エリザベス・ベイロン
それは魔王の脅威が駆逐されるほんの少し前の話。
会長や勇者、そして名だたる超大国が共に魔王軍との最前線で激戦を繰り広げている中、その陰でとある小国に緩やかに侵食していた悪意の話だ。
「魔王の脅威よりも、私たちは内乱がまた起きないかを心配しないといけないわね」
澄み渡る青空の下、王宮の一画にある庭園の中で。
私──エリザベス・ベイロンは物憂げに、隣に座る男へと話しかけた。
浅黒い肌に引き締まった体。精悍な顔つきはまさに戦士だが、彼は歴としたこの国の王族。
この国の王子シン・パラティッシは穏やかな笑みを浮かべながら、私に言葉を返した。
「何、我とお前なら問題ないさ」
何でもない風に平然と言ってのける王子。こちらの杞憂を無視してあっけらかんとしている彼に少し不満を覚えたのでそのままぶつける。
「ちょっと、何油断してるの。王になろうというお方がそんな心がまえでどうするのよ!」
魔王の脅威の前に今は沈静化しているとはいえ、この国では内乱の歴史が長い。
言わずもがな、乏しい水資源を巡ってのことだ。
雨季の到来は定期的だが、その時期がわずかに遅れようものなら途端にこの国の水源は枯渇する。
はるか砂漠の遠方には無限に水の沸くオアシスもあるのだが、そこは強大な魔獣たちの棲家にもなっていた。
この国まで水を引くライフラインは到底作れない。
そして今、この国では雨季の到来が遅れていた。
原因もわからず、民の多くも不安がっている。
ただ、今は魔王討伐のため加盟している世界連盟による補助があるため、なんとか民の不満をおさられているがそれもいつまで持つかわからないのだ。
「陛下の余命が尽きようとしている今、あなたがこの国の砦なのよ?」
世界連盟の補助による束の間の平和の享受。
だが、その代償は大きかった。
魔王討伐のため軍を率いて前線に赴いたシンの父親であるアブラハム王。
魔王の軍勢に戦線を突破され、本来安全圏にいたはずの王は負傷し、命からがらなんとか逃げて帰国した。しかし瘴気に侵されてしまったその命はもう間も無く消えるだろう。
王妃はシンが子供の頃に亡くなり、嫡男はシンただ一人のため、今は彼こそが実質の王なのだ。
だというのに、この男は──。
「ふふふ、そう怒るなエリザ。お前が妃になってくれるのであれば、我が王位を継いでもこの国は安泰というものよ」
「またそうやって適当なことを……」
「我は本気でそう思っている」
そう言って彼は優しく私の髪を撫でた。
「ちょっと⁉︎」
不意をつかれてしまったので、ついびっくりしてしまう。
「なんだ照れたのか?」
「て、照れてないわよ!」
「ほーう?」
「み、未婚の淑女に気軽に触れるなんてはしたないわよ!」
「くくく、全く。交渉となれば過激に大貴族ともやり合うお前が、まさかこんなにウブだとはな」
王宮に拵えられた庭園で、輸入した茶葉で作った紅茶を飲みながら。
シンはよくこうして私のことをからかった。
「こんな破廉恥な男ならやっぱり婚約の話は……」
「悪かった悪かった! 機嫌を直せエリザ。我はお前以外の女など妃に迎えるつもりはない」
「むう、口だけは上手なのね」
「本心さ。我は初めてお前と出会った幼少の頃より、お前以外を見たことはないよ」
「あ、そ」
真っ直ぐ私の目を見つめる彼の瞳は、まるでこの空のように青く美しい。
そんな顔で甘い言葉を紡ぐものだから、私はまた顔を赤くしてしまう。
ただ、それを気取られてしまえばまた彼の悪戯心に火をつけてしまう事になるだろう。
誤魔化すように、私は急いで席を立った。
「なんだ、もう行くのか?」
「ええ。サラド公爵がまた厄介ごとを起こしそうなの。ちょっと出向いて釘を刺してくるわ」
「またサラドか……」
そう言ってシンは頭を抱えた。
サラド公爵。
私の父、ベイロン公爵と同じ爵位である大貴族だ。
当然、サラドにも派閥がありその力は無視できない。
今はベイロン家が王家との婚約を公表しているため、勢力としてはこちらの方が上だ。
だが厄介なことに、サラドには王家の血が流れている。そしてそれははるか遠縁であるベイロン家よりも近くて濃いのだ。もしシンに何かあればこの国の王位を継ぐのは間違いなくサラドになってしまう。
「流石にこの情勢において我をどうこうしようとはサラドも動かないだろうがな」
「ええ、彼は小物だもの。でも、小物だからこそ定期的に釘を刺しておかないと勘違いして増長してしまうわ」
「だな」
私は父の力をふんだんに使い、他の貴族に睨みを効かせている。もちろん、王子との婚約者という立場も大いに利用している。おかげで私に逆らう貴族は少ない。
もちろん、全てはこの大事な時期に要らぬ災いをこの国に……王となるシンに降りかけないためだ。
「しかし我とエリザの関係を知ってまだ何かを企むとはこの国の貴族は阿呆ばかりか」
「それについては同感ね」
「よし、サラドの前で我とお前が夫婦の契りを見せつけ──」
「ふんっ!」
一番阿呆なことを言い出したシンの頭を思いっきり引っ叩く。
地面に倒れ伏した王子を無視して、私は庭園の出口まで歩いていった。
「エリザベス、迎えにきた……って何故王子が地面に倒れている?」
ちょうど、私を出迎えに来た父が倒れ伏した王子を見つけた。
「王子は少し日差しにやられてしまったのです。ご安心を、侍女を呼んでおりますので」
「なんと」
父のアバローナは少し価値観が古い。
女性は貞淑にという固定概念が強いので、私はいつも適当に誤魔化している。
王子を叩いたなどとバレたら小言が滝のように降ってくるのは明白だからだ。
サラドの前に父まで相手にするのは得策とはいえない。
「大丈夫ですか、王子?」
「あ、ああ」
「行きますよ、お父様」
「いやしかし、王子が……」
「大丈夫と王子も申しておりますので」
「む、むう」
ちなみに私が腕を掴むと父は簡単に私に従った。
父の執事の話では私にこうされると嬉しいらしい。
長年子宝に恵まれず、年老いてからようやく私ができたせいと聞いたのでまあ理解はできる。
我ながら性格が悪いと思うが、向こうもまんざらでないのなら別にいいだろう。
「くくく、あの親バカめ」
背後から聞こえるそんな王子の言葉を無視して、私は父を引っ張っていく。
私は物語の姫のように、大人しく男性に従うという性分ではない。
どうしても動かずにはいられないし、じっとなんてしていられない。
そのせいで決して順風満帆な人生とはいえなかったけど、父と、そしていずれ夫となるシンがいるならどんな困難も乗り越えていけると信じていた。
「ばか王子」
「ん、何か言ったかエリザベス?」
「いえ、何も」
当時の私は決して認めないだろうが、私はちゃんとシンに惚れていた。
政略結婚だったとしても、私はシンを愛していたのだ。
そしてそれはきっと、シンも同じと、そう思っていた。
「うふふ」
「ど、どうした?」
「いえ、何も」
「む、むう」
機嫌をころころ変える私を訝しみながらも、私に腕を組まれて父はどことなく嬉しそうだった。
私はきっと、それこそ今の会長と副会長のような仲睦まじい夫婦になって、仲良くこの国をシンと一緒に治めていくのだと。
まるで年頃の乙女のような理想を抱いていたのだ。
──その時までは。
「王子!」
王宮に控える大臣が血相を変えて庭園に飛び込んできた。
「何事だ?」
「サラド公爵が謁見に参りました!」
「サラドが?」
ただならぬ気配を感じてシンも表情を引き締めた。
「お父様」
「うむ」
私たちも魔道馬車へ向かうのをやめて、シン王子の側へ向かう。
「サラドには儂が出向くと伝えていたはずだが」
父の言葉に大臣は顔を青くして、俯きがちに答えた。
「お一人ではないのです」
「うむ? 誰か付き添いのものが?」
「はい。どうやらサラド様はあくまで橋渡しのようでして」
「サラドは謁見の間に?」
「え、ええ……って王子! その方は──」
私たちはサラドと一緒に現れた者の名を聞き、共に王宮へと急いだ。
「病床の陛下に代わり、王子たる我が要件を聞こう」
王座に座ったシンの前に傅く男。
靡く金髪はまるで絹のようで、優しげに、温和に微笑む姿はまさに聖人。
他国の王族と言われても納得するほどの美貌に、宮殿の女官も頬の紅潮を隠せない。
その男の横にはサラドがいた。側に控える私と父に対し、太々しい笑みを浮かべながら。
「お初にお目にかかります、シン王子。私は神竜教の教皇シース・メルガザルと申します」
「神竜教の教皇……」
そして私の理想は、この日から全てが崩れていった。
 




