余興
ナナリーがカルエルに伝心魔法を使う、ほんの少し前。
彼女は目に前に立つ全ての元凶シース・メルガザル教皇と対峙していた。
教皇とサラドを護るように塔内に配置された瘴気の怪物──洗脳コントロールに成功し改良を施した魔王の尖兵はナナリーによって悉くを倒されていた。
仮にも瘴気の元凶である魔王と戦った彼女。強化を施されていようと、ただの雑兵に遅れをとる所以はない。
彼女が歩んできた廊下には、道標のように夥しい怪物の屍が散らばっている。
門の前で混戦している怪物と軍を置いて、彼女は堂々と単身乗り込んできたのだ。
「初めまして剣聖殿、単騎掛けとはまさに英雄らしい所業です。これでも中に居る信者達は他より瘴気濃度を強くしているんですがね」
頼れる守護者を歯牙にも掛けない剣聖を前に、教皇は微笑みを絶やさず慇懃無礼に挨拶を交わした。
不利なこの状況で、シースには隣にたつ大柄な男のように動揺した様子は見えない。
むしろ余裕すら感じる。
罠、援軍、秘策──ナナリーは何が起きても即座に動けるよう、剣を持つ右手に力を込めた。
「その右腕。光の賢者が作った魔装義肢ですか、問題なく使いこなせているようですね。無事のご回復、おめでとうございます」
「余裕そうじゃない? これでも一応、私に勝てる存在って本当に数人しかいなんだけど」
言ってナナリーは気付く。
余裕ではない。
そう表現するには違和感を覚えるシースの目。
それは子供を見て微笑むように、まるで自分を相手にしていない雰囲気を感じたのだ。
「気持ち悪いわね、あなた」
多くの者と直接斬り結んで来た彼女だからこそ、直接対峙した相手の実力を見誤りはしない。
今この場では自分の方が強い。それは確かだと彼女は確信している。
現に教皇は、ナナリーに斬りかかられても側にいる男を盾にできるよう、立ち位置を調整している。
ならば二人をまとめて斬ってしまえばいい、問題ない。
──でも何故か勝つという実感が湧かない。それが気持ち悪い。
世界で一番強い敵と戦い、膨大な戦の経験を重ね続けた歴戦の剣士という自負がある。
そんな自分でも経験したことのない違和感を、目の前の男に感じる。
軽んじる相手ではないと、ナナリーは体内に魔力を巡らせ筋力と知覚を強化した。
このまま会話を続け相手に時間を与えるべきではない。何かをする前に斬り伏せよう──。
「おっと、そう警戒しないでください。私では今の貴方に勝てません」
ナナリーの魔力を察知し、次に取る行動を見抜いたシースが両手を上げ降参のポーズを取る。
苦笑しながら一歩後ろに下がると、混乱し呆けている隣の男をナナリーと自分の間に挟む形を作った。
「──まあいいわ」
それは弱者の戦略。人間二人など簡単に両断できる自分には無意味な行動。
得体は知れないが、考えすぎだったのもしれない。シースは力の差を理解できないのだと考え、会話を続けることにした。
丁度、後から援軍も到着した以上、逃すこともないだろうとナナリーは力を緩めた。
「そうだサラドよ。遂に年貢の納め時が来たようだな」
「シン⁉︎」
現れたのは近衛を連れたシン国王。ナナリーの側付きメイドのレイも一緒だ。
シンに追いつくように、続々とマケドニア兵も集まり出した。
どうやら表の戦いに決着がついたようだ。
集まったパラティッシの兵士たちは、皆が憎しみ込めた目で前にいる二人を見ている。
「これはこれはシン国王。我が教団を滅ぼしに掛かるとは、何か不興でも買いましたかな?」
皆の視線を受けて尚、シースは柔らかく微笑んだ。
釣られるように、ギリっと、誰かが歯軋りをする音がした。
この場の皆は知っていたのだ。
この国を変貌させ、怪物を産み出し、自作自演で民を救い人気に隠れる邪悪なその本性を。
「とぼけるなシース。我を傀儡にして民を襲ったな。内乱を防ぐため歯がゆい思いにずっと耐えていたのだが、もはやここまで」
「ふふふ、知っていましたよ。私たちが生み出す被害など、かつての内乱に比べれば微々たるものですから。水源を確保し民衆を活かす私たちの利益に、多少の犠牲は許容範囲。あなたは黙るしかなかった」
「全ては最初から計算尽くということか」
「いえ、実はあなたもサラド殿と同類かと思っていましたのでこの行動は予想外でした。自己保身を何より優先する方だとばかり……エリザベス嬢を切り捨て、ご自身の地位を保った采配は見事でしたからね」
その言葉に、王の剣を持つ手が震える。
叶うことならこの手で斬りたかった。
王として、自国を蝕もうとする悪を己の手で誅したかった。
自分に力があったのなら、あの場で全ては解決していただろう。
最愛の人を、あんな目に合わさなくても済んだだろう。
だがシンは知っていた。
自分ではシースには勝てないと。
シースは魔王を討つような英雄達に比肩する、規格外の存在なのだと。
自身の運命が決まったあの日、広場で見た教団が雨を降らす光景。
腐敗しきった教団幹部に軍団魔法を行使するだけの力はない。
民衆を拐かすため、教団が救ったとみせるため、シースが己の魔法という事実を隠しているのだとシンは知った。
魔力の流れを見通す装飾品『国宝魔石晶』を身に付けたシンには、あの瞬間にその裏が透けるように見通せたのだ。
単身で軍団魔法を行使する人間に勝つ術はない。
戦場で軍勢という数の有利を武器に戦うなら可能性はあったかも知れない──でも。
街に、王宮に、すぐ隣に。
いとも容易く殺戮を行える力を持つ存在は、側にいるのだ。
それだけの力を持った相手が、更に知謀にも長け一手一手、確実に追い詰めてくる。
計略、暴力、全てが劣る飛車角落ちの王に許された選択地は耐え続けることだけだった。
「──あの時よりずっと機を窺っていたのだ。獅子身中の虫を排除できるこの時をな」
「この場合の獅子は果たしてどちらなのでしょうね? 我が教団に巣食う虫は貴方ではありませんか? ククク」
積年の怒りを吐き出すように。重々しく言葉を口にする彼の青い瞳は、憎しみに染まっていた。
それでもシースは態度を崩さない。
王の怒りを知って尚、とても愉快そうに嗤っている。
「これ以上の問答は無用。教皇は剣聖に任せるが……サラド、貴様だけは我が斬ろう」
シンにはもう一人、己の手で斬らなければならない相手がいた。
外患を誘致し民を苦しめ、最愛の人すら自分から遠ざなければならなくなった元凶。
怪物が現れるようになった国の有様を見ても。
毎夜、襲われる民の悲鳴を聞いても我関せずと贅沢に明け暮れ、己の脂肪を増やし続けた愚物を。
「儂を斬るだと⁉︎ そんなこと出来る訳がなかろう!」
その愚物は、追い詰められたこの状況に狼狽しつつも、何かの策があるように大声で喚いた。
「ふ、ふはは! そうだとも! お前はシース様には手も足も出なかったんだ!」
たるみを極め、三重にもなった顎下の贅肉を揺らしながらサラドは大きく吹聴した。
「貴様らが何をしても無駄なことよ! 何故ならここにはシース様がいる! あらゆる状況を想定して権謀を巡らし、幾重もの策を用意しているこのお方を見くびるでないわ!」
他力本願の醜態を醜態と思わず、サラドは堂々と己の有利を語った。
根拠も策もなく、ただただ盲信するその有様に、これに同じ血が流れているのかと、本当に父の兄弟なのかとシンが顔を顰める。
だがサラドは、そんな甥の表情の変化を自身の優勢を示すものだと解釈した。
「のう? シース様。ご覧くださいシンの顔を、皆が貴方には勝てないと悟っておる! この儂と貴方様が手を組めばこの先も怖いものなしですぞ!」
「ええ、本当に。貴方のことは心より頼りにしています」
「はははは! 勿論ですとも‼︎ 儂はカドックよりも貴方様のお役に立ちますぞ!」
──怪しかった。
シースは邪悪であれど愚かではない。
であるにも関わらず、サラドの自信に満ちた言葉に心から同意しているのその様が、王と剣聖に警戒心を抱かせる。
「──いかん、何かするつもりだ! 剣聖!」
「っ⁉︎」
何の根拠もない王の第六感から出た焦りの言葉。
呼びかけに斬れという意味が込められていることには、ナナリーも気づいている。
しかし殺害と捕獲にナナリーが迷った一瞬の隙。
シースはその機を逃さず手札を切った。
「サラド殿、あなたは大変素晴らしいお方だ。では早速、出番ですよ」
「ははは……え?」
トン、と。シースが持っていた杖でサラドの背を突いた。
軽く押す程度の威力、子供の悪戯のようなそれにサラドは驚き振り返る。
「シース様? 何を……あが⁉︎」
サラドだけでなく、シースの行動に皆が疑問を浮かべたが、変化はすぐに訪れた。
サラドの首に巻いていたネックレス。
ゴテゴテとした紅いルビーのどれもが光を放ち始め、密着していたサラドの肌を侵食し始めた。
赤色の光が血管を通してサラドの体を回っていく。
胴体から手足に至るまで、全身の毛細血管を浮き彫りにするように紅い光が巡った。
「何だこれは⁉︎ シース様、これは一体何なのだ⁉︎ 儂に何をしたぁ⁉︎」
己の体を侵食する光を慄きながら見ていたサラドが叫んだ。
飛び出た腹を上下にブヨブヨと揺らしながら、踊るように自分の体を眺めている。
「おやおや、言ったではありませんか。食べた分は働いてもらうと」
「なっ⁉︎」
綺麗な笑顔で、えげつない言葉を平気で吐くシースの姿には見覚えがあった。
そこでサラドもようやく気が付く。
シースにとって自分は腹心ではなく、使い捨ての駒だったのだと。
今も命を消費させられている神父や信者と同じ扱いだったのだと。
「し、シース様──」
「させないわ」
サラドが何かを言う前に、銀色の閃光が瞬いた。
彼はシースに対する言葉を最後まで言うことなく、終わった。
ナナリーの一太刀がサラドの巨漢を両断したのだ。
その顔に捨てられた子供のような無垢で情けない表情を浮かべ、サラドは瞳から光を消した。
「しっ!」
サラドを斬った勢いのまま、ナナリーの二ノ太刀がシースを襲う。
ナナリーの姿がブレる。それは常人では知覚できない速度の体捌き。
そこから繰り出される一閃は、光の速さを思わせるほどに素早い。
カルエルでさえ、近接戦では勝つ見込みのない剣聖の一撃だ。
「おっと」
ガキン、と大きく金属のぶつかる音がする。
身体強化を施し膂力を増したナナリーの一太刀は分厚い金属の扉すら両断する。
そんな剣戟をシースは造作もなく手に持った杖で受け止めたのだ。
「やっぱり、実力を隠していたみたいね」
「そちらこそ、オリハルコンの杖を欠けさせるとは流石です。斬り合いをすれば数手で私は終わるでしょう。そんな貴女に誉めていただけるのは光栄です──が」
ナナリーの押し込む力を利用して、吹き飛ばされるようにシースが後に飛び退いた。
追撃を仕掛けようとしたナナリーだったが、背後から感じた濃厚な魔力の気配によって引き止められる。
「何なのこの気配⁉︎」
魔王と対峙した時に感じた同じ寒気が、ナナリーを襲った。
──あり得ない、と。真っ先に思い浮かんだその言葉。
目を向けた先には気配の主、袈裟懸けの切り傷を負ったサラドが血を撒き散らしながら立っていた。
「わ、儂はあなたに散々尽くしたのだぞ⁉︎ そんな儂を裏切ったのかぁ⁉︎」
「い、生きてるの⁉︎」
生物が生存不可能な傷を負い、臓物と血を床にぼたぼたと落としながら、それでもサラドは立っていた。
苦痛に顔を歪ませ、一度は光を失った目に苦痛以上の憎しみを宿してシースを見据えている。
「答えよシース‼︎ 儂が貴様にどれほど尽くしたと思っておるのだ‼︎ それを簡単に裏切りよってえ‼︎」
「尽くした……何を言っているのです? 全然足りてませんよ」
そう言ってシースが杖をサラドに向けると、赤い光が点滅を始めた。
ドクドク、と。心臓の鼓動に合わせるように、全身の血管を浮き上がらせながらサラドの体が内側から漏れる光が点滅を始めた。
「な、なんだ⁉︎ や、やめろ、やめろシース‼︎」
喚きながら必死で体を触るサラドだが、何かの終わりを示すように、点滅の周期が短くなっていく。
例え斬られて生きていても、サラドの命はここで終わるのだろう。
サラドの体から放垂れる強大なプレッシャーに皆がそう確信した時、シンがサラドの前に歩を進めた。
「サラドよ、どうやら年貢の納め時だな」
「シン……!」
「お前はあまりに多くを望みすぎた。最初から我とアバローナの下につき、野心を抱かず悠々と暮らしていればよかったのだ」
そう言ってシンは大きく剣を振りかぶった。
彼が狙うのはサラドの太い首。
胴を切られて死なないのなら、頭を切り離すしかない。
シンの狙いを理解したサラドが、怯えるように後退りを始める。
「お、おい待て……斬るのか⁉︎ お前の叔父であるこの儂を⁉︎ 儂はお前の父、エイブラハムの弟なんじゃぞ⁉︎」
「斬るさ。これ以上、この国の王族として醜態を晒さないでくれ」
「醜態……? 醜態じゃと?」
シンの言葉に、怯えていたサラドの態度に変化が起きる。
「ああ、ずっとお前には辟易していたよ。お前みたいなのと同じ血が流れるなど吐き気がする」
「な、なんだとっ! 貴様も儂をバカにするのか⁉︎」
「当然であろう。身の丈に合わぬ野心を抱き、己の周り全てに迷惑をかけるしか能のない男。偉大な祖父母からどうして貴様のような輩が生まれたのか理解できん。貴様はまさに国の恥部だ」
シンの言葉に、あれほど騒いでいたサラドが押しだまる。
ワナワナと体を震わせながら、シンを激しく睨みつけた。
その様子を見て、シースが愉快そうに笑みをこぼして言った。
──ふふふ、素晴らしい。さあ彼を追い詰めなさい、シン王。
ぼそっとつぶやいたシースの言葉を、研ぎ澄まされた剣聖の聴覚が拾う。
「──待ってシン王! 追い詰めちゃダ──」
だが全ては遅かった。
生来の愚鈍さを自覚していたサラドの心に巣食い続けた諦めと妬みと恥じらい。
そんな全ての感情が混ざり合い、己でもどうしようもない程に肥大化しすぎたコンプレックスをシンに刺激されたサラドは、怯えや恐怖を怒りの感情で上書きする。
「父も母も……エイブラハムもお前も、アバローナも! いつも儂を見下しオッてええ」
剣も魔術も、勉学も色恋も。
全てが兄に劣った人生だった。
向けられる視線は同情と蔑み。例え相手にその意図がなくても、心に生まれた歪な想いが他者から向けられる感情を歪ませて届け続けた。
結局はシースも捨て駒としか見ていなかった。
兄も厄介者のように自分を扱った。贅沢をさせておけばいいと軽んじて遠くに追いやった。
兄の子も、最初は懐いて可愛かったが、今や父母や兄と同じ視線を自分に向けている。
一生、蔑まれる人生。
己の言動が原因とは一切考えず、サラドはその現実を受け入れようとしない。
それが功を成することになった。
「この儂を見くびるナアアアア‼︎」
劣等感を怒りに変えたサラドの体が、一際大きい赤い輝きを放った。
それは圧倒的な感情の発露に呼応した瘴気の目覚め。
だが、シースが彼に仕込んだのはそれだけではなかった。
赤い光が、陽炎のようにサラドの体外に漏れ出した。
光量の増幅に紐づくように、ナナリーの感じた得体の知れない気配がどんどん濃くなっていく。
「ま、まずい! シン王! 早く首を──」
「──もう遅いですよ。これで完成です」
「チっ、 あなた何をしたの?」
油断なくシースに剣を向け、ナナリーが問い質す。
背後のアレに切り掛かりたいが、目の前の男の力量が計れず背を向けるのは憚られる。
目の前の男を切り捨てるには時間がかかりそうで、そうなると背後から感じるプレッシャーにシン王やメイドのレイが心配だ。
奇妙な膠着状態が続く中、ナナリーはシースの確保を諦めようとしていた。
明らかにシースよりもサラドの気配の方が厄介だと直感していたからだ。
だから最後に少しでも情報を引き出そうと、気配の正体を確かめようとシースに話しかけた。
「瘴気とも違うわね、あれ」
「ええその通り。瘴気ではありますが使い方が違うのですよ」
「使い方?」
やはりこの男は厄介だと、ナナリーはすぐに斬りかかりたくなる衝動を我慢しながら注意深く会話を続ける。
「ここはパラティッシ。かつて竜神がその身を休ませた場所と言われてますが……なぜ竜神はこの地にいたと思います?」
「どうでもいいわ」
「ククク、聞いた方がいいと思いますがね。竜神はとある巨神との戦いで満身創痍になりながら、最後の力を振り絞って巨神をこの地に封印したのですよ。封印を安定させつつ、失った力の回復を行う。そのため竜神はここに滞在したのです」
「封印……ってまさか⁉︎」
背後から感じる気配の正体とサラドの行く末を知ったナナリーが驚愕の表情を浮かべた時、シースは満面の笑みで別れを告げた。
「それでは皆さん、ご機嫌よう。生き延びたらまた会いましょう。実にいい余興でした」
愉快気な言葉をナナリーの耳が拾っても、彼女は動かなかった。
振り返ったナナリーの前には変質したサラドが取り残されている。
種族覚醒者ですら苛む悪寒と怖気の正体。
ナナリーは動けず、ただただ目の前の赤い光を慄きながら見つめていた。




