女神エレイシア
膝をつき倒れそうになるオレの背中に手を当てる女性達。
「カル、しっかり!」
「だ、ダメ全然足りない!」
「マスター、このままじゃ……」
ナナリーとエレノアにユーリも加わり大量の魔力を送ってくれているが、すぐ様吸い取られてしまい焼け石に水の有様だ。
とっくに尽きた魔力の代わりに今や瘴気の貯蓄を使い魔力を充填しているが、このままずっと女神と巨神が戦い続ければ遠くない内に瘴気も尽きてオレは死を迎えるだろう。
だが、ここでくたばる訳にはいかない。
無数に出現した女神の腕が巨神をあと一歩のところまで追い詰めているのだ。
『グモオオオオオオ⁉︎』
クロノス・タイタンが大きく体を震わせた。
自身の巨体に群がる無数の枯れた腕を振り払うが、執念深い女神の腕は振り払われてもまた飛び付き、執拗に巨神を冥界の入り口が開く奈落の底へと引き摺っていく。
「す、すごい! カル、もう少しだけ持ち堪えて!」
「ぐぅっ、ああ任せとけっ」
クロノスが奈落に落ちるまであと少し。
ナナリーの応援に精一杯の空元気で答えるが、額に脂汗が滲み激しい頭痛と吐き気に襲われてオレも限界が近い。
それでもここで意識を手放してはならないという想いが、ギリギリのところでオレの意識を保たせていた。
エレノアの攻撃が通じない相手だ、この魔法以外に勝ち目はないだろう。
文字通り、ここでオレが倒れればみんなも同じ運命を辿ることになる。
ユーリも、ロンも、そしてナナリーとエレノアも。
──それだけは絶対に許さない。
「ああああああ‼︎」
自然と口から声が出た。それは悲鳴ではなく、己に喝を入れる雄叫び。
同時にこの身を苛む全ての不調へ、理不尽に怒りを向ける。
すると僅かだが体の奥から力が湧いて幾分か楽になった。
気持ちの問題かもしれないが、それでも構わない。
最後の力を振り絞り、女神に魔力を捧げた。
『イィィアアアアアア‼︎』
捧げられた魔力に呼応するように、奈落から伸びていたエレイシアの腕にも変化が起きた。
最初に発現した女神の腕、その発生源である地底から大きな振動が伝わってきたのだ。
同時に魔力が吸い取られる感覚が治った。
十分な量を供給できたということなのか、大地母神の慈悲は次の段階へと進んだのだ。
「な、何よこれ⁉︎ さっきとは比べ物にならないくらい揺れが大きいじゃない⁉︎ カル、こんな魔法使って体は平気なの?」
「マスター⁉︎」
「あ、ああ問題ない。むしろ魔力が吸い取られなくなって楽になったよ。でも、これは──」
女神の悲鳴と同時に起きた異変。
地割れが再び発生し、陥没する範囲を広げていく。
地面を揺らす何かに皆が慄いた時、ソレは姿を現した。
「そんな……嘘でしょ……」
聖女ユーリが呆然と呟いた。
最初に見えたのは白い髪だった。
老婆のような真っ白な髪が開いた穴から姿を見せると、次いで腕と同じように干からび皺がれた皮膚が見えた。
──世界中で信仰される神が、ついに地上へ顔をのぞかせたのだ。
「あれが私たちのエレイシア様だっていうの……?」
「まさか本当に女神がいたとはな。マスターも神を顕現させるとは流石だ」
「女神エレイシア……私は特に信仰する神を持たないけど……あれは本当に神なの?」
皆が訝しがるのも無理はない。
女神教の聖女ですら、自身が奉じる神の出現であるにも関わらず素直に喜びを表さなかった。
何故ならその姿は、神と呼ぶにはあまりに恐ろしい姿だったから。
人間の遺体を干からびさせ保存する地方宗教の葬送を見たことがあるが、地上に現れたエレイシアの顔はその遺体の顔と酷似していた。
皺がれ、水分を失った肌。
白く丸い瞳には瞼も瞳孔もない。
そんな怖い顔が、異様に長く伸びた首と共ににゅっと穴から出て来ている。
恐ろしいという言葉がこれほど似合う存在は他にいないだろう。
カドックが怯えたのはこれを見たからだと思えば納得がいく。
どんな怪談よりも怖い女神の出現に呆然としていると、無機質にも思える白い瞳が一瞬、オレを見た。
「っ⁉︎」
残り火のようにじわじわと身体を苛んでいた倦怠感が嘘のように吹き飛び、全身の肌が一気に粟だった。
気温が下がったわけでもないのに、恐ろしい程に体が芯から冷え始める。
魂を掴まれるとは、このことを言うのだろうか。
見ればナナリーやロン達だけでなく、エレノアですら呆然と女神の瞳に魅入られているではないか。
オレを見た女神が次いでエレノアを視界に入れた時、更に驚くべきことが起きた。
『オロチの娘か……』
「なっ、喋れるのか⁉︎」
女神がエレノアを見て声を発したのだ。
驚くことばかり起きるここ数日だが、流石にこれは群を抜いていた。
彼女の父が竜神であることを知っていたのか、あるいは見抜いたのか。
女神の言うオロチとは竜神のことだろう。
「え、エレイシア様のお言葉を聞ける日が来るなんて……」
ユーリが言葉を発した女神に感動している。
どれほど信奉する姿とは違っても、それでもエレイシアは彼女の神なのだ。
苛立つ巨神の咆哮が轟く最中、驚くほど静まり返ったオレ達。
畏敬の念を持って彼女を見ていると、次いで女神の発した言葉に耳を疑うことになった。
『成程、弱い』
「っ⁉︎」
今、女神はなんと言ったのだろう?
いや、確かに声は聞こえていたしその意味も理解していた。
でもあまりに現実離れした言葉にこちらが理解を放棄したのだ。
この世界で最も強い賢者──滅竜皇女エレノアを見て、女神は弱いと口にしたのだから。
「女神エレイシアよ、それは一体どういう意味だ」
女神の言葉に反応したのはエレノアだった。
物怖じせず、堂々と問い返す姿はさすがだろう。
ちょっといつも通りすぎるエレノアに、女神の機嫌を損ねやしないかと若干不安にもなる。
『そのままの意味だ。父に比べれば矮小も甚だしい。あれはかつて星の海を渡る侵略者すら一撃で沈めたというのに』
聞きなれない単語だが、意味は理解した。
つまりこの星以外にも生命はいて、あまつさえ国のように星単位で戦争を仕掛けてきたということか。
だがこの世界にそんな逸話は残されていない。
竜神が健在の時の話であるなら……もしかしたら記す人間がまだいない神代の出来事だろうか。
『グモオオオオオオ‼︎』
こちらが会話中でも構うことなく女神の腕を引き剥がそうと、攻撃を仕掛ける巨神。
そんな邪魔者に女神は感情の読めない白い目を向けた。
『ダイダラボッチの変異種風情が。神々の母である私に逆らうか……』
ほんの僅かな怒気を見せ、癇癪を起こす子供を嗜める母のように女神がクロノスの頭を掴む。
女神が完全顕現した今となっては、その力は数瞬前と雲泥の差だ。
そのまま彼女は力任せにクロノスを地面に叩きつけた。
先程は暴れるクロノスに苦戦していたはずなのに、今や力の差は明確だった。
地面に頭部をめり込ませてなお暴れるクロノスだったが、押さえ付ける力が強いのか唸りながらもがくのみだ。
「す、すごい……このまま倒しちゃうんじゃない?」
「ええ、そうね……」
いつもならナナリーの楽観的な予測を嗜めるユーリも、流石に今回ばかりは同意した。
力の差がここまではっきりとした光景も珍しい。
いや、ここにいる者達はロンとシン王とメイドを数えなければ皆が力の差を知らしめる側だった。
そんな自分達が手こずる相手を女神はあやすように押さえつけたのだから、ただ目の前の光景を受け入れることしかできない。
「まあ、魔力が切れる前になんとかなってよかったよ」
「さすがカルね! こうなることも見通してたの?」
「流石にそれはないよナナリー。実際は誤算だらけで君達に魔力供給してもらわなければ本当に死んでいたかもしれない」
結界よければ全てよし。
オレの選択は間違ってはいなかった。
ただ、この魔法は二度と使わないようにしよう。
そして禁呪魔法は安易に使わないようにと心に決めた。
オレも起源覚醒と瘴気の転用でかなりの魔力量を誇っていたのに、空っぽ手前まで行くなんて流石に予想していなかった。
何はともあれ、いい学びになった──とオレが胸を撫で下ろした時だった。
『ではそろそろ帰るか』
まだクロノスが健在なのに、女神はそんな言葉を口にしたのだ。
「「「えっ」」」
てっきりこのまま全てが解決すると思っていたオレ達は一様に同じ反応をした。
『後はそなたらで好きにするがいい』
「いや、ちょ、待てよ⁉︎」
好きにしろって、こっちはもう満身創痍なんだぞ⁉︎
一体何を言ってるんだこの女神は!
あんまりな女神の態度に、たまらずユーリも彼女に問いかける。
「あ、あの! 貴方様は本当にエレイシア様なのですか⁉︎」
『ほう? 人間風情が神である我を疑うか?』
「い、いえ! ですがこの世界に伝わる貴方様と……その、あまりにも性質が違うので……」
『人に神を測ることなどできぬ。細枝世界の者達なら尚のことよ』
「細枝世界?」
また聞きなれない単語が出てきた。
今度は意味もよくわからないが、つまりこの世界のことだろうか?
『では人間達。久々の地上、なかなかに興味深かった』
「ちょっと、倒してくれないの⁉︎」
直球に尋ねたナナリーに女神は口角を上げ、愉快そうに告げた。
『くくく、この程度で滅ぶようならそれもよかろう。遅かれ早かれ、あらゆる生命は我が冥界に来るのだから』
「ええ⁉︎」
「な、なんて神様だ……」
慈愛と豊穣のエレイシアはどこに行ったと声を大きくして叫びたい。
それは皆が思ったことだろう。
ムッとしたオレ達を見て、そんな内心を察した様子の女神が面白そうに言葉を足した。
『だが、そうだな……一瞬とはいえこの私を地上に顕現させた褒美をやろう』
神の褒美とは興味深い。
ただできることなら、クロノスを倒すことを褒美として欲しいのだが……。
『助言を授けよう、心して聞け。そなたの力は完全に引き出されていない。全てを引き出せばあのダイダラボッチにも勝てるであろうよ』
「私にそんな力が……?」
『そなたの父──その本来の力は神々にも引けをとらぬ。7つに分かたれこの世界に迷い込んだ分身の一つでありながら、それでもアレには勝ったのだ。その血を信じよ、そなたは濃い』
「分身……? 女神よ、それは一体……」
エレノアよりも、女神は竜神について詳しいようだ。
言葉を交わせば交わす程、知りたいことが増えていく。
『くくく。かつてのそなたの父は、それはもう暴れていてな』
愉快そうに答えるエレイシアの様子に、竜神との仲が窺い知れる。
口調からして、きっと悪い関係ではなかったのだろう。
竜神が竜神と呼ばれる前の名も知っていたので、古い付き合いなのは確実だと思う。
女神が聖女よりもエレノアに対して掛ける言葉が多いのは、少し可哀想に思えるが。
『だが少しばかりおいたが過ぎてしまい、遂にはその7つの首を全て刎ねられ──』
『ブモオオ──‼︎』
『やかましい!』
気になる部分が多すぎる女神の会話を遮って、クロノスが女神に襲いかかった。
己を抑えていた腕を振り払うと、勢いのまま女神の顔に殴りかかったのだ。
しかし完全にペースを掴んだはずのクロノスだったが、カウンターを合わせるような女神の拳が即座に顔面に叩き込まれてしまった。
鳴り響く衝撃音は、顔を殴る時の音は思えないほどに重厚だ。
音の通りとんでもない威力だったようで、見るからに重そうなクロノスの体が遥か先まで殴り飛ばされている。
『ふむ、本当に時間切れか』
ただ、殴り飛ばした女神の腕も無事ではなかった。
拳が巨神の顔に着弾すると同時に弾けて土塊に戻ったのだ。
彼女の言葉を信じるなら、もうこれ以上は現世にいれないみたいで残った腕からも土砂がパラパラと落ち崩れ始めていた。
『ではなオロチの娘。そして私を顕現させた面白い人間よ。その内に宿る力……貴様も或いは──』
最後まで言い切らず、女神は土塊へと姿を変えた。
彼女を構成していた土砂が豪雨のように地上に降り注ぐ。
なんてことだ、ほとんどの魔力を持っていかれた大地母神の慈悲が、まさかクロノスを退治できずに終わるなんて。
「あるいはなんだよ⁉︎」
無責任な女神にたまらず大声で怒鳴ってしまった。
冥界に引っ込んだなら聞こえてないだろうが、それでも言ってやらなければ気が済まなかった。
神の身で地上に居続けるには魔力が足りないのだろうが、タイミングが悪すぎるだろう。
既に地割れも治り、先ほど殴り飛ばされた巨神がのっそりと起きあがろうとしているのが遠目で見えた。
「状況変わってねえ⁉︎ むしろ悪化しただけじゃねえか⁉︎」
「そ、そうだね……」
巨神は未だ健在で、オレは既に魔力ぎれ間近。
ただ、女神はエレノアならアレにも勝てると言っていた。
『グモオオオオ‼︎』
──果たしてどうだろうか。
女神の攻撃はむしろ逆効果だったのかと思うほど、かつて無い程に巨神の怒りは増している。
弱る様子は微塵もなく、輝きを増した紅い瞳がこちらを完全に捉えているのだ。
地面を激しく揺らしながら、こちらに向かってクロノスが走り出した。
「わわ、どうしよう⁉︎」
「さ、流石にあの勢いでこちらに来られるのはまずいわね」
「私の力……」
女神の言葉を信じるなら、オレ達に──エレノアにクロノスを滅ぼす手段がある。
だが、それはなんだ?
彼女渾身の起源魔法すら効かない相手に何が出来る?
「マスター、考えても仕方ない。やるぞ」
「ああ、そうだな」
不利な戦いはこれまで幾度も経験してきた。
瘴気を手に入れ、起源覚醒しても尚勝てない敵と遭遇するとは予想外だったが……上等じゃないか。
魔力は尽き、オレにもう余力はない。
現状、アレに勝てる──可能性がある──戦力はエレノアのみだが、今はまだその状態ではない。
彼女の秘めた力の解放から始めないといけないが、その糸口すら掴めない。
唯一のヒントはエレノアの父、竜神の存在だけだ。
『オオオオオ‼︎』
巨神が腕を振り上げると同時に、巨大な魔法陣がの拳を覆った。
ただの一撃でさえ脅威なのに、魔法を上乗せとは恐れ入る。
この絶望的な状況の中、まずはあれを防がないといけないようだ。
あんなものが直撃すれば、起源覚醒者も常人も関係なく消し飛んでしまうだろう。
「マスター‼︎」
不利なこの状況が好転する兆しは無くなった。
決着を狙ったはずのオレ達の戦いは、まだ始まったばかりだった。




