地下世界 Part 1
その日は蒸し暑く、タバコすら吸う気力すら起きない日だった。目を覚ますと黒猫の形を模した壁がけ時計が午後一時を指していた。一瞬そこは本当に現実なのかと私は勘ぐった。悪夢で目が覚めるのは久方ぶりだが悪い気分ではなかった。それは悪夢であっても何か、愛おしい悪夢だった。起きてすぐ、私は夢の内容を簡潔に書き留め、構想を練った。これから綴られる物語は私の見た夢をベースに再解釈したものだ。残念ながら結末まで見きれなかった夢だが私はこの夢を育てていきたい。その一心で私は今パソコンに向かって打ち続けている。夢は純粋な混沌でありそれは子供と何一つ変わらない。ある種の母性をもってこの物語を書き上げていきたいと私は思っている。
体が怠い。まるで蛙の毒を血管に直接打ち込まれたような気怠さだ。視界はまだ元には戻ってきてはいない。3マイル先のトンネルの抜け穴を薄目で見てるかのようだ。それに思考も。でもそんな靄がかった頭でも体に感じる負荷だけは研ぎ澄まされたように感じる。ざらついた喉、足首の鈍痛、響くような頭痛、手の痺れ。どうしてこれだけ意識ははっきりとしてないのに苦痛だけは全てリアルに感じ取れるのか。人間はうまいこと生きられないのだなと俺は感じた。
俺はどのくらい寝ていたのだろうか。地下鉄はすでにエンジン系統を止め、静寂の中、プラットホームに佇んでいた。乗客は誰もいない。車両にはズタズタの新聞紙やアリゾナの缶が無造作に落ちているだけだった。今の俺を見ればそこらに落ちているゴミとそう変わらないのかもしれないと俺は思った。
俺は体勢を立て直し、窓の外から霞んだ視界でプラットホームを眺めた。誰もいない。当たり前だ。二十年前のの疫病騒動以来、地下鉄はアホらしい終電制度を設けやがった。寝過ごしたってことは今頃ブルックリンの奥地、もしくはクイーンズのしみったれたチャイナタウンの近くだろう。どちらにしろ最果て、あとはブロンクスの住宅街じゃないことを祈るだけだ。もしそうならば、「神よ、なぜ私にこんな仕打ちを」とお決まりのセリフを吐かなくちゃいけなくなる。こんな地下鉄の中で拾ってくれる神がいるとは思えないが。視界が元に戻るまではまだ少し時間がかかりそうだった。しかし霞が一向に晴れる気配がない。頭痛は治まってきたが未だ目の奥に何か異物があるような気がした。目を窓から離し、ぼんやりと車内の薄汚れた蛍光灯を見つめた。蛍光灯の中には小さな蛾や蠅の死骸が数匹転がっていた。光を求めた結果、そこから抜け出せなくなる様は見ていて虚しくなった。
かすかに耳を澄ましてみると何かノイズのような音が聞こえることに気がついた。幻聴ではなく、はっきりとこの淀んだ空間に音が振動していることがわかる。プラットホームからではない。この車両のどこかから聞こえる。生き物の発する音ではないことは確かだ。なにかこう、電子的な、無機質で乾いた音だ。音は少しづつ大きくなっていく。俺は頭上を確認した。車内スピーカーだ。ノイズは間違えなくそこからきている。ノイズは徐々に大きく反響し、次第に何か生き物のうめき声のような生命力を帯びてきた。すると俺の頭はそのノイズに反応するかのように痛みが増してきた。頭の芯が軋む。焼きついた鉄の棒をぶっ刺される感覚だ。痛みに耐え切れず俺は頭を抱えて唸った。しかしノイズは止まるどころかさらに大きくなっていく。
「こっちだよ、はやくきてよ!」
ノイズとノイズの間に何かが聞こえた。はっきりと人の声が。でも俺はそんなことじっくりと考えている暇はなかった。意識は薄れていくのに苦痛だけは依然リアルなままだった。そして眩い光が目の前で弾けた。