プロローグ
一ノ瀬樹はゲームに疎い。
元々ゲームに興味などなく、仮にあったとしてもゲーム機を買ってもらえるような家庭ではなかった。ゲームだけではない。漫画あるいはアニメと言ったものに至るまで、樹の親は許さなかった。
とはいえ、一切そういったものに触れなかったわけではない。友人の家で何度かゲームはプレイしたし、学校で週刊漫画を読んだこともある。ただその程度である。
だからこそ、樹にとってこの世界は新鮮だ。
「現実世界よりもこっちの世界の方が美しいよな。街並みにしろ、自然にしろ。生活が少し変わったぐらいで、目標が決まっているこっちの世界の方がずっと過ごしやすい」
樹は上る塔の窓の外に広がる世界を見てそう呟いた。
塔の床、壁あるいは天井に使われている石材、所々にある光源の明かり、肌を撫でるかすかな風。そのどれもがプログラムだとは樹には到底信じられず。
視線左上に見える自身の体力と魔力、そして唐突に現れる化け物がこの世界が現実世界でないと示していて。
樹はこんなことを考える度に自身の境遇を実感してしまう。そして毎回、樹は今更何を言っているのだろうと笑うのだ。
ここがゲームの世界だとは十分承知しているはずなのに、と。
「まだ塔の半分だ。早く上ろう。早くしないと明るいうちに帰れない」
樹はそう言って、再び塔を上り始める。
塔を上り始めてからずっと早歩きだったが疲弊はない。疲弊を感じ始めるのはスタミナが四分の一を切ってからである。
このスタミナは移動や戦闘で適切に減り、食事や水を適度に取らないと回復しない。しかしこのスタミナの最大値はレベルによって上昇する。適正レベルでこの塔へ来れば中間地点で一度回復させないといけないが、今の樹ならば回復させなくても十分入口から頂上まで移動するだけのスタミナがあった。
それでも慢心はいけない。
スタミナ回復には時間が掛かるのだから、余裕があるうちに回復させるべきである。
だから樹はアイテムウィドウを開く。
この開くという行為は樹の意思で行うことができる。何時でも開くことができ、何時でも閉じることができる。操作も意思によるため、操作性の利便は良いが、開いている間は視線に常にアイテムウィドウが広がっているため戦闘時は視線の邪魔になる欠点がある。ただ、これは言い換えれば戦闘しながら操作できる利点でもある。
また意思操作するか手動操作するかを選択でき、後者にすると他の人間にアイテムウィドウを見せることができる。
樹は自身の視線にのみ映る複数のタブ。その一つである食料欄を開き、移動しながらでも食事可能な食料を一つ、サンドイッチを選択する。
個数は45個だったのが44個になり、サンドイッチが樹の手の上へ現れる。それを掴み、樹はほおばった。
このサンドイッチも元をたどればデータである。
それに違和感を覚えることを、樹はとうに忘れてしまった。
この塔の名前はクーラの塔と呼び、様々なダンジョンの中でも珍しく道中はガーディアン系のモンスターしかスポーンしない。しかしながら頂上にいるボスモンスターはガーディアン系ではないと、統一されているようでされていない塔である。
見た目は石材造り、地味な外見とは裏腹に、内部の複雑さは素晴らしく、様々な装飾がされている。
そんなクーラの塔は最も近い街から大分離れており、高い建物でありながらまず発見からして難しい。それでいてこの塔の攻略難易度は適正レベルであっても難しく、内部が複雑で頂上に到達するまでに疲弊させる作りになっていると、非常にいやらしいダンジョンだ。
余談だが、元々は人が住む塔であった。しかしながら突如現れたモンスターが占領してしまったというストーリーがある。
このストーリーは長くはないが、塔攻略に必要な情報があるため、面倒臭くても聞かざるを得ない。聞かなくても攻略ができるだけの知識と知能があれば良いのだが、あいにくと樹は持ち合わせておらず、昔攻略していた頃は、何度も同じストーリーを聞いたものだ。
今となっては攻略に必要な、塔のマップ、スポーンするモンスター情報およびカラクリの解除方法、はてはボスの攻撃パターンや弱点まで、クーラの塔に関する質問は何であっても答えられるようになった。
迷路のような下層を最短で抜け、様々なモンスターが襲い掛かる中層を適当にあしらい、上層は攻略後のボーナスとして使用可能な転移装置でやり過ごす。
そして、上り詰めた塔の最上階層。樹は目当ての一室へ一目に向かい、巨大な扉を開けて中に入る。
樹が攻略したこの塔を再び上った目当てはこの一室にスポーンするモンスターである。
各自様々な武器を手に持つ白銀甲冑のモンスターは樹を見つけるや否や、攻撃を仕掛けて来る。
名前はフェアリーガーディアン。
この塔では頂上にいるボスモンスターを除いて最も強いモンスターである。攻守揃えたステータスに高い耐久、それでいて様々なスキルを使う。一部に特化したモンスターとは違い、バランスの良いモンスターは非常に厄介である。
しかし、樹にとって何度も、それこそ何百、何千単位で狩ってきたモンスターであり今更手こずるような真似はしない。
攻撃を後ろに避け、反撃に転ずる。
腰にある剣を抜き、構える。
そして。
ゲームシステム上に存在する攻撃補正、攻撃モーションにより、鋭い太刀筋となり、周囲のフェアリーガーディアンを攻撃する。
閃光のような太刀筋は円を描き、フェアリーガーディアンたちはダメージによるノックバッグで数歩樹から離れる。
そこをつかさず、樹は追撃を行う。最も自身から近いフェアリーガーディアンとの距離を縮め、剣を振るう。
一撃、二撃、三撃。
三度目の斬撃で、フェアリーガーディアンの一体が転倒した。
そしてそのフェアリーガーディアンは音と共に崩壊する。残った残骸である鎧は光の粒子となって消えていく。
これがモンスターの死。
その光の粒子は経験値として樹に吸収され、視線左上に収得アイテムが表示される。
目当てはモンスターというよりもこのドロップアイテムである。Aランクの金剛石。装備やアイテム制作、はてはクエストの至るところで必要となるアイテムである。
「さーて、頑張りますか。とりあえず、数百単位で集めたいな」
かつてこの世界はゲームの世界として様々な人にプレイしてもらえる予定だった。
HEG。
剣と魔法の王道世界を舞台に、オープンワールドと独自のゲームシステムを強味に開発が続いたオンラインRPGの名である。
しかし、そのゲームの正規版が世に出回ることはなかった。
テストプレイヤーを集ったのが四か月前。テストプレイヤーがベータテスト版をプレイし始めたのが三か月と二週間前。そして、ゲームのサービスが断念されたのが三か月前。
何故、ベータテスト版を公開しておきながら、開発が断念されたのかを知る者は開発者あるいはその関係者しか知らない。
いや、知る必要がない。
その日。
数万人の人間がプレイヤーとして、ゲームの世界に運ばれた。
運ばれたという表現は正しいのかは分からないが、日常生活が一転してゲームの世界に入ったとなれば、そう表現しても良いだろう。
自身の見に何が起きたのかを知る者はいないし、そのほとんどがこのゲームの存在を知らない人間であった。
その何で、ゲームを知らないプレイヤーの一人として。
不運にも樹はこの世界で目が覚めた。