる圧迫感はとてつもなく、学校からは当然
のところ、保護者、家族や親戚、報道機関といった様々な方面から距離を近づけられ、ど
うにもならない疲労感に襲われて参っていた。なんとか正気は保っていたが、いつ壊れて
しまうのかと自分でも保障できない感覚に陥っていた。
こういうとき、人間は本性を現すように他人事と自分を引き離す。昨日まで仲良くして
いた人間が急に冷たくなっていく。精神的にやられていた野竿にはそれがショックで、ま
た一つ気を落としていった。優しげな言葉をかけられても全て嘘っぱちに聞こえてくる。
無関係だからそんな思ってもないような言葉が吐けるんだ、と相手を卑下してしまう。そ
んな自分自身がどうしようもない人間に思えて苛立ちが増していく。ありとあらゆる事が
悪循環になり、どうにかなってしまいそうだった。
「先生、大丈夫?」そう声を掛けてくれたのは受け持つ2組の生徒の四宮菜奈だった。
正直、その言葉には心を和らげてくれる効果があった。蔵川が逮捕されてから、滅入って
いた自分に優しい言葉を掛けてくれた生徒は彼女だけだった。他の生徒は蔵川京介と一切
の関係を断とうとし、今回の事件に関してへたに干渉しないようにしていた。そのことで
どれほど頭を悩ませていたかという担任の気持ちも同時に。ただ、四宮はこうして何彼に
つけて毎日職員室まで来ては気遣ってくれていた。これまで、それなりの中学生の生徒と
接してきたが、なかなか中学1年生でここまで出来る女子はそういない。彼女にはどこか
しら同年代の女子とは違うものがあると思っていたが、やはりそうだった。勉強も運動も
人間としても、全てが平均的に調和が取れている。かといって、出来過ぎという分野がな
いのも特徴だった。全てにおいて上位に位置づけられるのに、どれもクラスで二番手から
三番手あたりにいるのだ。中間テストではどの教科もクラスで五位以内に入り、合計でも
クラスの二位だった。運動もよく出来るらしいが、抜きん出た何かというのはない。人間
的にも、それが当てはまる。ホームルームで話し合いが行われると、学級委員の進行では
大概は怠慢な空気が訪れてしまう。最終的には、じゃんけんででも決められそうな勢いに
さえなっていく。しかし、そういうところで彼女はさりげなく進行を軌道修正するような
一言をもらす。あくまで、さりげなく。客観的に見ていれば、彼女が話し合いを取り仕切
ってるようにも思える。だが、四宮は前に出て来るタイプではなかった。出ようと思えば
出れるし、2組のリーダー的存在になれると思う。ただ、彼女はそれをしない。学級委員
に向いていると指摘したこともあるが、「絶対に嫌」の一点張りだった。目立つのは好き
じゃないようだ。総合的に考えてみると、目立ちたくはないから全てにおいて適度な位置
を保っているのではないかと思えた。本当はトップになれるのに、わざとそれをしないで
自分をセーブしているんじゃないかと。そうだとしたら、年齢にそぐわずしたたかな女だ
といえる。
「あぁ、大丈夫だよ」強がって、そう返した。
「あんまり考えすぎちゃダメだよ。先生が何したわけじゃないんだから」こちらの思い
を見透かしたように四宮は気遣いの言葉を言ってくる。
野竿は不適切な感情に駆られる。それが誤った都合のよすぎる解釈であるのは分かって
いる。しかし、こんな40代から50代の同僚の異性しかいない職場にいると若い女の子
の魅力というのはこれでもかと心を揺さぶる。今までは感情を抑えてきたが、こうして窮
地に立たされて感覚が鈍っていた。その中で、こんなふうに優しくされてしまうと芯が大
きくブレてしまうのが事実だった。
「ありがとう、四宮。わざわざ心配しなくてもいいよ」また強がって、返した。
「了解。もし、私に出来ることがあったら何でも言ってね」そう言い、四宮は帰ってい
った。職員室の出入り口で振り返り、こちらに手を振ってきたので同じように返した。
捜査本部では思うように進まない事件の取り調べに難航していた。唐木田は長く解き放
たれない悩みにいい加減うんざりしてきた。「どうなっとるんや、一体全体」
横から2人分のコーヒーを持った牛嶋が1つを差し出す。「考えすぎもよくないですよ。
一度休憩しましょう」
「そんなん言うてもなぁ」蔵川親子は全くもって犯行を認める気がない。そんなに意思
の凝固な人間にはみえないのだが、一向に口を割る気配はない。事件の経緯と証拠品から
すれば2人の犯行は最も考えやすいのだが、「知らない」「分からない」「やってない」
の連続だ。嘘がうまいタイプにはみえないし、嘘をついているようにもみえない。刑事を
長年やってきた勘からして、あの親子があんな卑劣な殺人をするようには思えない。いや、
もしかすると表向きにはない裏の顔を持ち合わせてるのかもしれない。あれだけのことを
やってのける犯人だ、それぐらいはやってくれるだろう。「どうも何か引っ掛かるんや」
「何か、と言いますと」
「分からん。ベテランの直感や」
「そんなんじゃ何の根拠にもならないでしょう」
「阿呆、頭のいい官僚の兄ちゃんの推理より100の現場に携わった平の刑事の直感の
方が何倍も当てにできるもんや。こちとらなぁ、泥水かぶってまで毎日ヒーコラ歩き回っ
とんねん」
「そりゃ、唐木田さんの言うことは当たってるんでしょうけど。でも、今回の事件には
蔵川親子が犯人であると断定できる証拠があるんですから。事件のあった時刻、あの2人
には二件ともにアリバイもない。事件にまつわる全ては蔵川がやったと言ってるようなも
のです」
唐木田は机をバシッと叩いた。「それがおかしいんや。状況はあまりに蔵川親子が犯人
ですよ、と指し示しすぎてる。あれだけ完璧に近く犯行を成し遂げた犯人が何であんなド
ジを踏むんや」
「いくら連続殺人犯といえど人の子です。あの状況で緊張していたんでしょう」
「それはそうだろうが、さすがにキーホルダーを落として気づかんのはおかしいやろ。
チャリーン、だとか響くはずや。夜中の病室なら尚更のこと」そうだ、あの犯行を行った
人間にしては結構にずぼらだ。
「確かに・・・・・・」蔵川京介が現場で十字架のキーホルダーを落としたことを想像
してみる。唐木田の言うように、その音が耳に入らないのはおかしいといえる。13歳で
あることを加えれば極度の緊張感であったことも想定されるが、そんな人間にあの犯行が
可能なのだろうか。「でもですよ、そうすると誰が他にあの事件を起こしたんですか」
牛嶋のその質問には唐木田も返す言葉がなかった。一つ息をつき、「さぁな」と言うの
がやっとだった。あの事件には不可解な部分もある。しかし、では誰が真犯人なのかとな
ってしまえば捜査はほとんどゼロの状態に戻ってしまうだけだ。捜査本部とすれば、あの
2人が自供してくれるのが一番願いたいところである。それをわざわざふりだしから再開
するなんて面倒なこと、正直やってられないだろう。このまま流れに身を任せるべきなの
か、唐木田は迷っていた。
「あれねぇ、さっさと私がやりましたって言えばいいのに」病院でさりげなく事件につ
いて探りをいれると、福笑いがぼやいた。学校側に同じく病院側にしても犯人が特定さ
れないと対応がはっきりできないのが事実だ。「だってさぁ、どう考えたってあの2人に
違いないんでしょ。だったら、さっさと認めて少しでも罪を軽くした方がいいんじゃない」
「うん、どうだろうね」明言は避けておく。
「でもなぁ、あんなことするような人には見えなかったけどな。話しやすいし、穏やか
な印象だったもん。まぁ、たまにセクハラじみたこと言われたりはしてたけど」あいつ、
福笑いにまでそんなことしてたのか。
「なんか怖いもんね。未だに夜寝るときとか誰かいるんじゃないか、って縮んじゃうし」
心配しなくても、お前のことなんか誰も襲いやしないよ。
「人は見た目じゃ分かんないってことだよね。私だってさ、こう見えて普段はがさつだ
もん」全然見た目どおりだろ。ってか、お前の顔ががさつだ。
「赤妻さん」後ろから婦長の下越がやってくると福笑いはそそくさと仕事に戻っていく。
「またサボってたんじゃないの、彼女」今度は婦長からナースへの探りがはいる。
「いえ・・・・・・一応、ギリで仕事の話です」暗黙の了解で肩を持っておく。
「そう。もしサボってたりしたら、仕事しなさいって言っておいてね」
「いやぁ、私にそんな権限ありませんから」
「何言ってんの。この病院では菜奈ちゃんの方が先輩なんだから」
「先輩って、私何もしてないのに」
「そんなことないわ。患者さんでも長い人になると新人の看護婦にああでもないこうで
もないってダメ出しするもんよ。それに比べたら、菜奈ちゃんは医療の事も勉強してるし
問題ないわよ」
「いやいや、私なんかまだまだ全然だから」
「そうかしら。私は未来の名医の卵だと思ってるんだけどな」
えぇっ、と瞳を開く菜奈を見て下越はクスクスと笑っていた。からかわれた菜奈も満更
という気分でもない。下越に言われると悪い気はしない言葉だった。福笑いに言われたら
ぶっとばしたくなるだろうが。
「まぁ、あんまり赤妻さんの相手してあげなくてもいいからね。菜奈ちゃんは自分の事
があるんだし」
「いいえ、赤妻さんと話してると楽しいですから」嘘だ。あいつの話なんて、半分以上
は愚痴だ。耳が腐りそうになる。
「そういえば、事件のことなんだけど。菜奈ちゃんの学校の方ではどうなってるの」
「そうですね・・・・・・いろいろ困ってるらしいです。犯人が確定されてないから、
苦情とかの対応もはっきりとできないみたいで。学校はもちろん自分のところの生徒が犯
人でないことを願ってるんだろうし」
「やっぱり、学校もそうなのね。こっちも同じよ。患者さんや外来の方の対応に困って
るの。病院としても、もちろん蔵川さんが犯人でないことがベストなんだけれど。そうで
あって欲しいから、曖昧な返事とかをしてると外来を回避されちゃったりもして。警察も
頑張ってるでしょうけれど、早く白黒つけてくれるとありがたいのよね」病院側も未曾有
の出来事に弱っていた。そうだ、それでいいんだ。これが私たちの思い描いてたシナリオ
そのものなんだ。
―でもね、まだまだこんなものは序の口なんだよ。もっと地獄を見せてあげるから、待っ
ててね。
結局、蔵川築介と京介は容疑否認のまま勾留されることが決まった。このままいけば、
あの親子は無実の罪を刑事裁判で裁かれることになる。それでいい。刑の重さなんかどう
だっていい。裁判が何回開かれようが、誰が証言をしようが関係ない。奴らが犯人である
結果さえ残れば、それだけでいい。
もう焦点は次に向かっている。前は死にかけの眠り人だったが、今回は標的も普通の人
間になる。失敗は計画の失態を意味し、そんな損ないが有り得るわけがない。あんな日々
を薄ったれて過ごしている凡人たちに俺たちの生きる糧を潰されてたまるか。
―復讐とは成されてこそのものだ。
安里市立第一中学校、四宮菜奈が通っている学校だ。近くに来たときに遠目に建物を見
たことはあったが、こうして間近から見るのは初めてだった。学校の横手にある劇場の外
階段から隠れてカメラを構えると、校門から出て来る下校中の女子生徒の姿を次々とフィ
ルムにおさえていく。夕暮れの校舎から吐き出されるように出て来る学生は拘束から解放
されたように伸び伸びとした表情が並んでるが、そんなものは目的ではない。ピントを合
わすのは顔ではなく体だ。全体像というよりも制服に的を定め、膨らみはじめた胸や汚れ
ていない白く細い足も撮っていく。変態の気持ちはよく分からないが、それらしい写真を
仕上げていけばいいだろう。周りの人間はよく成人向けの雑誌を眺めながら裸の女の写真
に興奮しているが、正直いって性の目覚めなんかに興味はない。いらない欲に溺れること
などしないし、そんな低俗なところにはいない。童貞なんかとっくに失くしている。俺が
興奮する女は一人だけだし、それ以外の女はいてもいなくても支障はない。
まばらに流れていく学生の中に四宮菜奈の姿を捉える。視線の角度、身体の傾き、友人
との距離感、全てこちらに都合がいいようにポジショニングを取ってくれているのが分か
った。これでもかとシャッターをきり、その快活な姿をカメラの記憶に留めていく。もう
ピントが合わない距離まで離れると、彼女の視線がこちらに向いた。こっちも彼女へ視線
を向ける。止まったように流れる数秒の間、2人とも無表情を続けていた。
野竿の気分は相変わらず浮かなかった。蔵川京介の勾留の報せが届き、事態はほぼ親子
を犯人と示すのも同然となった。ここから別の人間が犯人となって逮捕されるなんて逆転
は起こらないだろう。どうにもやりきれないが、現状を受け止めなければならない。蔵川
は連続殺人犯であり、自分はその担任だ。普段のあいつを見るかぎり、そんなことに手を
染めるようには微塵も思えないが現実がこうなっている以上は仕方がない。周囲や世間か
らの厳しい目を向けられるだろう。何かしらの処分だってあるかもしれない。こうなった
からには学校側としてもないがしろには出来ない。どうなってしまうんだ、俺は。副担任
に格下げか。別の学校へ飛ばされるのか。まさか教師を辞めさせる、なんてことはしない
だろう。それはあまりにもだ。冗談じゃない、俺が何をしたっていうんだ。そうだ、俺は
何も悪いことなんかしていないんだ。こんなに怯える理由がない、いっそ開き直ってやれ
ばいい。俺の教え子は犯罪者、それがどうしたと。あいつが勝手に殺したんだ。あいつの
都合で俺は苦しめられてるんだ。俺は被害者、ただの被害者なんだ。もっと俺に同情して
くれ、優しく手を差し伸べてくれ。
「先生、どうしたの」その言葉に我に返る。声の方を向くと、四宮菜奈が前を指差して
いた。前に向き直すと、目の前に壁がありハッとなる。彼女が声を掛けてくれなかったら
壁に突っ込んでいるところだった。「なんか、そのまま当たりに行きそうな感じだったよ」
「あぁ、すまん」
「授業中から気になってたんだ。また考え事でしょ。言ったじゃんか、先生がそんなに
背負わなくていいんだって」
「そんなこと言ってもなぁ・・・・・・」言った後に自分の言葉に起こされた。普通に
弱音を吐こうとしている自分がいる。生徒、しかも中学生の女の子に対して大人の弱さを
さらけ出そうとしている。そんなバカな、これまでこんな事はなかった。相手はまだ少し
前までランドセルを背負ってた子供だぞ。こうして気にかけてくれるのは嬉しいが、本気
で相談をするなんてあるはずがない。そうか、あまりにも精神的にやられてしまっている
んだ。「いや、何でもないよ」
「いいよ、何でも言ってくれて」四宮は気がかりそうな顔をして言った。その純粋な瞳
に弱った野竿の心は揺らぎそうになる。
「本当に何でもないよ。ありがとうな、心配してくれて」なんとか正気を保ち、教師と
しての態度を心掛ける。
そう、と言って四宮は顔をくずした。「先生、どこか気晴らしにでも行ったら?」
「そうだな、そうするかな」確かに心身のリフレッシュが必要かもしれない、と野竿は
思った。
「なんなら、私が一緒に行こうかな」
えっ、と野竿は声に出してしまう。それに四宮は驚いた表情を見せる。
「嘘だよぉ、ジョークだってば」無邪気に彼女は笑い飛ばしていた。「第一、今の状況
で先生と私がどこかに行く方がまずいじゃん」
「そうか、そうだな」野竿も無理に笑った。四宮が冗談にしてくれたおかげで助かった。
あんな言葉を本気にするなんてどうかしている。彼女でなければ、変態扱いされてたかも
しれない。
そろそろ時間だ、と四宮はその場を後にした。着替えのようなものを持っていたので、
次は体育なのだろう。こちらに笑顔で手を振ってくれたので、野竿は小さく振り返した。
姿が見えなくなると、異様な脱力感を感じた。四宮菜奈と接すると、なぜか疲労を覚える。
どうしてだ。数多くの生徒の中の一人だろう、彼女は。何をそんなに身構えることがある
というんだ。おかしい、あの事件で自分はどうにかなってしまってるんだ。
ドウニカ・・・・・・ドウニカナッテシマッテル・・・・・・。
気づくと、足は水泳室に向かっていた。いや、明らかに自分の意識でそうしているのだ。
己の異変を隠そうとして理由になるような事を引き出してるだけだ。安里第一中学校は温
水プールなので、二階の見学室から見る分には気づかれる可能性は低い。幸い、見学者は
いなかったのですんなりと見学室に入ることができた。とはいえ、一階のプールにいる生
徒に運悪く発見されることがないように慎重にこっそりと下の様子を覗き込んだ。下から
響く声変わりのしていない高めの声音に心臓が高鳴る。その中に四宮菜奈の姿を見つける
と、それからしばらく彼女を目で追い続けた。鼓動が早くなっていく。確実に四宮の姿に
心が揺れている。おかしい、どういうことだ。俺はロリコンなんかじゃない。証拠に、今
まで生徒に恋愛感情を抱いたことなどない。それが今、四宮の水着姿に興奮と動揺が続い
ている。まずいと思いながら不届きな考えをしている。四宮菜奈をどうにかしたい、あの
体をどうにかしたいと。野竿はもうそこにはいられなくなり、急ぐように呼吸を正しなが
ら早歩きで戻っていった。
四宮菜奈はかわいい子だ。パッチリとした瞳と小さめの鼻とアヒル口のバランスは的確
なポジションをとらえている。涼しげな顔立ちと緩んだ笑顔のギャップは男心をくすぐる。
もしも同い年で同じクラスに彼女がいたとしたら、間違いなく恋をしているだろう。違う、
自分はもう彼女に恋をしてしまっている。エスカレートしていく気持ちを止めることはで
きない。しかし、現実は教師と生徒で30歳以上の年齢差は縮まることはない。この想い
は届かないのだろうか、叶わないのだろうか。
四宮自身はどうなんだ。いつもの様子を見てるかぎり、脈がないとは思えない。彼女は
他の女子生徒とは違い、こんな親父な教師でもウザがらない。毎日気さくに話し掛けてく
れるし、どの生徒よりも距離は近かった。こちらが適度な距離を保とうとするところを向
こうからどんどん狭めてきてくる。蔵川の一件があってからは毎日心配して来てくれるし、
常にこちらの顔色を窺ってくれてるようだった。これがただの40代も後半の独身男への
態度だろうか。自分は特に冴えたところもない、何の変哲もない男だ。あれはそんな暗く
沈んだ男に対する行動ではない。そうだ、きっと四宮も俺のことを想っているに違いない。
彼女と俺は両想いなんだ。言葉にするのが恥ずかしくて、ああいう行動にでていたという
わけなんだな。分かったよ、そういうことならこっちから迎えに行ってあげるよ。
ムカエニ・・・・・・ムカエニイッテアゲルヨ・・・・・・。
「君の処分も含めて検討させてもらってるよ」朝、校長から言われた一言だった。愕然
とした。もしかするととは考えていたが、それでも自分にまで手が及ぶとは本気にはして
いなかったから。俺は何もしていない。何もしていないのに何の処分を受けなければなら
ないというんだ。蔵川京介の内に潜んだ悪を見抜けなかったから、というならあまりにも
だろう。いくら生徒といえども、犯罪を犯す人間かどうかを対象に見たことなんかない。
ましてや中学1年生だし、蔵川なんか前兆がまるでなかった。それを見抜ける教師の方が
表彰ものだろう。強引すぎる、残忍すぎる、勝手すぎる。辞めたいのなら校長が一人だけ
辞めればいい。あんたが学校の責任者なんだから、下の者をかばって自ら腹を切るのが筋
というものだ。なのに、俺まで巻き添えにしようだなんて話がおかしいのも甚だしい。こ
んなことがあってたまるか。これじゃ、俺はこの先ずっと生徒を連続殺人犯にした教師と
いうレッテルを貼られて生きていかなければならない。そんなもの真っ平ごめんだ。誰か、
誰か助けてくれ。誰か俺を助けてくれるやつは・・・・・・いた。
「ねぇ、蔵川ってどうなっちゃうのかな」放課後、部活終わりで一緒に帰ろうとしてい
た千鶴から尋ねられる。不安げな彼女の横顔を見つけると、菜奈は気づかれないように微
笑んだ。彼女もようやく蔵川親子が犯人であると納得したのだ。その事実に菜奈は顔色を
緩ませずにはいられなかった。
―そうだよ。そうやって、人を心で裏切っていけばいいんだよ。
「私もよく分かんないけど、こういう事件で死んだのが一人だった場合は懲役何年って
のを病院の人に聞いたの。でも、二人だとどうなるか・・・・・・正直分かんない」別に
そんなことどうだろうと構わない。奴らの刑が軽かろうが重かろうが大した問題じゃない。
全てがこちらの意のままに動けばそれでいい。
その時、後ろから名前を呼ばれたので振り返ると野竿がいた。ゴミ捨て場にあったゴミ
の袋が何者かによって破られて中身が散乱する悪質なイタズラがあったらしく、その清掃
を一緒にやってもらいたいと言われた。菜奈は美化委員で野竿が委員の担当教師であった
ことから頼まれたのだ。委員会はクラスから男女が一人ずつ何かしらに就かなければなら
ない。2組からは菜奈と蔵川が美化委員になっていた。菜奈が就くと、蔵川が後からくっ
ついてきたのは言うまでもない。今、他の教師と美化委員も借り出されてると聞き、それ
なら行かなければ面目が立たないと菜奈も引き受けた。千鶴も一緒にやるよと言ったが、
申し訳ないからと彼女は帰した。そんなことをされたら、せっかくの計画が台無しだ。
ゴミ捨て場に行くまでの間、野竿は荒らされた状況を細かに説明していく。緊張のせい
か、滑るように口から言葉が流れていた。まるで彼がそこを荒らした当人かのように詳細
な部分まで語っていた。それはそうだろう、こいつが実際に荒らした本人なのだから。今
から皆で掃除をすればすぐに終わるから、と野竿は言う。そんな嘘、丸分かりだ。猿より
下手くそな芝居に付き合い、緩みそうになる気を引き締めた。
校舎裏のゴミ捨て場に着くと、予想どおりに誰もそこにはいなかった。多く積まれたゴ
ミ袋も一つも荒らされてはいなかった。それも予想の範疇だった。ゴミがどうだかなんて
菜奈を呼び出すための口実にすぎないんだから。当然のごとく、野竿は作戦が自分の思う
ままに進んでると思い込み、菜奈は全てを見破った上でここまで来ていた。野竿の息遣い
は増していた。落ち着かせようとして、余計に空回りしている。奴は次の展開を待ってい
る。この状況を見て、何も起こってないことに菜奈が何かを発することを。そして、その
思惑にわざと乗っかってやる。「先生、何もないよ」
その言葉を待っていたかのように野竿はゆっくりと顔をこちらに向けた。平生を装って
いるつもりだろうが、完全に目が据わっていた。これが演技の試験なら一発で落選だ。も
しも菜奈が何も知らないとしたら、その不自然さで簡単に事態の悪さを察知していること
だろう。「なぁ、四宮」
「いつも俺のことを見てるだろう」
「えっ」空気の異変に気づいたフリをする。真顔になり、野竿をジッと見た。
「毎日、俺のことを見ているんだろ?」
「それは・・・・・・いろいろあったから心配で」
「そうだな、心配してくれるのなんてお前だけだ。他の奴らなんて、言葉を発してるだ
けで何とも思っちゃいない。本当に俺のことを気にかけてくれてるのは四宮、お前一人だ
けなんだ」嬉しいよ、と野竿は一歩ずつ近づいてくる。それに合わせ、菜奈は一歩ずつ後
ろへ後ずさる。
「四宮、俺のことが好きなんだろ」
「えっ」掠れたような小さな声を出す。怯えたフリをして、迫ってくる野竿から視線は
外さなかった。
「俺のことが好きだから、そんなに俺を心配してくれるんだろ」
「何言ってんの、先生・・・・・・そんなんじゃないよ」
「恥ずかしがらなくたっていい。隠したって、もう分かってるんだよ」
「だから、違うんだよ・・・・・・そんなふうになんて見てないんだよ」菜奈の背中が
校舎にぴったりと付く。それでも、野獣と化した野竿は止まらない。涙を瞳に溜めて、弱
々しい声で呟いた。「止めて・・・・・・先生」
「大丈夫だ。四宮の望むとおりにしてやるから」距離が無いほどに詰め寄ると、野竿の
手の平がそっと左の頬に添えられた。老いの始まりが感じられるざらざらした感触が気色
悪かった。
菜奈の肌に触れたことで沸点を超えたのか、野竿は一気に抱きついてきた。初めて味わ
う犯される感覚に大声を出したくなるが、思いきりそれを押し殺す。もうすぐ、もうすぐ
だから。覆い被さり、まとわりついてくる野竿からは言葉にならないイカれた声が何度と
伝わってくる。臭い身体や息に嫌悪感を抱きながら我慢を続けた。
その時、貼りついていた圧迫感がいきなりはがれた。視界に光が戻ると、そこには苦い
顔を浮かべる野竿とその後ろから彼を絞める人間がいた。その人間は野竿の顎元をグッと
腕で絞め、あっという間に失神させてしまった。ヘルメットにレザーのジャケットとパン
ツにグローブと完全装備をした人間は菜奈の方を向くと、ヘルメットのシールドを開けた。
精悍な瞳を見ると、菜奈は一つ深く頷く。それを確認すると、その人間はシールドを閉じ
て校舎裏の奥の方へと走り去っていった。姿が消えてから1分を時計で数え、初めて菜奈
は大声を出した。
最初に来たのは2学年の女性教師だった。ゴミ置き場から近いところに卓球場があるの
を思い出し、彼女が卓球部の顧問だったのも思い出した。彼女はそこにある光景を見ると、
悲鳴のような声を上げた。それはそうだろう。教師が気を失って倒れ、生徒が心ここにな
い状態で血を流していたのだから。制服を乱れさせ、髪もボサボサにし、身体を土で汚し、
唇を噛んで血を垂らし、それらしい演出をしておいたので彼女は2人の状態を確認すると
逃げるように職員室へ駆けて行った。
きらきらひかる おそらのほしよ
まばたきしては みんなをみてる
きらきらひかる おそらのほしよ
きらきらひかる おそらのほしよ
みんなのうたが とどくといいな
きらきらひかる おそらのほしよ
空を眺めると、体の中に「きらきら星」を流した。きっと今頃、あなたもどこかで流し
てくれてるのだろうと思い瞳を閉じた。
―信じてる。あなたの願いは私の願いだと。




