ナナリーの告白
「ねえ、カル。私はあなたが好き」
彼女は唐突に、そう言った。
風が草花を揺らしさざめき立つ。
冷たい夜風を浴びながら、オレは彼女の告白を聞いていた。
「今更何をとあなたは思うでしょうけど、それでも私は今、カルのことが好き」
そう言って彼女は悲しそうに笑う。
──どうしてだろうか?
オレにはそれが堪らなく苦しかった。
オレは一体、彼女にどういう想いを抱いているんだろうな。
彼女の正面からの告白を受けて、ここに来た時の事を思い出す。
王国のあのパーティで彼女をもう一度見た時、不思議と心が弾んだのを覚えている。
ナナリーのことは何度も忘れようとした。
何度も考えないようにした。
何度も、何度も、何度も。
けど、遂に忘れることはできなかった。
それはエレノアと出会い、彼女と人生を歩むことを決めた後でもそうだった。
彼女との思い出は深くこびりつくようにオレの中に残っている。
『オレには今があるさ』
『マスター、何か言ったか?』
『何でもないよエリィ』
オレはまるで過去を忘れるためかのように仕事に没頭した。
エレノアや大切な仲間に囲まれ、初めてアラン達とパーティーを組んだ時以上に充実した日々を過ごしたと自信を持って言える。
いつしか、ナナリーのことを考えることは無くなっていた。
たまに思い出しても、あの胸を締め付けるような苦しさに襲われる事はなく、オレは前に進めたのだと、そう思っていた。
──だけど、あの時。
腕を失い顔に醜い火傷を負った彼女の姿を見た時、オレの心は確かに悲鳴をあげたんだ。
絶対にどうにかしてみせる。
自分でも不思議な程に、激しい炎のような情熱が心の底から湧き上がった。
オレは一体、彼女のことをどう思っているんだろうか。
「それは……困ったな」
「……ごめんなさい」
オレの困惑した態度に彼女はすぐに謝罪した。
本当に結婚していることも、エレノアとの仲の良さも十分に承知の上で。
それでも、と。
自分の想いを伝えられずにはいられなかったのだと、彼女は言った。
オレとの再会と過ごす日々の中、どうしようもなくかつての想いが湧き上がったのだと。
「なんで、今?」
思わず口に出てしまった疑問。
これがオレの本心だとでも言うのだろうか。
まるで責めるような口調になってしまったことに自分でも驚く。
でももしかしたらそれは、あの時のことを確かめたかったからなのかも知れない。
『ナナリー……』
『──カル』
アランとナナリーの情事を目撃した時のことを鮮明に思い出す。
皆が無理に明るく振る舞いながら、酒で嫌なことを忘れようとしている野営地で。
アランのテントに入ったナナリーの姿を追ったオレ。
激しく抱き合い、愛と快楽に溺れている二人を見てオレの心は一度死んだ。
あの時。
皆が日々の戦いで限界を迎える中、オレの心にも確かな限界が近づいていた。
それがその光景を見ることで限界を越えたんだ。
仲間がどんどん覚醒を果たしていく中、自分だけ取り残される焦燥感。
戦い続ける内に不思議な絆を持つに至った恋人と勇者への不信感。
考えないように、見ないようにしていた。
どれだけ突き付けらてれも、あの時のオレはずっと目を塞いでいたんだ。
洞窟ではぐれた二人を、やっとの思いで発見した時。
まるで口付けを交わしたかのような格好で二人寄り添っていたこと。
オレに気づくと二人は気まずそうにすぐ距離を取った。
また旅の途中、ようやく辿り着いた街で。
オレがパーティーの会計処理や備品購入をしている間、アランとナナリーが楽しそうに二人で街を散策していたこと。
もうその時には、彼女の心がオレには向いていないことを理解していた。
だけどオレはただそれを認めたくなくて、ずっと自分に言い聞かせていた。
“きっとオレの見間違いや勘違いだ。そんな訳がない”って。
でもそんな醜く情けない縋るような想いは、野営地のテントの中、裸で互いに愛を確かめ合う二人を見たときに崩れ去ってしまった。
『カル、ごめんなさい。私はアランと……』
『カル、すまない。僕とナナリーは愛し合っている』
『──ああ、わかったよ』
そう言って、オレは二人の関係を受け入れた。
その後の記憶が今のオレにはほとんどない。
別に記憶喪失になったとか、そういう訳じゃないが。
当時のことはもう断片的にしか思い出せないのだ。
茫然自失な状態で目の前のことを無心でこなしていたことは何となく覚えている。
上層部の言われるがままにパーティから抜けたことは鮮明に記憶している。
未覚醒を理由にパーティから外れるようしつこく打診されても、ずっと断り続けてきたはずなのに。
あの後のオレは、簡単にその申し出を受け入れた。
それは今になってはっきりとした理由が自分の中に湧いてきた。
あの時、パーティから自分がいなくなれば、ナナリーはもう自分を見てくれなくなると思い込んでいたんだ。
そしてそれは半分当たっていた。
彼女の瞳はとっくにオレを写してはいなかった。
だからあの後は、すぐにパーティを抜けることを承諾したのだろうと思う。
「君はアランと愛し合っていたんじゃないのか?」
「……ええ、あの時はそう思っていたわ」
「そう思っていた?」
「魔王を倒さなければならないという責任感と、魔王に力が及ばなかった時の恐怖。極度のプレッシャーの中、私とアランは互いに相手に逃げることで心を保とうとしていたのよ」
「……それはユーリもオレも同じだったのでは?」
「ユーリには教会の仲間と信じるべき神がいた。そしてあなたは…一人で完結していたわ」
「オレが?」
「ええ。仲間内で覚醒していないのはカルだけ。それでもあなたは覚醒した私たちに引けを取らなかった。未覚醒の状態にも関わらず、覚醒者の中に入れるって異常なのよ?」
「それでも、ナナリー達に劣っていたのは事実だと思うけど?」
「ええ。でもあなたは結局諦めず、絶望せず、必死で食らいついてきた。私たちが諦めそうな魔王軍の幹部に対しても、いつも打開策を見つけてきたのはカルだった」
「それは…ただの役割分担だろう? 事実、トドメを刺したのは君とアランがほとんどだったじゃないか」
「カルが見つけた弱点や突破口がなければ、とっくに私たちは全滅していたのよ。あなたはね、勇者アランよりもその精神が強かった」
「……買い被りすぎだ」
「それが私には、眩しくて辛かったの」
「なんだ、そうだったのか」
「勝手なことを言ってごめんなさい」
そこまで喋って、ナナリーは大粒の涙を流した。
あの時、ナナリーとアランが浮気を謝罪してきた時の彼女の表情。
まるでアランと添い遂げるとでも言いかねない、断固とした顔だったのを覚えている。
それでオレは、ナナリーがもう自分とは終わったのだと、受け入れたんだ。
いや受け入れざるを得なかった。
おかげで自分の心を殺すのに、膨大な時間がかかったというのに。
とんでもないく深い傷跡が残ったというのに。
何故彼女は今、こんな顔をするのだろう。
「でもあの時、君はアランを選んだことを後悔なんて微塵もしていなかっただろう?」
「……ええ、そうね」
「ならそのままアランとくっつけばよかったんじゃないのか?」
「……アランとは、魔王を倒した後すぐに別れたわ」
「理由を聞いても?」
「さっきも言った通りよ。魔王討伐のプレッシャーから逃げるための関係。魔王を倒した後、互いに愛し合っていないことに気づいたわ」
「……勝手だな」
「ごめんなさい。本当に……勝手だったわ」
オレの一言に、ナナリーが傷ついたことが痛いほど伝わってきた。
痛めつけられたのは自分の心のはずなのに。
目の前の女性は全て自分勝手に行動しただけだとわかっているのに。
その彼女の様子にオレの心はどうしようもなく、苦しんでいる。
初めて故郷を旅立った時の彼女のような笑顔にしたい。
ここで彼女の望む通りの自分になって、彼女を幸せにしたい。
ほんの一時のことではあるが。
オレはナナリーのことを恨んだ。
アランのことを憎んだ。
復讐心に駆られそうになった時もあった。
それなのに、なんで今更。
オレの心はこんなにもナナリーのことを────
『なあ、オマエ。私を殺してはくれないか?』
「──ああ、そうか」
「……カル?」
我ながら、情けない。
どんな思い出よりも大切なものがある。
どんな感傷よりも大切にするべきものがある。
種族覚醒を果たし、大商会を立ち上げ、世界中に賢者として名を知らしめてもまだ絶えないこの渇望。
この身を絶えず動かしているのは。
この心を埋め尽くしているのは。
他でもない、彼女じゃあないか。
『ふふふ、マスター』
優しく甘えるように微笑む彼女の姿。
凛とした表情で、覇気をまき散らしながら魔族を蹂躙した圧倒的強者としての彼女の姿。
それを思い出すだけで、次第に心が晴れ渡る。
だが、最初に出会った時の彼女は今とは正反対の姿だった。
憎しみ、怒り、悲しみ、慟哭。
それら全てを抱えながら、無惨に消え去ろうとしている竜族の女性。
心の痛みを誤魔化すため、自分の仕事に没頭している時に出会ったのがそんな当時のエレノアだ。
秘境と呼ばれる永久凍土が続く猛吹雪の山脈。
その中腹に建てられた古代の神殿。
荒らされ、朽ち果て、生命の気配が存在しないその場所に彼女はいた。
各地を放浪して魔王の瘴気への打開策を見つけようと、血眼になっていた当時のオレ。
竜族の血を求めてやってきた無礼者に、彼女は己を殺して欲しいと言って出迎えたのだ。