暗雲と雨
パリン、と。ガラスの割れる音が部屋の中に響いた。
砂の国の特産であるガラス細工が施された綺麗なワイングラス、これひとつで4人家族の人間が一月は食うに困らぬほどの高級品。
それが壁に叩きつけられ、無惨に砕け散った音だ。
「くそっ‼︎」
音の原因、手に持ったグラスを激情にかられ壁に投げつけたサラドは怒りを抑えきれずに、周囲の物に当たり散らす。
「くそっ! くそっ!! エリザベスめ……!!」
シンとエリザベスが去った王宮の一室。
自身にあてられた豪華な部屋の調度品を荒らし回りながら、サラドは一人、恨み節を垂れ流していた。
「おやおや、どうされたのですか?」
「誰だ⁉︎」
そんな彼を訪ねる者がいた。
部屋に入ってきたのは金髪青眼の優男。
神竜教の教皇シース・メルガザルその人だ。
「こ、これはシース教皇……お恥ずかしい限りです」
「怒りをお納めください。サラド公爵。ご安心を、私はあなたの味方ですよ」
「シース殿……」
水面に波紋が揺らぐように、その心地よい声色がじんわりとサラドの心に広がり安堵感をもたらす。
シースの声は彼の怒りをたちまちに鎮めたのだ。
──カリスマ。
声色も、その格好も、そして生まれながらのその美しい容姿も。
全てが調和しており彼の姿を見る者、彼の声を聞く者を魅了する。
ともすれば、何処ぞの大国の王族であってもおかしく無いと、そんな印象をシースに抱きながらサラドは彼に感謝を述べた。
「ええ、ありがとうございます。シース殿」
「先ほど王子の使いが来られました。何でも王宮で開催される晩餐会に招きたいと」
「ちっ、ベイロンめ。なら儂も……」
同行を申し出ようとしたサラドを牽制するように、シースは言葉を続ける。
「同伴できるのは教団幹部一名のみ。国賓をもてなす際に使用される場所だそうで、例外は認めないそうです」
「くっ、そんなものいかようにも言い訳がつきます。あなたには儂が着いて……」
「ですので、枢機卿のカドックを連れて行こうかと思います。私もこの状況で王子の心象は損ねたくありませんから」
「なっ⁉︎」
シースの言葉にサラドは再び憤る。
己を信じる者を裏切っても、裏切られる方が間抜けだとサラドは常々考えていた。
しかし、いざ自分がその番になると彼は己のことを棚に上げて相手の悪に憤慨する。
「儂を裏切るのか⁉︎ この国に入るまで、ずっと便宜を図り続けたこの儂をっ‼︎」
「そう怒らないでください。王子に危機感を抱かせ、私たちの存在価値を高めてくれたあなたにはとても感謝していますよ」
「もう用済みということか⁉︎」
「いいえ、とんでもごさいません」
慌てふためき、怒り心頭、唾を撒き散らしながら喚くサラドに、シースは微笑みを崩さぬまま言葉を続けた。
「あなたにも有利になるよう、一つ提案があります」
「提案? 一体どういうことですかな?」
「まあ、提案というより、是非我らが今から行うことに許可をいただきたい」
「ん? シース殿、一体何を……」
「きっと、あなたも気に入りますよ。では、参りましょう」
「お、おい! 一体何処にっ」
サラドの言葉を最後まで聞かぬまま、シースは部屋を出ると、王宮の外門まで歩いて行った。
「ちっ、何だというのだっ!」
本来であれば、この国においては王の次に権威を誇るサラド。
そんな彼が仕方なくシースの後に文句を言いながらも着いていく。
サラドは今の自分の立場をよく理解していた。
ここで彼に見捨てられれば、己の立場がいよいよ危ういのだと。
「有利だと……? 儂を裏切るつもりはないのか?」
王の近親であり、この国の権力者の頂点に位置するこの自分に、例え相手が非礼な扱いをしたとしても、サラドは激昂することなくシースの言葉を冷静に思い返し頭を巡らせた。
──そしてこれが彼にとっての転機となる。
重たい腹をたぷんたぷんと揺らし、すぐに大量の汗で全身を濡らしながら、サラドはシースと一緒に城下街の大広場へと足を運んだのだった。
※
「父上、お久しぶりです」
彼が挨拶したのは、大きな墓碑だった。
シンは墓碑に向かって屈むと、持ってきた花束をそっと手向ける。
「父上がお亡くなりになって数ヶ月。この国は今、激動の時代を迎えたかもしれません。全く、困ったものだよ」
困ったように父の墓前に話すシンは、普段の王子としての振る舞いからは想像もつかないくらい子供っぽい。
「そろそろあなたの死を公表して、腹を括って王位につく時がきたのかもしれませんね」
そう、パラティッシの国王アブラハム・パラティッシは既に没していた。
魔王の瘴気によって体を侵され、この国に戻った時には既に瀕死の状態。
王でありながら戦士でもあった彼の痛ましい姿に、シンが大きく動揺したのを今でも鮮明に覚えている。
そして、王は一人息子に一声もかける間も無く、その生涯を終えたのだ。
「内乱が治まった矢先に王の死。流石にあの時は堪えましたよ」
王の死を前に、腹心が憂慮したのは不安定だったこの国の政情に訪れたこの平和が崩れること。
故に王子も我がアバローナ家も、王は病床に伏せっていると情報を改竄したのだ。
サラドにすら気づかれぬように、魔法で王の骸に細工を施してまで……。
「これが王族の現状よな。本来、死は悼むべきもの。この国の発展のために身命を賭した父の死を公表も出来ず、挙句にその遺骸に──」
「仕方ないわ、シン。何よりも優先するべきはこの国の安定。きっと、アブラハム様もご理解くださるわ」
墓前を前にして弱気になったのだろうか。
珍しく弱音を吐くシンに、私は強くあるように求めた。
「──お前は強いな、エリザベス」
「強くなくてはいけないのです。それがこの国の貴族に生まれた者の宿命ですから」
そう返す私の言葉にシンはじっと考え込んだ。
私にしては珍しく、この時のシンが何を考えているのか全く想像できなかった。
長年一緒にいたので、シンの思考は手に取るようにわかっていたつもりだったのに。
シンはじっと私の目を見つめると、何かを覚悟するかのようにそっと瞼を閉じた。
「……そうか」
絞りでた声はため息のようで、私は彼がうなづいたのだと一瞬気づかなかった。
いつもと様子の違う彼にかける言葉が見つからず、なんとなく場の空気から逃げるように王の墓碑に目を向けてしまう。
「なあ、エリザ。もし我が──」
シンが私に何かを言いかけたその時だった。
「──えっ?」
ポツポツ、と。
冷たい雫が私の肌を濡らし始めたのだ。
乾いた石碑も無数のシミができ始め、私とシンは驚き空を見上げる。
太陽の照りつく快晴の空。そんな空に、不自然なほどに大きな雲がみるみると渦巻き始めていた。
「この雨は……」
「まさか神竜教が⁉︎」
「は? いや、そんな……この街、いやこの国全体を覆うほどの雨雲だと……? 神竜教の奇跡というのはこれほどのものなのか⁉︎」
驚愕する私たちを前に、快晴の空に突如として形成された雨雲が太陽の光を覆い隠す。
周囲一体を暗くし、続いて降り注いだのは、この国の誰もが待ち望んだ恵みの雨だった。
「王子‼︎ エリザベス‼︎」
呆気に取られる私たちに呼び声がかかった。
声の方に目をやれば、雷光水晶を手にした私の父、アバローナ・ベイロンが血相を変えて駆け寄ってくるではないか。
「急ぎ王宮にお戻りください!」
「どういうことだ、アバローナ? 一体何が」
「やられました……」
「ん? どういうことだ?」
鎮痛な面持ちで父は悔しそうに言葉を紡ぐ。
「まさか教皇がこのように行動を起こすとは……予測できなかった私の責任です」
「アバローナ、謝罪はいい。何があったか申せ」
「……今、教皇が民を扇動しています」
「何?」
父の言葉に私も驚きを隠せない。
シース教皇の勝手とサラドとの結託を許さないため、あえてあの場で夜の会食の段取りを組んだというのに。
彼にとってこの地に本拠地を構えることが目的なら、王子の心象を悪くすることはしないはず。
「まさか……お父様、神竜教はそこまでサラドとの関係が?」
「わからん。だが、民を扇動しているシース教皇の横にはサラドがいる」
「そんなっ!」
シース教皇の出方は理解し難いものだった。
サラドよりも王子との関係を強化した方が神竜教にとってもメリットは大きいはず。
「そんなこともわからない教皇ではないと思ったけど……」
「そんなことは今はいい。アバローナ、転移水晶は持ってきているな?」
「はっ! ここに」
「では早急に戻るぞ」
こうして私と父、そしてシンは急いで王宮へと転移した。
王子の帰宅を待ち構えていた大臣達が急いで彼を出迎える。
「王子、広場の方へ!」
彼らに案内されながら、私たちは王宮のテラスへと急ぐ。
テラスからは城下街の大広場が見渡せる。大臣達はそこからの景色を王子に見せたかったようだ。
「これは……」
今、城下街の大広場では多くの人々が集まっていた。
恵みの雨に感激するように、皆が歓声をあげている。
「違う、彼らは讃えているのだ……」
「え」
シンの言葉にもう一度、広場の民の声をよく聞いてみた。
そして聞こえてきたのは──
「「「オオオオオオオ‼︎」」」
唸るような民達の声。そして続く言葉は──。
「「「神竜教万歳‼︎」」」
「そ、そんな⁉︎」
「ふ、ふふふ、まさか雨ひとつで我より人気を獲得するとはな」
元々内乱の激しい国だったこともあり、この国の人々の心の奥底には常に王家への不信感があった。
それに加えて雨季の遅延と干魃に苦しんだこともあり、残念なことに今の王家への支持率はそこまで高くはない。
ただ、この苦境が決して王家の責任だけではなく、私とシンによる最低限のライフライン構築によって不満はあるが死者が出ないことは一定の評価を得ていた。
──しかし。
私たちの手段は最善策ではなく、あくまで応急処置に他ならない。雨季の遅延と水源枯渇問題の抜本改革を行うほどの力が王家に……私達に無かったのもまた事実。
それを知る民に、神竜教は抜本的な対策を、そしてその効果を実演して見せたのだ。
「さあパラティッシの民よ! 太古の昔、我らが竜神がその羽を休ませていた聖なる地に住まうのものたちよ!」
降って湧いたこの奇跡を前に、それこそ神を崇めるように民達は大袈裟に語るシース教皇を見ている。
「この地には、あなた達には竜神様の寵愛がもたらされるだろう! 見よ! 干魃にあえぐこの国に我らを遣わされた竜神様の奇跡をっ!!」
「「「お、おお──!!」」」
彼れらが発動させた魔法は瞬く間に国土を、そしてこの地の民の心を潤していった。
「「「神竜教万歳! 竜神様の寵愛に感謝を!」」」
長期の日照りによる水不足にあえぐ人々、そしていつしかまた争いが起きるであろうと自分達の未来を憂いる国民に、その恵みの雨は平等に降り注いだ。
この国の為政者であり、政の頂点であるシンと私たちは、目の前で行われる民への求心をただ、黙ってみているしか無かった。
※
「ご覧いただけましたかな? 王子」
「シース教皇……」
広場へ訪れた私たちをシース教皇と教団の幹部勢が出迎える。
シース教皇は謁見の間で見た時のまま、温和で清廉な笑顔を浮かべている。
まるで、一つの害悪もないかのように。今しがたの行動に、まるで一切の打算ないと思わせるように。
「どうでしょう、王子。夜の晩餐会にはまだ早い。この後、少しお茶でもしませんか?」
「そこで、この件について説明してくれるのかな? 雨を降らせる奇跡……確か交換条件のはずだったと記憶するが」
シンが今しがたの教皇の行動を暗に咎める。
そんな彼の言葉に対し、シース教皇の横に立っていたサラドがいやらしい笑みを浮かべた。
「教皇は儂等の国の現状を見て、善意で動いてくださったに過ぎませんぞ、王子」
頼まれてもいないのに、でしゃばり、教皇を擁護するサラド。
やはり神竜教とサラドの関係は深いらしい。
そんな二人に王子が顔を顰めた時だった。
「我ら二人、男同士で少し話したいことがあるのですが……いかがでしょうか、王子?」
シース教皇が王子を誘ったのだ。
王族、しかもこの国の頂点との二人きりの密談の要請。
まさかこんなにも堂々と言い放つとは、正直驚きを隠せない。
それは、おそらく何も知らされてなかったサラドも同様で、驚いた表情を浮かべ教皇を見た。
「──良かろう」
「王子⁉︎ 流石に二人きりというのは……」
いくら相手が神竜教の長とはいえ、王族が二人きりで会談するなどあり得ないことだ。
それにシース教皇は頭が回る。正直、何をしでかすかわからない。
元々彼に抱いていた違和感もあり、私は王子を引き留めた。
しかし──。
「下がれ、エリザベス。衛兵は付けるので問題なかろう」
「王子……?」
初めてのことだった。シンが政治の中で私を外すなんて。
イレギュラーが発生した時、彼はいつも私の考えを重用し、時には私の思考を読み取って行動してくれていた。
そんなシンが明確に、私を拒絶したのだ。
別に私の思い通りにしたい訳ではないのだけど、いつも彼は私のいうことを聞いて、頼ってくれていたのに。
この時不覚にも、雨が降ったこと以上にショックを受けたことを覚えている。
「それでは語らいましょう、王子。私はこの大組織の長として、あなたはこの国の長として、事前に擦り合わせた方がいいこともあるでしょう」
「ああ、そうだな。行こう、王宮にうってつけの場所がある」
「それはそれは、ありがたい。では、失礼」
シース教皇も幹部やサラドを置いて王子と一緒に去ってしまった。
残されたのはポカンとする教団幹部とサラド、そして私と父だ。
「珍しいな、王子が……」
父も普段の王子らしからぬ行動に疑問を浮かべている。
「ええ、そうですね」
彼の意図が分からず、私はただ不安に揺れながら彼を見送る。
普段の関係はともかく、シンが王子として命令した以上、私にはどうすることもできない。
「シン……」
神竜教の登場によってこの国を取り巻く環境が大きく変わろうとしていた。
そんな将来を示唆するかのように、降り注ぐ雨の中、空には見渡す限りどこまでも暗い雲が広がっていた。




