木片が誘う道
どうやら、迷い込んでしまったらしい。
当て処もなく散歩しているうちに、気付けば私は、ひとけのない田舎道の端でぼーっと立ち尽くしていた。
風に乗って漂ってくる草木の匂いに、それに混じっている土の匂い。懐かしい気がするけれど、何故か居心地の悪さも感じる――昔の友人と数十年ぶりに偶然出会ったかのような、そんな気まずさ。
……どこなんだろう、ここは。
見覚えのない風景の中、キョロキョロと辺りを見回すと、道路を挟んで反対側にバス停があるのを発見した。
二人用のベンチの傍に時刻表が設置されているだけの、簡素なバス停だ。その奥には雑木林が広がっているようだが、他には何も見当たらない。振り返ってみても同じような木立が茂っており、左右には道路が続いているだけ――知らず知らずのうちに、だいぶ山奥にまで入り込んでしまっていたようだ。
周りの木々が揺れる。
ざわり……ざわり……。
ぎし……ぎし……。
迷い込んでしまった私を警戒するかのように、静かに、同時におぞましく、揺れる。余所者は入ってくるな、と暗に拒絶されているようにも思えた。
植物にも、仲間意識のようなものがあるのだろうか。もしもそうなら、警戒されて当然だ――私は、他人の家に勝手に上がり込んだ泥棒のようなものなのだから。
動物に威嚇されるよりも、こうして目も口もない木々に囲まれることのほうが、或いは威圧感を感じてしまうものなのかもしれない。睨み付けたり罵倒を浴びせたりしてこないぶん、彼らは一方的に私を見下ろし、観察してくる。
何も語らず、何もしない。
何かを言いたそうにしながら、佇んでいるだけ……「何もしてこない」、「何を考えているのか分からない」というのは、逆に恐怖心を煽られてしまう。
しかし、彼らに倣っていつまでも立ち竦んでいるわけにもいかない。ひとまずバス停のベンチにでも座って落ち着こう――そんなふうに考えて道路を渡ろうとすると、みしり、とアスファルトの地面が軋んだ。
おかしいな。
固いアスファルトが、人間ひとり乗った程度で軋むはずがないのだけれど……地盤がやわらかいのだろうか。
躊躇わずにそのまま歩いていくと、みしりみしり!と、軋む音は大きくなっていき、私が道路を渡り切る頃には、あちこちに亀裂が入ってしまっていた。
ばきっ!と、不穏な音が響く。
どうやらアスファルトの耐久度が限界を迎えたらしく、派手な音をたてながら、道路は崩壊していってしまった。あとには、道というそこにあるべき存在を失った空間だけが、ぽっかりと空いている。
……よわったな。
これじゃあ、帰れなくなってしまった。
ベンチに座ろうという暢気な考え方がそもそも間違えていたのだろうか――と、バス停の方を振り向くと、しかしそこには先客が座っていた。私の記憶違いでなければ、道路の向こう側から見たときには人影なんてなかったはずだが。
小学生くらいの少年。
いや、少女かもしれない。
どこかの小学校の制服を着ていて、それが男子用だったから、一見男の子だと思ってしまったけれど、顔をよく見れば女の子のようにも見える。
子供らしくぱたぱたと足を動かしながら、「まだかなー?」とバスを待っている様子だけれど、残念ながら、もうバスは来ないだろう――道路がなくなってしまったのだから。道がなければ、バスは走れない。
「ねえねえ」
少年か少女か分からないその子供は、道路が壊れたことなど気にも留めていない様子で、私に話しかけてきた。「なにかな?」と私が反応すると、子供は嬉しそうな表情でこう言った。
「あなたは、独り?」
「……うん。今は、一人」
「そっかぁ」
そんな短い一言を発したかと思うと、彼(彼女?)は、ベンチの上でうつ伏せに寝そべり始めた。
「きみは……一人、なのかな?友達は?お父さんかお母さんは?いけないよ、こんな山奥に一人で来たら。危ないじゃ――」
「ねえねえ」
と、しかし彼は私の言葉を無視して、さっきと同じように呼びかけてきた。
彼は人差し指で、ベンチの後ろ側を示す。そっちを見ろということらしい。
……見たところで、そこには、なんの変哲もない一本の木が立っているだけなのだが。
「そこのさ、木の根元。根っこのところに、何か書いてあるでしょ?」
木の根元?
確かによく見てみれば、その木の根元には一枚の板切れが落ちていて、刃物か何かで文字が彫ってあるようにも見える。
看板が支柱から外れてあそこに落ちてしまったのだろうか――いや、それにしては小さすぎるような気もする。大きさとしては、蒲鉾板よりも一回り大きい程度だ。
「読んでみてよ」
「え、なんで?」
「いいからさ。ね。読んでくれたら、感謝するから」
そりゃまあ、何かを頼んだあとには感謝をするのが普通だろうと、そんな不満を抱きつつも、その木の傍に近付く。
立派な木だ。
建物の建材にすれば、きっと重厚で上質な木造建築物が出来上がるだろうというくらい、しっかりとした、それでいて綺麗な大木だった。
だけど……それに比べて、こっちの板切れはどうだろう。
あちこち腐食して割れていて、文字通り板の切れっ端という感じだ。お世辞にも、しっかりしているとも、綺麗だとも言えない。一体、どこの誰が何のために、こんな板切れに文字を彫ったのだろうか……その意図が不明ならば、そこに彫られている文字も、まったくもって意味不明だった。
こう書かれている。
『これは木です』。
……こりゃご丁寧にどうも。
「どうだった?なんて書いてあったの?」
「これ……きみの悪戯?」
板切れに刻まれた字を彼に見せながら、私は言う。
「これは木です、だってさ。見れば分かるよ、そんなこと」
「ふーん、そっかぁ。でもそれ、わたしの悪戯なんかじゃないよ」
「え。そうなの?」
「うん」
そうなのか……でも、だとすれば、どうしてこんな文字を彫ってあるのだろう?他の子供たちがこの辺りに遊びに来たときに、気まぐれでやったのだろうか?
「それはね」
ごろん、と今度は仰向けになりながら、彼は楽しそうに言う。
「名札なんじゃないかって、わたしは思うよ」
「な、名札?」
「うん、名札。その木のお名前が書いてある、札」
言いながら彼は、もう一度あの木のほうに視線を向けた。それにつられて、私もそちらを向く。
名札。
木の名前。
だけど、『これは木です』なんて書いてあったところで、それが名前だということにはならないだろう。『木』は『木』であり、『木』でしかない。桜とか、松とか、楢とか……そういう個別の種類が書かれていれば、それは名前と捉えることも出来るだろうけど、『木』だけでは、あまりにも漠然としている。『私は人間です』と書かれたプレートを、私が首からさげているようなものだ。
「全然分かんない、って顔だね」
「うん、よく分からないな。どうしてきみは、これが名札だなんて思うの?」
「だってその木には、お名前がないじゃない」
いつの間にか。
目を離しているうちに、彼はベンチから立ち上がっていた。どころか、既に例の木の傍に立って、その幹を手で優しく撫でている。
「お名前がないと、なんて呼んだらいいのか分からないでしょ?それじゃ、可哀そうじゃない。どうしてここに生えているのか、なんでここに生きているのか、忘れられちゃうじゃない」
「そんなの……最初から、誰も知らないと思うよ。ここにこの木が生えている意味なんて、初めから誰も知らない」
「そう?ふーん……なんだか寂しいね」
彼は木の根元に腰を下ろし、背中を預けるようにして木に寄りかかった。昼寝でもするつもりなのか、目を閉じ、ゆっくりと呼吸している。
随分と気持ち良さそうだなぁ――と、私は羨ましくなってしまって、彼の真似をすることにした。
彼の隣に座り、同じようにして木に寄りかかる。そうすると……なんとも言えない、心地良い温かさに包まれたような気がした。ここに来たときの重苦しい雰囲気とは真逆の、優しい包容力。体の内側から、段々と温もりが広がっていくような感覚。
木の生命力なのだろうか?それとも、隣に座る彼の体温のせいなのか?
その体温で、ふと、誰かのことを思い出した。
どこの誰なのかは、分からないが。
「ねえねえ」
彼は目を瞑ったまま、私に語りかけてくる。
「この木は、柳だよ」
「柳?へぇ、そうなんだ……私の知ってる柳の木とは、全然違うなぁ」
「うん。それでね、あっちが梅。向こうにあるのが花水木。それでこっちが、百日紅」
「え?」
「それは、銀杏。そっちが檜。杉、樅、山毛欅、楠、欅、桂、白樫……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
慌てて、彼の発言を制止する。
「そんなに……そんなにいろいろな種類の木が、一か所に偏って生えるなんて、なんだかおかしいよ」
「そうだね、嘘だよ」
あっけらかんと、悪びれもせずに彼は答える。
「木の種類なんて、わたしには分からない。どの木にどんな名前がつけられているかなんて、知らない」
「なんだ……びっくりした」
「びっくりした?びっくりするよね。でもわたしは、そうだったらいいのになって思うよ」
眠っているかのように穏やかな表情を浮かべながら、彼は続ける。口元は、薄らと笑っているように見える。子供っぽくない落ち着いた笑い方だと、私は思った。
「いろんな木。太い木、細い木、背の高い木、背の低い木、綺麗な木、地味な木……どんな種類の木も、こうやって固まって――身を寄せ合って生きていられたら、いいのになって。そうしたら、きっと寂しくないでしょ?そこにいるだけで……そこにそうやって存在してるだけで、生きてるって感じがするでしょ?」
「……ええと」
「あなたは?どうして?」
不意に彼は、こちらを向いた。
白くて透明感のある、美しい顔。
しかしその顔は、もう笑っていない。穏やかだったあの笑顔は、消えてしまっていた。
能面のような、無表情。
「あなたはどうして、ここにいるの?」
「……分からないよ、そんなの。こっちが聞きたいくらいなんだから」
「でも、あなたはここに来た」
ぐいっ、と彼は私に顔を近づける――詰め寄ってくる。
その距離は、わずか数センチだ。
「どうして?忘れちゃった?あなたには帰る場所があるのに、なんでここに来たの?」
「帰る場所、って……でも」
問い詰めるように聞いてくる彼に対し、私は、断片的な言葉をたどたどしく紡ぐことしか出来なかった。
「ねえねえ、わたしたちは帰るところがないの。どこにも行けないの。もう、●がないから。ないないない――どこにも、ないの。だけどあなたには、まだあるでしょ?」
「……」
「大切にして。大切にしなさい。どうか捨てないで。捨てないで。忘れないで。捨てるくらいなら忘れていいけれど――だけどどうか、覚えていてよ」
捨てないで。
忘れないで。
その言葉が、私の頭の中で反響する。反射して、響いて、止まらなくなって……挙句の果てに、流れ出し始めた。
涙と一緒に。
私の体の外へと、ぽつぽつ、ぽつぽつ、ぽつぽつ――とめどなく流れ出ていく。
地面に落ちた涙は、小さな水溜まりになった。
それは少しずつ少しずつ大きくなり……やがて、巨大な水溜まりを形成した。池でもなく海でもない、あくまで、大きくて浅い水溜まり。
雑木林もバス停も、彼も私も――その生暖かくてなだらかな水溜まりの上に、浮かんでいた。
「ごめんなさい――私にも、ないよ。もう、持ってない。どこかで落としてきちゃったみたいだから」
「ううん」
首を、横に振る。
彼だか彼女だか分からない子供は、私の言葉を否定する。
「それなら、あそこにあるよ」
子供は右手を少しだけ持ち上げ、前方を指差した。ベンチの向こう側を、バス停の向こう側を、道路の向こう側――道を失った真っ白な空間の、その向こう側を。
何かが、そこに浮かんでいる。
それは心臓のようにも見えるし、盃のようにも見える。瓶の蓋のようにも見えるし、地図のようにも見えるし……握手をしている二対の手のようにも見える。
なんにでも見える。
本当に、なんにでも。
確かなことは何も言えないけれど、そこに浮いているそれが――温かく、光り輝いているということだけは、はっきりしていた。
招かれている、ような気がする。
おいで、と手招きされているような。
「ほら、見えるでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、行かなきゃ」
「でも、ここもすごく温かいよ?とっても心地良くて、とっても気持ちよくて……すぐにでも、眠ってしまいそう」
「そうだね。でもきっと、この温かさに慣れる頃には、向こうの光が恋しくなる。恋しくなって、欲しくなる。だけどそのときにはもう、向こう側には絶対に行けない。どこにも、行けなくなってるの。もう手に入らない――そう思ったとき、ここはすごく寒くなる。寒くなって寒くなって……それでようやく気付く。もう、何も持っていないんだ――って」
「……」
黙ったまま、今度は私が寝転がった。
仰向けに、行儀悪く手足を自由に伸ばして――重い頭を彼の太腿に預けて、その場に横たわる。
花の香りがした。
種類は分からないが。
「私はそれでも、ここにいたいよ……」
「……どうしても?」
「うん。ちょっと疲れちゃってね。どうしても、ここで休みたい。ずっとずっと疲れてて……でも、休めなかったんだ。座ろうとすると、椅子が消えてしまう。寝ようとすると、朝になる。星が見たくても、町明かりが邪魔で……花を見ようとすると、見る頃には枯れてしまっている――そんな感じ」
「そんな感じ、なんだ」
「そんな感じ、なの。でもここなら、いつまでも休めるでしょ?心地良く眠れるし、ここから見る星や花は、きっと綺麗なんじゃないかな?」
「……そうかもね」
「そう――じゃないの?」
「そうかもしれない。だけど、ここからじゃ見えなくなってしまうものもあるよ」
「そんなの、見えなくなったっていいよ」
「きっと、後悔する」
「後悔しない」
「……じゃあ、それは何?」
それ。
今度は、指で示さなくたって、彼がなんのことを言っているのかは理解できた。きっと、私の頬を流れ落ちていく涙のことを言っているのだろう。溢れて溢れて止まらない、この涙のことを言っているのだろう。
こんなのは、別になんともない。
私の制止も聞かずに――効かずに流れていくこの水分のことなんて、知るもんか。
「これは……■だけど」
「え?よく聞こえない」
「■!」
「……やっぱり、よく聞こえないや。それがなんなのか、忘れちゃってるってことなのかなぁ。聞き覚えはあるんだけど、分からない。だけどそれが流れてるってことは、あなたが悲しんでるってことだよね?悲しいか、それか寂しいか、どっちか」
私の頭を優しく撫でながら、子供に言い聞かせるかのように、彼は呟いた。
おかしいなぁ。
子供は、彼のほうなんだけど。
もしも彼の言うとおり、私が悲しんでいるとして――寂しがっているとして。そのせいで、涙をこぼしているのだとして。
ならばやっぱり私は、ここにいたい。
誰かに怒られるようなことはしていないし、邪魔をされる心配もない。私は、なんにも悪くない。
こうして、木々の中で休みたかっただけ。星や花を見たかっただけ。温かい場所にいたかっただけ。
ほら――星があんなに綺麗に瞬いている。
……おや。
違う。
私たちの頭上にはチカチカと明滅する何かが浮いていたが、それは星ではなかった。考えてもみれば、夜でもないのに星が見えるはずもない。
蝶だ。
青い、蝶。
どこから飛んできたのか、羽の青い綺麗な蝶が私たちの上で羽ばたいている。
見たことない蝶だけど、なんという種類なんだろう。ステンドグラスのように透き通った羽が、木漏れ日に照らされて輝いている。
そういえば子供の頃は、変わった虫を見つけては追いかけていたっけ――今じゃもう、奇妙な昆虫を見つけたところで何も感じない……どころか、気持ち悪いと感じてしまうときさえある。
もちろん、この蝶に対しては、そんな悪感情は微塵も湧いてこない。完璧に美しく、文句無しに綺麗で――欠点なんて見つからないくらいに、神々しく輝いている。
美しい。
ただただ、美しい。
と、しかし、羽ばたいているうちに蝶は、木々の間に作られていた蜘蛛の巣に引っかかってしまった。
蜘蛛は、蝶を捕らえる。
蝶は、蜘蛛の獲物だ。
それは誰でも知っていることで、当たり前の弱肉強食である。だから、ああして捕まってしまった以上、あの青い綺麗な蝶も、やがては蜘蛛に食べられてしまうのだろう。
どんなに美しかろうと、どんなに綺麗だろうと、どんなに輝いていようと。
蝶は蝶だから、特別じゃない。
蜘蛛が蜘蛛であり、特別ではないように。
助けてあげたいけれど、それでは蜘蛛のほうが可哀相だ――私だって、お腹が空いているときに食べ物を取り上げられたら辛いし……。
蝶は「助けて!」と言わんばかりに必死にもがいている。だが、やはり抜け出すことは敵わず、すぐに動かなくなってしまった。
……見たくない。
あの蝶が蜘蛛に食べられてしまうところなんて、見たくない。
そう思い、私は蝶から視線を逸らした。目をぎゅっと瞑り、別のことを考えようとした。
考えるのは、花や星のこと。
それに、自分のこと。
「――ワタシは、夢見ている」
「……え?」
真っ暗になった世界の中で、私に囁きかける声があった。彼の声ではなく、もちろん私自身の声でもない。
知らない誰かの、知らない声。
低くてやわらかい、優しげな声色。
「風や光に誘われて、どこかを旅することを夢見ている。海に森、街に空――行き先は分からないが、分からなくていいのだ。誘われるまま、招かれるままに、ワタシはついて行く」
声の主は楽しそうに語る。
気分良さそうに、最愛の人に向かって話しているかのように、伸び伸びと話す。
「辿り着く先が幻想であったとしても、それでいいのだ。誘う彼らの声が幻聴であったとしても、ワタシ自身がまぼろしであったとしても、構わない。それはそれで満足だ。きっとワタシは、ワタシに見合った旅をするだろう」
そのやわらかな声に、私は聞き入ってしまっていた――いや、聞き惚れていた、と表現するほうが正確かもしれない。
耳を澄ますまでもなく、自然に私の中に馴染んだそれらの言葉たちは、身体中を隅々まで巡り、私に活力を与えてくれた。活力は勇気を生み、勇気は心を動かし、心は私を支えた。
誰かに手を引かれたような気がして、ほんの少しだけ身体を起こす。
「アナタも、風や光の声を聞くといい」
よくよく聞いてみれば、その声は上からではなく、下から発されていた。
真下から。
私の下に広がる水溜まりから、語りかけていたのだ。
「アナタにはアナタの旅があるのだ。ワタシにはワタシの旅があるように、アナタには、アナタにしか歩けない旅路がある」
水面に映るワタシは、微笑みながら言った。
ワタシは私を支え、受け止め、抱きしめてくれていた。他の誰かには決して伝わらない、温かさで。
「その旅路を、ワタシは知らない」
「……私もまだ、知らないよ」
分からない。
だから、歩いてみるしかないのかもしれない。
立ち止まることも、道を逸れることも、諦めることも出来るけれど――先の見えない道を、怯えながらでも進まなきゃいけないのかもしれない。
ゆっくりと、消極的にでも良いから。不器用に、下手くそでも良いから。
私は――私しか、いないんだから。
ちゃぷん。
ちゃぷん、と。
顔の近くで水飛沫が跳ねた気がして、私は緩やかに目を開いた。決して急ぐことなく――昇っていく朝日よりも、遅い速さで。
すぐに日差しが、瞼の隙間に滑り込んでくる。
眩しい。
けど……なんだか少し、良い気分だ。
一体、どれくらいこうしていたのだろう――気づけば、かなり日が傾いてしまっている。空は真っ赤で、時刻はすっかり夕暮れ時だ。
ちらりと地面を見ると、あの広くて生温かい水溜まりは消えてしまっていた。日光で干上がってしまったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。耳を澄ましてみても、旅人のワタシが話しかけてくることはなかった――光の声に誘われ、新しい目的地に向けて旅立ったのかもしれない。蝶や蜘蛛も、もういなくなっていた。
みんなみんな、帰っていった。
そろそろ家に帰る時間――そして、じきに夕食の時間だ。
お腹が空いたら帰ってきなさい、と。
誰かが言っていたそんな言葉を、ふと、思い出した。
「私は……帰るよ」
寝転び、彼を見上げたままの姿勢で、私はぼそりと呟いた。進んで帰りたいわけでも、この場所が嫌になったわけでもないが、そろそろ戻らなければならない気がする。
私の道に、戻らなければ。
「うん。それがいい」
彼は否定しない。
「帰らないで」と、引き止めてくれることを実は少しだけ期待していたのだけれど、残念ながら、彼は私の言葉に頷くだけだった。
「……お腹も空いたしね」
「そうだね」
この温もりから離れるのは名残惜しいけれど――そう思いながらも、私は起き上がる。意外にも体は軽く、あっさりと起き上がることが出来た。ぐっ……と、大きく伸びをしたあと、そのままゆっくりと立ち上がる。
「また、ここに来たいな……来れるかな?」
「来れるかもしれない。でも、来ないほうがいいよ」
「それは……なんだか寂しいなぁ」
「そう言わないで……そうだ。これを持って行ってよ」
そう言うと彼は、私の右手を両手で掴んだ――力を込めてではなく、優しく包み込むように。
「えっと……何も、ないように見えるけど」
「向こう側に着いたら、きっと分かるよ」
「……そっか」
彼が嘘をついているようには見えない。木の種類についての虚言を並べ立てられたときのような、煙に巻かれている感覚はないのだ。
だからきっと、大切な何かを渡してくれたのだろう。
見えないけど必要なもの――見えてしまえば、失ってしまうもの。
そういう、もの。
「じゃあ、行っておいで」
「うん」
頷き、右手を胸に当てる。ドクドクと脈打つ心臓が私の中で確かに動いていることを実感すると、少しだけ安心した。
振り返ってバス停のほうを見れば、その先の道路は元に戻っていた。来るときには崩れ落ちてしまった道が、いつの間にか復活している――まるで、私が決意するのを待っていたかのように。
戻ろうと決断するのを、待っていたかのように。
「その調子」
後ろで、彼が再び微笑んでいる。
「あとは、進むだけだね」
「……うん」
応援してくれている彼には申し訳ないのだけれど、やっぱり進むのも戻るのも、怖い。私の道の上では、どちらの行為も辛くて切なくて、やるせない。逆に、ここに居るのはとても幸せで心地良いけれど……その幸福だって、誰かが保証してくれるものじゃない。彼の言う通りならば、いつか消えてしまうような紛い物の幸せ――なのだろう。
進むのも戻るのも、立ち止まることさえ、怖くて怖くて堪らない。たとえどんなに励まされようと、優しい言葉をかけられようと、決してその恐怖心が消えることはないだろう。
なら、もうそれでいい。
後ろ向きで悲観的な考え方だとは思うけれど、この恐怖心をズルズルと引きずりながらでも、私は私の道を行くしかないのだ。
私の知らない、私の道を……誰も知らない、私だけの道を。
私は、慎重にゆっくりと歩き出す。覚束ない足取りだけれど、まっすぐに。
彼から離れ、バス停から離れ――道に、一歩を踏み出す。
安定感のある、しっかりとした道のりではない。不安定で茫洋としていて、気を抜けば転んだり迷ったりしてしまいそうな道。
だけど。
それでも。
私が歩いている途中も、渡りきったあとも――その道が崩れることはなかった。
一度だけ、振り返る。
一度だけ。本当に一度だけ――という気持ちで振り返ると、バス停も生い茂る木々も、すでに見えなくなっていた。
もちろん、彼の姿もどこにも見えない。
「ここには、もう来ないほうがいいけど――」
どこかから、誰かの声が響く。
「――辛くなったときは、振り返ったり立ち止まったりしてみてね。そこには、わたしじゃない誰かがいてくれるはずだから」
だから、■は無くさないでね――と、最後につけ加えられたその言葉は、はっきりとは聞こえなかったけれど。
やっぱり、どこまでもどこまでも。
どこまでも温かった。
*
目が覚めた。
いや……目が開いた、といったほうが感覚として正しいかもしれない。眠っていたのは間違いないのだけれど、眠りから覚めたときのあの名状しがたい気怠さが、今この時に限っては感じないのだ。それに、やけに深い眠りだった気がする反面、起きたまま幻を見ていたような錯覚もある。
夢幻の境を彷徨っていたかのような、そんな感覚。
辺りを見渡してみれば、私はバス停に座っていた。二人用のベンチの傍に時刻表が設置されているだけの簡素なバス停――何処かで見たはずの、どこにもない、されど何処かにはあるはずの古びたバス停。
えーと……私は町外れの山の麓まで、いったい何をしに来たのだっけ?よっぽどの用がない限り、町と山のギリギリの境目にあるような、こんなバス停まで来るはずがないのだけれど……。
……駄目だ。
忘れてしまった。
ポケットに手を突っ込んでみても、持ち物は腕時計と携帯電話、それに、小銭が少しばかり入っている財布だけだ。私は荷物を最小限にして行動する性分なのだが、今日はそれにしても持ち物が少ない――ただの散歩のつもりだったのだろうか?
なんの気もなく携帯電話を開くと、メールが二件届いていることに気付いた。
一件目は母からだ。短い文章で、『お腹が空いたら帰ってきなさい』と書かれている。『早く帰ってきなさい』と書かない辺りに、母の気遣いのようなものを感じた。
まったく……余計なお世話だ。いつまでも子供扱いして。
しかし、そんなことを考えてしまう私のほうこそ、まだまだ子供だ。上京してわずか一年で音を上げ、地元の田舎町に蜻蛉返りしてきた情けない私を、父と母は迎え入れてくれた。この一年間で見る影もないほどにボロボロになった私の話を聞き、優しく慰め、諭してくれた。決して、怒ったり呆れたりはしなかった――上京した先の職場では、怒られっぱなし呆れられっぱなしだった私にとっては、それが何よりも嬉しかったのだ。嬉しくて嬉しくて……だけど、そんなふうに甘えてしまう自分の弱さに、心の底から嫌気が差した。
……なんとなく、思い出してきた。
今の自分のことを、なんとなく。
二件目のメールは、差出人不明だった。正確には、差出人の欄のところが文字化けしてしまっていて、読み取ることが出来なかったのだ。こういうメールの場合は迷惑メールであることが多いので、開くかそのまま破棄してしまうかで一瞬迷ったが、そもそも開く必要がないことに気付いた――開くまでもなく、件名の欄を見るだけで充分なのだ。
『ベンチの裏』。
その五文字で、すべてが伝わった。
要件をただただ機械的に伝えようというその文面に、ほんの少しだけ怖さは感じたが、私はそれを無視できるほど無頓着な人間ではない。
ベンチ――もちろん、私が今まさに座っている、このベンチのことだろう。
ベンチの後ろにしゃがみ込み、背もたれの板の裏を見ると、隅のほうに文字が彫られていることに気付いた。
言われなければ分からないほど乱雑に、適当な刃物で適当に刻み込まれた――その文字。
あぁ……そうか。
そう、だった。
思い出した。
はっきりと苦々しく、思い出した。
「……帰るか」
呟いて、立ち上がる。
家に帰ることを決意する。
独り言であっても、これからの行動を声に出しておいたほうが良いような気がした。目的をきちんと意識して、迷わず家に帰るために。
ずっと座っていたせいか、立ち上がると少しフラっとよろめいた。だけど、これは気にしない――どうせ道なんて、限りなく不安定なのだ。私の歩き方が多少覚束なかったところで、そんなに変わらないだろう。歩くのをやめない限りは、道が崩れることはない――そのはずだ。
バスの時刻表を見ると、今の時間帯の欄は真っ白だった。その次の時間帯も、その次の時間帯も、その次もその次も……どうやら、今日はもうバスがやってこないようだ。
ほらほら、早速。
早速、道筋が不安定になり始めた。
私は苦笑いを浮かべながら再び携帯電話を取り出し、帰りは遅くなるから夕飯は先に食べていてほしいという旨のメールを母に送った。学生時代の私なら、こういうことに気は回らなかっただろう――私も、ほんの少しは成長しているじゃないか。
「あ……そうだ」
ついでに、見知らぬ誰かへのお礼も済ましておこう。ベンチに刻み込まれたあの言葉は、私のような迷子を引き止めるために、どこかの誰かが遺してくれたものだと思うから。
その心遣いに、気遣いで返そう。
ベストなのは例のメールに返信することかもしれないけれど、本当に迷惑メールだった場合が怖いからね。
私は一度だけ振り返り、ベンチの傍へと戻った。手近なところに落ちていた尖った小石を拾い、もともと彫られていた文章の下に、新たな文章を刻み込む。
教えてくれたあなたに、感謝を込めて。
汚い文字になってしまったが、なんとか読めるだろう。あとは、親切な誰かさんがこれに気付いてくれることを祈るばかりだ。
「さて――と」
私は歩く道の先を見据える。
もう二度と、ここへは戻ってこない。
いよいよ、長い長いお散歩の始まりだった。
『いのちをたいせつに』
『あなたもね』